
第1章 依頼は涙でできている
《森下メモ 20:07 依頼者の母親。娘の勤務先を“会員制社交場”と断言――求人上は名称非公開のはず》
雨の粒が、事務所の窓を同じ速度で叩き続けていた。神谷探偵事務所の看板灯は半分だけ切れていて、「神谷」の「神」の字だけが暗い。外から見れば、どこか欠けた名前だ。中は蛍光灯の白さと、古い木棚の匂いと、インスタントコーヒーの苦い湯気が、いつものように混じっている。
私は受付机の端でノートを開き、時刻を書き込んだ。雨の夜の依頼は、だいたい人が嘘をつく。気圧のせいか、罪悪感のせいかは知らない。けれど雨の日の言葉は、晴れの日より少し重い。
「……娘を、探してください」
低く、喉の奥で擦れるような声だった。黒瀬澄江。四十代後半。髪は丁寧にまとめられているのに、傘の水滴がコートの袖口にだけ残っている。急いで来たのか、わざと急いだふりをしたのか、まだ分からない。
対面のソファで神谷はだらりと背を預け、こちらを見ない。眠そうな目で天井の汚れを数えているような顔だ。初めて来た依頼人は、大抵この態度に不安になる。私も最初はそうだった。
「失踪は、いつからですか」
私が聞くと、黒瀬は膝の上で指を重ねた。爪の形が整っている。家事で荒れた手ではない。細い金の指輪が、蛍光灯の下で一度だけ冷たく光った。
「三日前です。夜に連絡が途絶えて……それから、ずっと」
「お嬢さんのお名前は」
「真緒。黒瀬真緒です」
神谷がここで初めて口を開く。
「警察には」
「行きました。ですが、成人女性の家出の可能性もあるからと……。すぐには大きく動けない、と」
黒瀬の答えは滑らかで、引っかかりがない。あらかじめ用意した文章を読んでいるみたいに、順序まで整っている。私はノートにもう一行足した。
説明が整いすぎている。
「勤務先は」
神谷の問いは短い。
「会員制の社交場です。山のほうにある、紹介制の……高級クラブのような場所で」
私は顔を上げた。そこまで言うなら店名が出るはずだ。けれど黒瀬は、そこで言葉を切った。切り方が妙に綺麗だった。知らない人の沈黙じゃない。知っていて伏せる人の沈黙だ。
「店名は」
「……私も、正式な名前までは」
神谷は相槌を打たない。ただ、机に置かれた依頼票の端を指先で二回叩いた。あの癖が出るときは、頭の中で順番を並べ替えている。
黒瀬はバッグから一枚のカードを取り出した。黒地に銀の箔。仮面の紋章。裏面には住所と時刻、英字で短い文言。
Masquerade Night.
文字の飾りは派手なのに、紙質は硬くて実務的だ。遊びの招待状にしては、妙に事務的。
「真緒の部屋にありました。今夜、開催されるはずです」
私はカードを受け取り、指先で角の摩耗を確かめる。ほとんど傷がない。最近、封から出したばかりだろう。
「お母さまは、この社交場に行かれたことは」
「ありません」
即答。早すぎる。
私は続けて聞いた。
「建物の規模や、入場方法は?」
「……会員の同伴が必要と聞きました。あと、仮面着用がルールだと」
神谷がわずかに目を細める。私はその横顔を見て、胸の奥がひとつ冷えた。今の答えは、「行ったことがない人」にしては具体的すぎる。
黒瀬はハンカチを取り出し、涙を押さえた。泣き方が静かで、崩れない。悲しみより先に体裁が立っている。私はそれを責める気はない。人には人の守り方がある。ただ、探偵に持ち込まれるとき、その守り方は大抵、誰かを傷つける刃になる。
「お願いします。あの子は、そんなところで、ひとりで生きていける子じゃないんです」
神谷は依頼票に目を落としたまま言う。
「依頼を受ける条件があります」
黒瀬の肩が硬くなる。
「見つけることはする。連れ帰るかどうかは、状況次第。依頼人の希望より、現場の安全と事実を優先します」
「それは……どういう」
「言葉どおりです」
神谷の声は平らで、温度がない。冷たいのではなく、崩れないための硬さだと私は知っている。でも初対面にはただの無慈悲に聞こえる。
「もうひとつ。探偵は共犯にならない。違法な奪取や隠蔽には加担しない」
黒瀬は目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。次に顔を上げたとき、涙はちゃんと消えていた。
「……分かりました。見つけてくれるなら、それで」
神谷は依頼票を私に滑らせた。「受任」。私は記入欄に印を入れる。ペン先が紙を引っかく音が、妙に大きく聞こえた。
「森下、準備」
「はい、所長」
立ち上がると、椅子の脚が床を擦った。神谷はロッカーから古びたジャケットを取り、無造作に羽織る。だらしない身のこなしなのに、必要な物だけは一つも忘れない。小型ライト、薄手手袋、袋、ピンセット、無線機。違法な道具は持たない。それが神谷の線引きだ。
黒瀬は最後に、私へ一枚の写真を差し出した。娘、真緒の顔写真。二十代半ば、笑っているのに目だけがどこか警戒している。背景は夜景の見えるテラス。グラスの縁に指先が触れていて、ネイルは薄い灰色。
「この写真、半年前のものです」
「ありがとうございます」
受け取った紙は、体温より低かった。
ドアの前で神谷が振り返る。黒瀬をまっすぐ見た。
「ひとつ確認します。あなたは、娘さんを見つけたいんですね」
黒瀬はうなずく。
「ええ」
「見つけた先で、何が出てきても?」
短い沈黙。雨音が一段強くなる。
黒瀬はほんの少しだけ、唇の端を引き結んでから答えた。
「……はい」
神谷はそれ以上何も言わず、ドアを開けた。湿った夜気が流れ込む。階段の踊り場の電球が、黄ばんだ円を床に落としている。
外へ出ると、雨はさっきより細かくなっていた。街の光が滲み、道路標識の白がやけに浮く。車へ向かう途中、私はカードと写真をクリアファイルに入れ、ノートの余白に追記した。
依頼者の「はい」は遅かった。
娘を探したい、だけではない。
「所長」
助手席のドアを開けながら、私は声をかける。
「なに」
「依頼、変じゃないですか」
神谷はエンジンをかけず、ワイパーだけ一度動かした。フロントガラスの水滴が横へ流れて、またすぐ新しい粒がつく。
「変だよ」
「どこが一番ですか」
「全部だ。けど、順番がある」
神谷はキーを回した。低い振動が足元に伝わる。
「まず娘さん。次に社交場。最後に依頼人。逆から触ると壊れる」
「壊れる?」
「真実ってのは、順番を間違えると証拠ごと死ぬ」
