会津藩と松山ケンイチさん

ゴールデンウイークも終わり、明日からまた通常の生活に戻ると言う方は多いのでは。

昨日に引き続き歴史のお話。

幕末に起こった戊辰戦争のなかの、会津戦争の話。

江戸城、無血開城により徳川慶喜は水戸で謹慎するみとなり、事実上徳川幕府は崩壊したが、新政府側は佐幕派だった、会津藩をよしとせず、情勢は戦争へと流れていった。松平容保の会津藩に東北諸藩は同情的で新政府、西側諸藩と会津藩、東北諸藩、幕府諸隊、新撰組との会津戦争が始まった。火力兵力で不利の会津諸藩の敗戦は濃厚だった。この時、八重の桜の新島八重、白虎隊、二本松少年隊などの話は一度は聞いたことがあると思います。新撰組もよく戦ったが、敗戦し、そのまま函館の五稜郭の最終戦になる。

現代になっても、因縁は続き、
1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。

2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内閣総理大臣は、会津若松市を訪問したときに「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った。

震災では、

2011年(平成23年)3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問した。また放射性物質の除染作業に自衛隊の山口県の部隊が携わった際には、部隊長が県知事に直々に作業報告に出向いた。

友好として

2012年(平成24年)11月26日、萩市長は会津支援の一環として会津若松を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った。

Wikipediaより。

歴史は点在するのではなく、実は一本の線で結ばれている。

会津戦争後、会津藩士はほとんどが今の青森県、むつ市に移動した。

雪害や疫病などで生活は悲惨そのものだった。

時は流れ現代

この時ブログを書いているときに思った。

ひょっとしたら、松山ケンイチさんの先祖は会津藩士となんか関係があったかも知れないと。

まったくの推測の域だ。本人にとっては全く寝耳に水の話だろう。

でも、歴史はどこでどうつながっているか分からない。

松平から松山へ名を変えてはいるが、誇り高き、会津藩士の末裔かも知れない。