料理人からみる日本の歴史

天皇の料理番はいよいよパリ編になりますね。

「天皇の料理番」は大正天皇、昭和天皇と二代天皇の料理番として奉職なさった秋山徳蔵氏の物語です。

今回は他の方のブログを紹介します。

話は戦時中の話です。

きびしい食料難の中、昭和天皇は干し野菜をお召し上がりになっていたそうです。そして戦況などどこへやら酒池肉林にふけっていたのは、役人どもと軍部だったそうです。

特に終戦直前の昭和天皇は御心痛からかたいそうお痩せになられ、秋山徳蔵氏は胸を痛めたと回想しておられます。

終戦後、昭和天皇は「ヤミのものは使ってはならない」と厳命されたそうです。当時はヤミのものは口にしないと宣言した裁判官が餓死したり、そういう時代だったので秋山徳蔵氏のご苦労は並大抵ではなかったと推察できます。

出典:2005(平成17)年 中央公論社 秋山徳蔵 「味-天皇の料理番が語る昭和-」 終戦前後覚え書

終戦前夜の宮中食生活

 私が一生のうちで、いちばんみじめな思いをしたのは、戦争末期から終戦後の被占領時代にかけてであったろう。

 陛下の思し召しによって絶対にヤミのものを買ってはいけないことになっていたので、食事の材料の乏しさには、ほとほと困ってしまった。

 川島四郎さんの紹介で、信州に行って、あのへんでやる乾燥野菜のつくり方を研究し、相当に備蓄をしておいた。その乾燥野菜に乾パンというようなものをさしあげねばならなかった。

 陛下はたいそうお痩せになった。食物のせいというより、御心配のためであったとお察しするが、食がお進みにならないのには、実に胸を痛めた。

 その頃、軍部に行くと、驚くほどの食料品があった。肉、魚、缶詰、砂糖、味噌、醤油の類はもとより、日本酒、ビール、ウイスキーの類が山ほどあった。下っ端(ぱ)の兵隊は飯に乾燥野菜を食って、ヒョロヒョロしているのに、上層の連中は、御用の料亭で酒池肉林にふけっていた。

 役人どもも、上の方の連中は、いろいろなルートから市中にない食品を手に入れて、うまいものにはこと欠かない者が多かった。

 そういう状態を見聞きすると、それと宮中のみじめな有様(ありさま)と引き較べて、腹の中が煮えくり返るようであった。

 食欲のお進みにならない陛下に、何とかしておいしいものをさしあげたい、栄養のあるものを召しあがって頂きたい。あけくれ考えることはそれだけであった。

 栄養のあるものでも、おいしくなければ何にもならない。おいしく召しあがって頂いてこそ御身体につくのである。

 だから、調理の苦心というものは、私の一生のうちで、この時代が最大であったと思う。

 だが、いくら調理に苦心してみたところで、材料は絶対である。材料がなければ、どうにもならぬ。それで、よほど困ったときには、仕方なく陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)にいって、少々のものをもらってきたこともある。もちろん、陛下は御存じないことで、今もって御存じないことと思う。

 戦局はいよいよ最終の段階に達した。B二十九の編隊が毎日のように、帝都を襲うようになった。私どもは大膳寮に泊りっきりで、空襲に備えていた。陛下はやはり御文庫にいらした。長野県の山の中へという話もあったが、最後の日まで、御文庫の防空壕においでになったお心のうちをお察しすると、涙を禁ずることはできない

ひとりの料理人からみた、歴史ですが如何だったでしょうか。

ドラマではここまでやるかは、分かりませんが。

日本の歴史は、昔よりも現代に近いほうが、重要です。

なぜ、私たちは日常生活をできるのでしょうか。

それは、名も知れない人々の苦労の上に、なっていることを忘れてはいけないのです。