私はシートベルトを引きながら、さっきの黒瀬の表情を思い出した。涙は本物に見えた。けれど本物の涙は、いつも正しいとは限らない。
車は雨の街を抜け、山へ向かった。信号が減り、街灯が途切れ、道の縁だけがヘッドライトに白く浮く。途中、コンビニで私は缶コーヒーを二本買った。神谷は受け取るだけで飲まない。湯気が消えるころ、いつもひと口だけ飲む。
山道の入口で、通信バーが一本に落ちた。ナビは更新を諦め、古い地図に切り替わる。カードの住所は、一般地図に載らない私道の先を示していた。
「この先、通報できないかもしれません」
「そのつもりで動く」
神谷は前を見たまま言う。
「森下、今夜は記録を切らすな。誰が何分にどこで何を言ったか。感想はいらない、事実だけ」
「はい、所長」
「それと」
神谷は短く息を吐いた。
「怖くなったら立ち止まれ。走るな。視界が狭くなる」
「……はい。」
私は小さくうなずいた。
怖さを認めることから始めるのが、神谷のやり方だ。
やがて黒い門が見えた。高い塀と、装飾の少ない鉄柵。門柱には看板がない。代わりに、仮面の紋章だけが小さく刻まれている。インターホンを押すと、機械音声が会員番号を求めた。神谷はカード裏のコードを読み上げる。
沈黙のあと、鍵の解放音がした。重い門が、雨を切るように左右へ開いていく。
私はノートを開き、最初の現場時刻を書いた。
21:02 到着。門、開放。外界との境界が閉じる。
神谷がエンジンを落とし、暗い敷地の奥を見た。
「行くぞ」
「はい」
その一言で、夜の輪郭が変わった。
娘を探すはずの仕事は、もう別の顔をしている。
私はペンを胸ポケットに差し、ドアを開けた。雨の匂いの向こうから、かすかな香水と、遠い音楽が流れてくる。仮面の夜が、始まる。
第2章 山奥の仮面社交場
《森下メモ 21:12 門内の砂利道。監視カメラは見えるだけで四台、死角は噴水裏と北棟回廊》
門が閉まる音は、思ったより軽かった。
金属が噛み合う、乾いた一音。それだけで、外の世界が遠くへ引いた気がした。
車は緩やかな上り坂を進む。両脇の杉が濡れて黒く、ヘッドライトに照らされるたび、幹が誰かの脚のように見える。ワイパーは一定のリズムで視界を切り分ける。切っても切っても、夜はすぐ埋まる。
坂を抜けた先に、建物が現れた。
社交場というより、山荘とホテルを無理やり繋いだような造りだ。中央の本館は低く広い。左右に渡り廊下が伸び、北棟と南棟を抱えている。外壁は石造り、窓は狭く高い。明かりはあるのに、歓迎の気配がない。
「所長、想像してたより……」
「城だな。逃げ道の少ない」
神谷は車を正面玄関脇のサービスヤードに滑り込ませた。エンジンを切ると、雨音の粒が大きく聞こえる。遠くで弦楽器の音が鳴っていた。クラシックなのに、何かが半音ずれているみたいな不安が混じっている。
勝手口には、黒服の女が一人立っていた。四十代くらい。背筋が硬く、笑顔が薄い。
「本日の臨時スタッフですね。遅れると困ります、急いで」
彼女は名乗らない。私たちの名前も聞かない。神谷は短くうなずき、私に目だけで「合わせろ」と合図した。私は持ってきたスタッフパスを見せる。依頼のカードに添えられていた仮コードを、神谷が事前に拾って作ったものだ。ぎりぎり合法のライン。偽造というより、管理の穴に乗る方法。
通された先は狭いバックヤードだった。
ハンガーラックに黒の給仕服が並び、棚には真っ白な半面マスクが整列している。鼻から上だけ隠すタイプだ。口元は出る。つまり、声と癖で見抜ける余地を残す仮面。
「所長、仮面は共通ですね」
「客は違う。スタッフは統一。混線させる気だ」
神谷はマスクを手に取り、裏の刻印を見た。「N-07」。製造ロットの数字だろうか。私は自分のマスクの裏を確認する。「N-19」。異なる。備品の管理は厳密らしい。
着替えを済ませ、黒服の女に案内されるまま廊下へ出る。床は濃い木目、壁に金色の間接照明。香りは柑橘と煙草と香水が混ざっている。金のかかった空間なのに、どこか病院の夜勤帯みたいに静かだ。
ラウンジに入った瞬間、視界が開けた。
天井は高く、中央に大きなシャンデリア。客は三十人ほど。全員が仮面をつけ、声量を抑えて談笑している。笑っていても、目元は笑っていない。グラスが触れ合う音だけが小さく響く。
私はトレイを持って歩きながら、無意識に数える。
一、二、三……五。
部屋の西側、暖炉前に、明らかに空気の違う五人がいた。
仮面の意匠が統一されていないのに、輪の硬さだけが同じだ。互いに近い距離を保ち、しかし背中は預けない。会話のたびに、目だけが他の四人を測っている。
白狐。黒鷹。翁面。夜蝶。青狼。
事前に決めた仮面名が、頭の中で勝手にラベルになる。
「所長。西側、五人」
私がすれ違いざまに囁くと、神谷は目線を上げずに返した。
「見た。森下、歩幅を拾え。背丈は嘘をつけるが、歩幅はなかなか嘘をつかない」
「はい、所長」
私は配膳の動線に乗りながら、五人の周囲をゆっくり回る。
白狐は足音が小さい。床を擦らない。
黒鷹は右足着地がわずかに強い。過去の怪我か。
翁面は歩幅が一定で、曲がり角で必ず一拍置く。
夜蝶はヒールが高いのに重心がぶれない。踊れる人の歩き方。
青狼はつま先が外へ開く。格闘系に多い癖。
そのとき、背後で女性客が声を上げた。
「今夜の主催、まだ顔を出さないの?」
隣の男が笑う。
「顔なんて最初から出さない会だろう。仮面を楽しむ夜だ」
私はグラスを置き、笑顔を作る。客の目は給仕に向かない。向かないことが、逆に怖い。透明人間でいるのは楽だが、同時に消されやすい。
ラウンジ奥の壁には、古い写真が額装されていた。
開業当初の集合写真らしい。仮面を持った男女が並び、中央に「MONT ROUGE CLUB」と金文字。英名はあるのに、外看板は出していない。隠すための伝統だ。
神谷が私の横に並ぶ。トレイの上の水差しを持ち上げるふりで、低く言った。
「北棟回廊、二分に一回警備が通る。南は三分。警備は三人体制」
「把握済みです。通報手段は?」
「固定電話が一台。フロント裏。外線は交換室経由だ」
私は頷いた。交換室を押さえられたら、ここは箱になる。
「所長、娘さんの痕跡は」
「まだ。急ぐな。場の温度を測れ」
神谷の言う“温度”は、室温じゃない。誰が何を恐れているか、その熱の分布だ。私は頷き、また配膳動線に戻る。
22時前、宴の空気が少し緩んだ。
