礼節に欠ける

月も変わり、8月となりました。

実は7月は自分にとっての節目の月でもありました。

ある人の定年退職。

自分がこの病気になる、要因になる人が会社から退職する日でもありました。

自分にとっては嫌で嫌で、顔も見たくない人なのですが、実際いなくなってみると、せいせいした感情は不思議と起こってきませんでした。

最後にその人が、挨拶まわりをするときもあえて自分には触れずスルーしていきました。

今となっては、何故そうしたのかは確認のしようはありません。

自分から声をかけるべきだったのでしょうか。

確かに、10割の内9割は酷い目にあいました。でも、あと1割は助けてもらったことも事実です。

そこには憎しみだけではなく、微かな感謝の気持ちがあったことは事実です。

でも、自分はその1割の感情を表に出すことが、できませんでした。

最期くらい感謝の気持ちを伝えるべきだったかと気持ちが落ち込んでいるのです。

いなくなっても、自分を苦しめるのかと、また、怒りを感じ憎しみに感情を奪われているのです。

今ここで思い返すと、なぜが酷いことをされた思い出が消えていくのです。

かと言って、憎んでいる感情は消えてはいません。

この天秤をいつまで背負うのでしょうか。

恐らくこの人が、灰になり消えて無くなってしまっても、自分の天秤は軽くなることはないでしょう。