音楽が変わり、弦にピアノが重なる。照明が半段落ち、壁の陰影が濃くなる。客の何人かが仮面のまま軽く踊り始めた。笑い声も増える。
けれど、西側の五人だけは輪を解かない。
むしろ、互いの距離をさらに詰め、低い声で言葉を刺し合っている。
私はシャンパンを注ぎながら、断片だけ拾った。
「……約束が違う」
「今さら降りる気か」
「証拠はどこだ」
「黙れ、ここで名前を出すな」
喉が乾いた。
この五人は、ただの顔見知りじゃない。共犯か、同盟か、あるいは――同じ罪の当事者。
神谷が遠くから合図する。右手の人差し指で、時計を二度叩く。
「時刻記録を厚くしろ」のサインだ。
私はノートをエプロン裏から出し、トイレ前の死角で走り書く。
21:54 五人、暖炉前で口論。キーワード:証拠/約束/名前出すな。
21:57 白狐、左手薬指を二回触る。緊張反応。
21:59 黒鷹、腕時計を見る。右足荷重強。
書き終えた瞬間、背後で男の声がした。
「君、新人?」
振り返ると、青狼の仮面が近かった。目だけが笑っていない。
「はい。本日臨時です」
「見ない顔だな」
「人手が足りないと聞きまして」
青狼は数秒、私を値踏みしてから肩をすくめた。
「ここは迷子になる。北棟には行くなよ」
忠告の形をした牽制だ。私は軽く会釈した。
「ありがとうございます」
青狼が去る。私は息を浅く吐いた。
北棟。言われると行きたくなる。行ってほしくない場所があるということだから。
22:07。
突然、照明が一段明るくなる。司会役らしい男が中央に立ち、グラスを掲げた。
「皆様、本日は“仮面晩餐会”へようこそ。今宵は肩書きを玄関に置いて、名前を忘れ、役目から解放される夜です」
役目から解放。
その言葉に、五人の誰も笑わなかった。
乾杯の声が上がる。グラスの音が波のように重なる。
その背後で、私は黒瀬真緒に似た横顔を見た気がした。
南棟へ続く廊下の端、白いドレスの裾が一瞬だけ曲がって消える。
私は反射的に一歩踏み出した。
だが次の瞬間、神谷の声が届く。低く、短い。
「森下。追うな」
私は立ち止まった。
足が前へ出た分だけ、心臓が早くなる。
「……所長、今」
「見た。囮の可能性が高い。まず五人を固定する」
神谷はそう言って、給仕トレイを持ったまま北側通路へ移動した。怠そうな歩幅なのに、誰にもぶつからない。視線は常に二歩先。
私は自分の呼吸を整え、南側の導線を確認する。
廊下は二本。ひとつは客室エリア、もうひとつはバックヤード。曲がり角に鏡。鏡は死角を増やすためにある。
22:16。
雨脚が急に強まり、窓を叩く音が太くなる。遠くで雷。
同時に、天井の照明が一瞬だけ明滅した。
客の一人が笑う。
「山の天気は気まぐれだな」
神谷の顔だけが、無表情のまま硬くなる。
「森下、非常灯の位置を覚えろ。今のは予兆だ」
「はい、所長」
私は壁際を歩き、非常灯を目で拾う。入口脇、暖炉横、北回廊手前、南階段下。四つ。どれも点灯確認済み。
けれど、非常灯は“停電したら点く”前提でしかない。故障していたら、それまでだ。
22:21。
五人の輪が崩れる。
白狐が単独で北回廊へ。
黒鷹はバーカウンターへ。
翁面は暖炉前に残る。
夜蝶は化粧室方面。
青狼は窓際で電話をいじるふり。圏外だ。
私はノートに追記し、神谷へ視線を送る。神谷はわずかに顎を引いた。
「記録継続」の合図。
22:24。
音楽が切り替わる直前、照明がもう一度、短く揺れた。
その瞬間、ラウンジ全体の空気が変わる。誰かが息を飲んだ音が、やけに近く聞こえた。
22:25。
――完全停電。
世界から光が抜けた。
シャンデリアが消え、壁灯が消え、窓の外の稲光だけが遅れて室内を青くする。
暗闇の中で、グラスが割れる音。椅子が倒れる音。誰かの靴音が走る。
私は反射的に壁へ背を寄せ、トレイを胸の前に立てた。呼吸が浅くなる。
「所長!」
「ここだ。動くな、森下!」
神谷の声が左前方。距離、四メートル。
私はその声だけを目印に、足を固定する。
そして、三秒か五秒か分からない暗闇のあと――
女の悲鳴が、北回廊側で裂けた。
「きゃああああっ!」
次いで、男の叫び。
「人が、倒れてる! 血が――!」
非常灯が遅れて点く。赤に近い橙の明かりが、廊下とラウンジの境目を不気味に照らした。客たちの仮面が、同じ顔に見える。
誰かが泣き、誰かが笑いの残骸みたいな声を漏らし、誰かが「警察!」と叫ぶ。
しかしここは山奥だ。電話は交換室。道路は雨で寸断寸前。
神谷が私の横を通る。声だけが冷静だった。
「森下、時刻」
私は震える指で腕時計を見る。
「22時26分……!」
「記録しろ。北回廊へ行く」
「はい、所長」
私たちは人波を割って進んだ。
北回廊の床に、ひとつの身体が横たわっている。白い仮面が外れ、少し離れた場所で裏返っていた。
髪は乱れ、喉元に深い赤。
目は見開いたまま、天井の暗い木目を見ている。
神谷が膝をつき、脈と瞳孔を確認する。首を横に振った。
「死亡。周囲、触るな」
誰かが呻く。
「誰だ……?」
神谷は落ちていた仮面を拾い、被害者の顔を照らした。
橙の非常灯の下で、その顔は妙に静かだった。
私は息を止める。
見覚えのある名前が、頭の中で勝手に立ち上がる。
元検察官。瀬川珠紀。
背後で青狼が低く吐き捨てる。
「ふざけるな……」
夜蝶は壁に手をつき、肩で息をしている。翁面は蒼白のまま動かない。黒鷹だけが、状況を計算するように目を走らせていた。
神谷は立ち上がり、全員を見渡した。
「この場から誰も動かないでください。
今から、全員の位置と時刻を確認します」
その声に逆らう者はいなかった。
恐怖は命令より強い。
そして、恐怖は嘘を早くする。
私はノートに、震える文字で書き込む。
22:26 第一の殺人発生。被害者:瀬川珠紀(検察OB女性)。停電直後。北回廊。
ページをめくる手が、少しだけ濡れていた。雨じゃない。自分の汗だ。
私は深呼吸して、ペン先を置く。
ここから先は、記録が命綱になる。
神谷が私だけに聞こえる声で言った。
「森下。ここからが本番だ」
「……はい、所長」
遠くで雷が鳴った。
建物のどこかで、まだ割れたグラスが、ゆっくり床を転がっていた。
第3章 第一の死体、白狐の沈黙
《森下メモ 22:31 第一被害者確認:瀬川珠紀。停電から悲鳴まで約20〜30秒。北回廊の床に引きずり痕なし》
非常灯の橙色は、血の色を必要以上に濃く見せる。
北回廊の空気は重く、誰も大きく息をしない。私は壁際でノートを開いたまま、呼吸の回数を意識していた。数えないと、喉が勝手に浅くなる。
神谷は被害者の周囲一メートルを目視で区切り、床の目地、壁の擦れ、照明の位置を一つずつ確認している。手袋越しの指が、ほんの少し宙で止まるたびに、私の背筋が冷えた。
「森下、時系列を口頭で」
「はい。22時25分ごろ二度目の明滅、22時26分に完全停電。直後にグラス破損音、走る足音、女性の悲鳴。非常灯点灯後に北回廊で被害者確認です」
「悲鳴の方向」
「北回廊側。最初の悲鳴は女性、次は男性です」
神谷はうなずく。視線は被害者の右手へ落ちた。指先に薄い黒い汚れ。煤ではない。インクか化粧材か、まだ判別できない。
後方では仮面の客たちがざわめきを抑えきれず、低い波みたいな声を重ねていた。
「救急は」「警察を」「誰がやった」
言葉はどれも同じ方向を向いていない。恐怖が先に走って、意味が後から追いかけている。
黒服の責任者らしい女が近づいてきた。
「お客様を広間へ戻します。ここは危険です」
「だめです」
神谷は即答した。
「今動かすと、全員の足跡が混ざる。最低限、位置確認が終わるまで待ってください」
「ですが、皆さま不安で」
「不安でも、移動は証拠を殺します」
女は唇を噛み、しかし反論を飲み込んだ。神谷の声は平坦だが、通すべき線だけは絶対に曲げない。
私は回廊の入口側に立ち、五人の位置を確認する。
白狐――瀬川珠紀は床。
黒鷹――真田光星は柱際、距離四メートル。
翁面――榊原慎司は回廊手前、距離六メートル。
夜蝶――鷹野美月は壁沿い、距離三メートル。
青狼――氷室蓮は入口寄り、距離五メートル。
全員が「見つけたのは自分じゃない」と顔で言っている。
「所長、五人の現在位置、記録します」
「頼む。あと、靴底。濡れと汚れの差を見ろ」
私は頷いて、床の反射に目を落とした。
北回廊の窓は細く高い。雨は吹き込まない。なのに、青狼の靴先だけが妙に濡れている。逆に夜蝶のヒールは乾きすぎている。化粧室方面を歩いたなら、もっと細かい水滴がつくはずだ。
神谷が立ち上がり、客たちへ向き直る。
「これより、発見時に近い位置にいた方から短く確認します。
質問は三つ。『暗転時どこにいたか』『誰を見たか』『何を聞いたか』。
長い説明は不要です。事実だけ答えてください」
先に口を開いたのは黒鷹――真田だった。仮面越しでも、声はよく通る。
「私はバーカウンターでした。停電でしゃがみ、誰かが走る音を聞いた。点灯後、こちらへ来て……彼女を見た」
「誰か、とは」
「足音だけです。特定はできない」
次に翁面の榊原。
「私は暖炉前。暗転後は動いていない。悲鳴を聞いて来た。以上です」
短い。だが短すぎる証言は、守りにもなる。
夜蝶の鷹野は声が震えていた。
「化粧室に行く途中でした。暗くなって、壁に手をついて……。悲鳴がして、怖くて、動けなくて……」
「誰かにぶつかりましたか」
「いいえ、たぶん」
“たぶん”が入った。記録に丸をつける。
青狼の氷室は苛立ちを隠さない。
「俺は窓際。電波を拾おうとしてた。暗転して、すぐ誰かが走った。細い足音だ。女だと思う」
夜蝶が顔を上げる。
「私じゃない」
「おまえって言ってないだろ」
声が上ずり、回廊の空気がさらに尖る。
神谷が二人の間に一歩入った。
「今は犯人捜しをしない。順番を守ってください」
その言葉に、誰も納得はしていない顔だった。だが反論もない。
納得は不要、統制が先――神谷の現場はいつもそうだ。
私はノートに証言を走らせる。
そのとき、被害者の左手近く、床の継ぎ目に小さな紙片が見えた。切手ほどの大きさ。白地に黒インクで、印刷文字が一部だけ残っている。
……決は仮面のまま……
私は反射的に指を伸ばしかけ、止めた。
「所長。紙片、九時方向、床目地」
神谷が私を見る。短くうなずく。
「触るな。位置を記録」
「はい。」
神谷はピンセットを取り出し、紙片を慎重に拾った。裏面は無地。切断面は手で破った荒さではなく、刃物で切った直線に近い。もともと長い文だったものを、必要な部分だけ残した可能性がある。
「森下、読み上げ」
「『……決は仮面のまま……』です。冒頭欠損」
「“判決”の可能性が高い」
神谷が低く言う。
検察OBの死体のそばに、“判決”を示唆する文言。偶然にしては出来すぎている。見せるための言葉だ。
その瞬間、回廊奥の非常灯が一つ、ちらついた。
誰かが短く悲鳴を飲み込む。
「停電、また来るんじゃないか……」
客の男が震え声で言った。
黒服責任者が青ざめる。
「自家発電は動いています、ただ、雨で電圧が不安定で……」
神谷は即座に判断した。
「全員、広間に戻します。ただし順番を指定する。
森下、移動ログを取れ。誰が何時何分にどの列で動いたか、全部」
「はい。」
神谷は四人を見た。
「あなたたち四名は最後尾。相互に視界から外れない距離を保つ。
勝手に離脱した場合、意図ありと判断します」
黒鷹の真田が薄く笑う。
「まるで拘束ですね」
「拘束ではない。事故防止です」
神谷の返答は乾いていた。真田はそれ以上言わない。
移動が始まる。
私は柱時計を見て時刻を書き込む。22:44。先頭から順に客を流す。
靴音、衣擦れ、香水、湿った息。人間が恐怖で整列すると、軍隊みたいに静かになる。
広間へ戻ったあと、神谷は黒服責任者に固定電話を要求した。
フロント裏の交換室。受話器は生きていたが、外線は雑音が強い。発信は何度か失敗し、五回目でようやく警察本部へ繋がる。だが山道の状況で到着は最短でも夜明け近くになるという。
「所長、警察はすぐ来られませんか」
「来られない。だから、今夜はここで終わらせる」
神谷は受話器を置き、壁の地図を見た。
社交場の見取り図。北棟、南棟、本館、地下サービス通路。
見ているのは部屋名ではない。線のつながり、死角、最短距離。
「森下、五人の関係を洗う。表の肩書きからでいい。
名前を確定させる」
「はい。」
私は広間の隅で、配膳名簿と来場チェックの控えを照合した。偽名だらけのリストから、一致する署名癖と筆圧を拾う。
白狐――瀬川珠紀。
黒鷹――真田光星。
翁面――榊原慎司。
夜蝶――鷹野美月。
青狼――氷室蓮。
五人は全員、同じ紹介者コードで入場していた。つまり、一つの窓口で束ねられている。
私は神谷に紙を渡す。
「所長、五人の実名、確度高いです。紹介者コード同一」
神谷の目が細くなる。
「同窓会じゃないな。
“同じ穴にいた連中”だ」
広間の中央で、真田が水を飲み、榊原が目を閉じ、鷹野が震える指を押さえ、氷室が何度もスマホ画面を点ける。
瀬川だけがいない。その不在が、四人の輪郭をむき出しにしていく。
そして私は、もう一つの違和感に気づいた。
依頼人の母親、黒瀬澄江の言葉だ。
「仮面の催しがある」
「山の会員制社交場」
名前非公開のはずの場所を、彼女は迷わず言った。
もし彼女がただの母親なら、知りすぎている。
もし彼女が関係者なら、依頼は最初から歪んでいる。
「所長」
「ん?」
「依頼人、やっぱり――」
「分かってる」
神谷は短く切った。
「でも順番だ。
今はこの四人が、次に何をするかを見る」
そのとき、広間の隅で口論が起きた。
氷室が真田の胸ぐらを掴み、鷹野が止め、榊原が「やめろ」と低く叱る。言葉は断片しか聞こえない。
「おまえが――」
「黙れ、ここで言うな」
「次は誰だ」
“次は誰だ”。
私はその一言を聞いた瞬間、背中に冷たい線が走った。
この場では、犯人を探す前に、次の被害を止めなければならない。
神谷は四人の間へ歩き、声を落として言った。
「今から全員、単独行動を禁止します。
二人一組で行動。組み合わせは私が決める。
拒否した場合、隔離します」
「あなたに権限があるのか」
真田が言う。
神谷は真顔のまま答えた。
「権限はない。
でも、あなたたちが次を出したくないなら従うべきだ」
沈黙が落ちる。
反発と恐怖がせめぎ合い、最後に恐怖が勝った。
私はノートを閉じ、深く息を吸う。
第一の死体は、終わりじゃない。始まりだ。
しかも、これは偶発じゃない。
見せるために置かれた死体。読ませるために置かれた言葉。
神谷が私の横を通り過ぎるとき、小さく言った。
「森下、覚えとけ。
これは“第一問”だ」
「第一問……」
「正解すると、次が来る」
広間のシャンデリアが、かすかに揺れた。
外ではまだ雨が降っている。山道は長く、警察は遠い。
時計の針だけが、ここでは誰の味方もせずに進んでいく。
私はページをめくり、見出しを書く。
第二の殺人を防ぐための記録。
ペン先が紙に触れた瞬間、どこかでドアが閉まる音がした。
鈍く、重い音だった。
嫌な予感は、だいたい当たる。
そして当たるときは、いつも少しだけ遅い。
第4章 記録する助手、黙る探偵
《森下メモ 22:58 単独行動禁止を告げた直後、反発は真田のみ。氷室は怒り、鷹野は怯え、榊原は“従うふり”》
広間の空気は、さっきより静かで、さっきより危うかった。
人は騒いでいるうちはまだ安全だ。沈黙が増えると、頭の中で勝手に結論を作り始める。疑いは声より速い。
神谷はフロア中央で、客全体に向けて短く説明した。
「警察へは通報済みです。到着まで時間がかかるため、皆さんには館内で待機していただきます。
移動はスタッフ同伴、単独行動は禁止。ご協力ください」
拍手も文句も出ない。
仮面の顔が一斉にこちらを向いて、すぐ逸れる。
“自分は関係ない”と“次は自分かもしれない”が、同じ顔の中で喧嘩している。
私は神谷の横に立ち、トレイを抱えたまま小声で言った。
「所長、五人の組み分け、どうしますか」
「固定しない。十分ごとに入れ替える」
「入れ替えるんですか」
「固定すると共謀が生まれる。毎回崩す」
神谷の視線は、もう四人を見ていなかった。
見ているのは床。導線。入口。時計。
つまり、次に何かが起きる“経路”だ。
まずは最低限の秩序を作る。
神谷の指示で、客は広間の東側に集約。バーカウンターと南回廊を封鎖。北回廊は立入禁止。
私と黒服スタッフ二人で、ロープパーティションを引く。結び目を作る手が、思ったより震えた。
「森下、手」
「え」
「震えてる。握って開け」
私は言われた通り拳を作って開いた。三回。少しだけ指先の感覚が戻る。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなくていい。止まるな」
「……はい。」
22:49。
四人の簡易聴取を始めるため、私は丸テーブルを二つ並べ、席札代わりに番号札を置いた。
A席:真田、B席:榊原、C席:鷹野、D席:氷室。
瀬川はもういない。空いた席が一つ、露骨に欠けて見える。
神谷は最初に真田を座らせた。黒鷹の仮面は外してある。整った顔立ち、声は低く、丁寧語が崩れない。弁護士。
私は録音機を置き、開始時刻を記録する。
「22:51、聴取開始。真田光星さん、暗転前後の行動をもう一度」
真田は水を一口飲んでから答えた。
「暗転前、私はバーカウンター。停電でしゃがみ、誰かが走る音を聞いた。悲鳴で北回廊へ。以上です」
「“誰か”の特徴は」
「足音が軽い。女性か、細身の男性」
「なぜしゃがんだんですか」
「ガラス片を避けるため。グラスが割れた音がしたので」
神谷が口を挟む。
「割れた位置は」
「分かりません。音だけです」
「あなたは法律家です。曖昧な答えがどれほど危険か知っているはずだ」
真田の口角がわずかに下がる。
「危険なのは、曖昧な状況です。私は見たことしか言わない」
正しい。正しすぎる。
私はノートに書く。“見たことしか言わない”は、見なかったことを守る言い方。
次は榊原。裁判官OB。
声は穏やか、姿勢は崩れない。翁面の仮面をテーブルに置いたまま、両手を軽く重ねる。
「私は暖炉前にいた。暗転後も動いていない。悲鳴で振り返った。
それだけです」
「誰かと会話は」
「停電前に真田さんと少し」
「内容は」
「天気の話です」
神谷が一拍置いて訊く。
「あなた方は、天気の話をする仲ですか」
榊原は目を細めた。
「今夜は、肩書きを忘れる会だと聞いています」
「忘れられましたか」
「……難しい質問ですね」
曖昧に笑う。
私はその笑いが嫌いだ。角のない言葉は、時々いちばん人を追い詰める。
鷹野美月。夜蝶。
彼女は座る前から「私じゃない」を三回言った。私は水を渡し、呼吸を整えるよう促す。
神谷は声を少し柔らかくする。追い込んで崩すより、崩れない枠を作るほうがこの人は上手い。
「暗転時、どこに」
「化粧室へ向かう廊下です。鏡の前で……壁に手をついて……」
「誰かと接触は」
「ない、と思います。暗くて、でも、誰かが横を抜けた感じは……」
「香りは覚えてるか」
鷹野の目が泳ぐ。
「香り?」
「すれ違いの香水。煙草。整髪料。何でもいい」
「……甘い匂い。花みたいな。強い香りでした」
私はメモする。甘い香り。
頭の隅で、依頼人の黒瀬澄江が差し出したハンカチの香りが蘇る。同じ系統。偶然か、記憶の偏りか。
氷室蓮。青狼。
椅子に座る前から苛立ちが顔に出ている。質問の途中で机を叩き、録音機が揺れた。
「俺がやったって言いたいのか」
「言ってない。時刻を確定したいだけです」
「だったら先にあいつに聞けよ。弁護士先生に」
「もう聞いた」
「じゃあ裁判官にも」
「聞いた」
氷室は舌打ちし、視線を逸らす。
神谷が静かに言った。
「あなたは暗転直後、窓際から回廊側へ二歩動いてる。なぜだ」
「悲鳴がしたからだ」
「悲鳴の前だ」
氷室の喉が上下する。
私は時計を見る。22:57。
氷室は数秒黙ってから答えた。
「……電波が入った気がした。スマホ見ようとしただけだ」
「圏外で?」
「一瞬、一本立った」
真偽は不明。でも“気がした”は便利な嘘だ。
私はノートの端に小さく印をつける。氷室:反応速度が早すぎる。
聴取が一巡したあと、神谷は私に紙を差し出した。
見取り図のコピー。北回廊、広間、バー、化粧室、交換室。赤いペンで矢印が三本引いてある。
「森下、移動の再現をやる。
彼らに、停電時の位置まで歩かせる」
「はい、所長。順番は」
「真田→鷹野→氷室→榊原。
相互に視界を切らせないよう、おまえが中継点に立て」
私は頷き、靴音を揃える。
再現は単純で地味だ。けれど地味な作業ほど嘘は溶ける。
23:02。
真田、バーカウンター位置へ。
23:04。
鷹野、化粧室手前の鏡前へ。
23:06。
氷室、窓際へ。
23:08。
榊原、暖炉前へ。
それぞれの位置から北回廊まで、通常歩行で何秒かかるか計測する。
真田は最短18秒。
鷹野はヒールで21秒。
氷室は16秒。
榊原は24秒。
停電から悲鳴まで20〜30秒。
――全員、物理的には届く。
「所長、全員可能圏です」
「だろうな。
だから“誰でもできる殺し”に見せた」
「見せた?」
神谷は床に目を落とす。
「本当に狙ってるのは犯人当てじゃない。
疑心暗鬼を起こすことだ」
その言葉が落ちた瞬間、広間から怒鳴り声が聞こえた。
私たちは駆け戻る。
客の輪の中心で、真田と氷室が再び掴み合っていた。鷹野は泣きながら止め、榊原は「落ち着け」と繰り返すだけ。
「おまえがやったんだろ!」
「証拠は?」
「証拠なら――」
氷室の言葉が止まる。
彼は喉元で何かを飲み込んだ。
神谷が間に入り、二人の手を外す。動きに無駄がない。必要最小限で、相手の力だけを逃がす。
「ここで殴り合えば、次の死体が出るだけです」
「次だと?」
真田が笑う。薄く、冷たい笑いだ。
「あなた、まるで予定を知っているみたいだ」
神谷は答えない。代わりに私へ向く。
「森下、全員の持ち物確認。刃物、薬品、紐状のもの。
同意が得られない場合はスタッフ立会いで封印袋へ」
「はい。」
私は黒服スタッフ二人を呼び、テーブルに封印袋を並べる。
時計、ライター、ペン、鍵束、香水、小型ハサミ。
“日常品”は凶器になる。だからこそ、日常の顔で並ぶ。
真田が万年筆を置く。
榊原が銀のペーパーナイフ型レターオープナーを置く。
氷室が金属製キーホルダーを乱暴に置く。
鷹野が小さな香水瓶を躊躇して置く。
私は香りを嗅いだ。甘い。濃い花の香り。さっきの証言と一致する。
「所長、鷹野さんの香水、証言の“甘い匂い”に一致します」
「一致はする。決め手にはならない。
この館、同系統の香りが多い」
神谷が言い終える前に、照明が一瞬、また揺れた。
全員が天井を見る。
誰かが「やめてくれ」と呟く。
私は自分の心拍が上がるのを感じながら、ノートの見出しを太字で書いた。
電源不安定=意図的に再現可能。
神谷が私の文字を横目で見て、わずかに頷いた。
「いい。
森下、交換室を見てこい。
ただし単独で行くな。俺がつく」
「はい。」
広間を出ると、廊下の空気はさらに冷たかった。
交換室はフロント裏、鍵付き。黒服責任者に開けさせると、中は配電盤と古い交換機が並ぶ小部屋だった。
配電盤のカバーに新しい擦り傷。ネジが一本だけ新品。
誰かが最近触った跡だ。
「所長、ここ……」
「見れば分かる。
停電は“事故だけ”じゃない」
神谷は配電盤を目で追い、手を出さずに距離を測る。
私も屈んで床を見る。細かい泥が点々と続いている。屋内の泥じゃない。外履きでここに入った人間がいる。
神谷が低く言う。
「森下、記録。
配電盤に介入痕。床に泥。
犯人は暗闇を使う前提で動いてる」
「はい。」
私が書き終えたとき、遠くでグラスの割れる音がした。
一回。二回。
続けて、男の怒鳴り声。
そして、女の短い悲鳴。
私は顔を上げる。神谷はもう走り出していた。
私はノートを胸に押さえ、追う。
「所長!」
「広間じゃない。バーカウンター側だ!」
廊下を曲がる。
非常灯の橙が床に伸びる。
角を抜けた先、バーカウンターの影に、黒い背中が一つ崩れ落ちるのが見えた。
その瞬間、私の喉が勝手に動いた。
「――誰か、倒れてる!」
神谷は足を止めず、低く言う。
「森下、時刻!」
私は腕時計を見た。秒針が跳ねる。
「23時14分!」
神谷は倒れた人物の肩を返し、脈を取る。
白いシャツに赤が広がっていく。
黒鷹。
真田光星。
私はノートに、震える字で書き込む。
第二の悲鳴。第二の血。
そして、その行の下に、もう一行。
これは連続じゃない。設計だ。
第5章 黒鷹、血の法廷
《森下メモ 23:14 第二被害者:真田光星。発見場所はバーカウンター西端。悲鳴は女性、直後に男の怒声》
バーカウンターの床は、磨き上げられた木目の上に赤が薄く広がっていた。
非常灯の橙色のせいで、血は黒に近く見える。見慣れることはない。見慣れたくもない。私は喉の奥に上がってくる吐き気を、奥歯で噛んで押し戻した。
神谷は真田の首元と手首を順に確認し、首を横に振る。
「死亡確認。
森下、時刻と位置、声の順番をもう一度」
「23時14分発見。場所はバーカウンター西端。
音はグラス破損が二回、その後に女性の悲鳴、続いて男性の怒声です」
「いい。続けろ」
神谷の声は平らだった。私の呼吸だけが荒い。
床の近くに、倒れた真田の右手がある。指先は強く握り込まれ、爪の間に黒い繊維が絡んでいた。衣服のほつれか、装飾の糸か。私は触らずに位置を記録する。
「所長、右手爪間に繊維。黒、細い」
「写真位置をメモ。採取は後」
背後では客たちがざわつき、誰かが泣き、誰かが「ここから出せ」と叫ぶ。
黒服責任者の女は青ざめたまま、壁に手をついていた。
「こんなこと……二度も……」
「三度目を止めるために動きます」
神谷は彼女をまっすぐ見た。
「今から館内を三区画に分ける。
本館広間に一般客、北棟を封鎖、南棟を監視導線にする。
スタッフは全員、持ち場を固定。私語禁止。
鍵束を全部持ってきてください」
女は数秒遅れてうなずいた。
神谷が命令口調になるときは、相手の善意をあてにしない。動くための手順しか残さない。
私はバーカウンター周辺の足跡を目で追う。
床は乾いているのに、真田の左側だけ細かな水滴が散っていた。雨の水滴じゃない。グラスの飛沫にしては範囲が狭い。
カウンター下の影に、割れたグラスの脚部が一本。口縁がない。誰かがわざと踏み砕いたような割れ方だ。
「所長、水滴、左側に偏り。グラス片は一点集中」
「了解。
“乱闘に見せた局所痕”かもしれない」
神谷は真田の内ポケットを外側から触診し、硬いものの位置だけ確かめる。直接は抜かない。違法取得の線を踏まないためだ。
その代わり私に言う。
「森下、立会人二名。封印開封で確認する」
「はい、所長」
私は黒服スタッフ二人を呼び、名前と時刻をノートに記録。立会いのもとでポケットを確認すると、小型ボイスレコーダーが出てきた。電源は入っている。録音時間は九分。
神谷はすぐ再生せず、封印袋に入れた。
「ここで聞くと先入観が入る。後で全員立会いで」
「分かりました。」
そのとき、広間側から氷室の怒声が飛んできた。
「だから言っただろ、次が出るって!」
私は顔を上げる。
氷室は汗で前髪を濡らしていた。目は充血し、興奮で声が上ずっている。
鷹野は壁際で震え、榊原は眉間に皺を寄せて沈黙。
四人の輪は、瀬川の死で崩れ、真田の死で裂けた。
神谷が一歩前へ出る。
「全員、座ってください。
今この瞬間から、あなた方は“互いの監視役”ではない。
“互いの保全対象”です」
氷室が吐き捨てる。
「綺麗ごとだ。二人死んだんだぞ」
「だからです。
犯人の狙いは、あなた方に“先に手を出させること”だ」
榊原が低く訊く。
「つまり、我々が互いに殺し合うよう仕向けられている、と」
「その可能性が高い」
神谷の言葉に、鷹野が小さく首を振る。
「そんな……誰がそんなこと」
神谷は答えない。
代わりに私を見て合図する。
私は理解して、準備していた簡易ボードを運ぶ。白紙の上に、時刻と場所を太字で書いた。
- 22:26 北回廊 瀬川珠紀
- 23:14 バーカウンター西端 真田光星
「所長、掲示します」
「頼む」
見える化すると、人は嘘をつきにくくなる。
神谷のやり方は、いつも地味だ。地味で、効く。
23:22。
第二現場の簡易検分を終え、神谷は三人の再聴取を開始した。
私は録音機を置き、時刻を書き込む。
最初は氷室。
「23:10から23:14、どこに」
「広間だ。ずっといた。
……いや、23:12ごろトイレに行こうとして、途中で戻った」
「戻った理由」
「鷹野が泣いてたから、声をかけた」
鷹野はすぐ否定する。
「声なんてかけられてない。私、ずっと壁のところに……」
氷室が睨む。
「おまえ、混乱してんだよ」
神谷が遮る。
「互いの評価は後。事実だけ」
次は鷹野。
「あなたは23:10から」
「広間の東側。水を飲んで、椅子に座って……。
グラスが割れて、悲鳴がして、みんなが走ったから、私も」
「誰の背中を見た」
「黒いジャケット。男の人。
でも、誰かは……」
榊原。
「私は暖炉前。移動は最小限。
グラスの音で振り向き、真田さんが見えなくなっていることに気づいた」
「最後に真田を見た時刻は」
「23:11ごろ。水を取りに行く、と」
最後に神谷が短く問う。
「“水を取りに行く”と言ったのか、あなたがそう解釈したのか」
榊原の目が一瞬だけ揺れた。
「……言った、と思います」
“と思います”。
私は丸を打つ。曖昧語は、責任の逃げ道だ。
聴取の途中、黒服責任者が鍵束を持ってきた。
大小合わせて十二本。部屋番号と色タグがついている。
神谷はその場で鍵台帳を作り、私に渡した。
「森下、管理する。貸出・返却の時刻を記録。
一本でもズレたらすぐ報告」
「はい。」
私は鍵を並べながら、ふと違和感を覚えた。
地下サービス通路の鍵だけ、タグが新しい。交換したばかりの色だ。
神谷に目で知らせると、神谷は頷いて小声で言った。
「後で見る。今は人間の導線が先」
23:31。
神谷は全員の前で、次の行動ルールを宣言した。
「三名は二人一組で待機。
組み合わせは、榊原さんと鷹野さん、氷室さんは私の視界内、もう一名スタッフ同伴。
十分ごとに位置を入れ替えます。
異議は」
氷室が舌打ちしたが、手は上げない。
榊原は目を閉じてうなずく。
鷹野は声なく頷いた。
私は内心で息を吐く。
この統制が崩れたら、次が来る。
それでも、統制だけでは防げないことがある。
犯人が“人間”ではなく“構造”で攻めてきている場合だ。
停電、偽装、局所痕。
今回の現場は、偶発の乱闘には見えない。
「所長」
「ん」
「第二の現場、第一と似てます。
見せ方が違うのに、誘導の方向が同じです」
「いい観察だ。
第一は“判決”を見せる死体。
第二は“口封じ”に見せる死体。
どっちも、残った人間の疑いを最大化する配置」
神谷はボードに新しい行を足した。
- 共通点候補:司法関係者
- 目的候補:相互不信の加速
私はその文字を見て、背中に冷たいものが走る。
瀬川は検察OB。真田は弁護士。
残る榊原は元裁判官。
線が見えすぎている。見えすぎているときは、誰かが見せている。
23:39。
立会いのもと、真田のボイスレコーダーを再生することになった。
神谷は三人を椅子に座らせ、私に再生ボタンを任せる。
「森下、開始時刻」
「23:40、再生開始」
ノイズ。衣擦れ。グラスの触れる音。
真田の声が入る。
『……だから言った。あの件は、もう掘るな』
別の男の声。榊原に似ているが断定はできない。
『掘ったのは君だ、真田』
女の息。鷹野か、別人か。
続けて、低い声。
『名前を出すな。ここでは仮面だ』
沈黙。
次いで、真田の声が小さくなる。
『……あの母親、止まらないぞ』
空気が凍る。
鷹野が顔を上げ、榊原が目を細め、氷室が「は?」と漏らす。
神谷は表情を変えない。
録音はそこで切れていた。
私は停止ボタンを押し、時刻を記録する。手が汗で滑る。
「所長、“母親”って……」
「決めるな。
文脈がない。だが重要語だ」
神谷は
三人を見渡す。
「今の録音について、発言を求めます。
ただし、推測ではなく“知っている事実”だけ」
氷室が先に立ち上がりかける。
「母親って、あいつの――」
「座ってください」
神谷の声が一段低くなる。
氷室は歯を食いしばり、椅子へ戻った。
榊原が口を開く。
「……過去に、遺族対応の件で揉めたことはあります。
ただ、それが誰を指すかは分かりません」
「遺族対応。
事件名は」
榊原は沈黙した。
神谷は追わない。追いすぎると口を閉ざす相手だと見ている。
鷹野が震える声で言う。
「私、詳しいことは知らない。
でも、みんな“あの件”って言うとき、顔が同じになる。
怖い顔」
神谷が短く頷く。
「十分です」
23:52。
雨がさらに強くなる。窓ガラスを叩く音が、館内の静けさに混ざって鼓動みたいに響く。
私はボードの前で、見出しを追記する。
- 録音語句:「あの母親、止まらないぞ」
- 三被害候補線:検察・弁護士・裁判
そこまで書いたとき、照明がまた一度だけ揺れた。
全員が天井を見上げる。
神谷はすぐに私へ視線を寄越す。
「森下、非常灯チェック。
北と南、一本ずつ確認。俺は広間を抑える」
「所長。単独禁止ですよね」
「スタッフ一名つける」
私は黒服スタッフの若い男を伴い、南側非常灯へ向かう。
点灯確認、異常なし。
北へ回る途中、壁の鏡に自分の顔が映る。白い。目だけが過剰に開いている。
走るな、と神谷に言われた通り、歩幅を一定にする。
北回廊手前で、私は足を止めた。
床に、さっきなかった水滴の線。
誰かが濡れた靴で、広間から北へ向かっている。
単独行動禁止のはずなのに。
「すみません、ここ誰か通りました?」
同行スタッフが首を振る。
「僕は見てません」
私はすぐ無線を取る。
「所長、北手前に新しい水滴痕。広間から北へ向かう導線です。単独移動の可能性」
数秒の沈黙のあと、神谷の声。
『了解。戻れ。全員人数確認する』
「はい。」
私が広間へ戻ると、空気が変わっていた。
椅子が一つ、空いている。
榊原の席だ。
氷室が立ち上がり、怒鳴る。
「だから言ったんだ! また消えた!」
鷹野は蒼白で、両手を口に当てている。
「さっきまで、そこに……」
神谷は時計を見た。
「23:58。
榊原慎司、所在不明。
森下、最後に目撃した時刻を確定」
「23:55です。広間西側、着席を確認」
「いい。
全員その場から動くな」
神谷は振り返らずに言った。
「次は“第三”だ。
間に合ううちに拾う」
私はノートに書き込む。
手の震えは、もう隠せない。
23:58 榊原慎司、消失。
第二の死のあと、三つ目の針が動く。
第6章 隔絶の夜、消えた翁面
《森下メモ 23:58 榊原慎司が広間から消失。単独行動禁止下での離脱。北手前の水滴痕は直前に発生》
空席は、人間より雄弁だ。
榊原が座っていた椅子だけが、照明の下で不自然に整って見えた。引いた形跡がない。慌てて立ったのではなく、静かに離れた椅子だ。
神谷は広間の全員を一瞬で見渡し、次に私へ視線を寄越す。
「森下、入口を押さえろ。
出入り記録を取る」
「はい。」
私は広間の主扉脇に立ち、ノートを開いた。
時刻、人物、方向。記録の線だけが、今は私の呼吸を繋ぐ。
「スタッフA、南回廊。スタッフB、交換室前。
誰も一人で動くな」
神谷の指示が飛ぶ。
氷室が椅子を蹴った。
「探しに行けよ! じっとしてたら死ぬ!」
「あなたが動くと、次の痕跡が消える」
神谷は氷室の正面に立つ。声は低い。
「榊原さんを生かしたいなら、今は命令に従って」
氷室の顎が震える。怒りか恐怖か、もう区別がつかない。
鷹野は両手を握りしめたまま、視線を床から上げられない。
一般客は息を殺し、仮面の下で互いを見ないようにしていた。
00:01。
神谷が私に合図する。
「北へ行く。同行は二名。
森下、俺の後ろ二歩。走るな」
「はい。」
同行は黒服責任者の女と若い男性スタッフ。
私はペンを握ったまま、神谷の背を追う。
廊下の照明は復旧しているが、明るさは安定しない。時々、目の端で光が痙攣する。
北手前の床に残った水滴痕は、さっきより伸びていた。
点ではなく線。
広間から北回廊へ、さらに北棟のドア方向へ続く。
「所長、水滴、新しいです。線が延びてます」
「記録。
誰かが“今”通った」
神谷はドアノブに触れる前、耳を寄せた。
中から物音はない。
ゆっくりノブを回す。鍵は開いていた。
北棟廊下は、本館より空気が冷たい。
客室ドアが左右に並び、壁灯は半分しか点いていない。
奥には非常階段。さらに先がサービス通路へ繋がる。
「榊原さん!」
責任者の女が呼ぶ。返答はない。
私の靴底が、床の何かを踏んで小さく滑った。
見下ろすと、薄い水の上に、黒い粉が滲んでいる。煤ではなく、古い塗料が剥がれたような色。
「所長、床に黒色粉。湿ってます」
「踏み跡は」
「右向きが二、左向きが一……混ざってます」
「写真位置だけ取れ」
私はノートに位置をスケッチし、歩幅の目測を書き込む。
大きい足跡と細い足跡。少なくとも二人。
ただ、こんな状況では“混ぜる”こともできる。
00:06。
廊下奥の客室ドアが半開きになっているのを、神谷が見つけた。
プレート番号「N-12」。
ノブに細い赤い線。血ではなく、口紅のような赤。
「ここ、さっき閉まってましたよね」
同行スタッフが言う。
「確認したのか」
「いえ……たぶん」
“たぶん”は現場でいちばん危険な言葉だ。
神谷は答えず、私に顎で合図した。
「時刻」
「00時07分、N-12前」
神谷がドアを押し開ける。
室内は暗い。ベッド、テーブル、カーテン。
人影はない。
しかし、窓が少し開いていて、雨の湿気が吹き込んでいた。カーテン裾が濡れている。
「外に出た?」
責任者の女が呟く。
神谷は窓枠を見た。
泥の擦れ。外側の手すりに、靴底の擦過痕。
ただし、雨で輪郭が流れている。
「所長、ここから非常階段に移れます」
「分かってる。
でも今は“出た”より“出たように見せた”を疑う」
神谷はテーブル上の灰皿を見た。吸殻は一本、まだ湿っていない。
誰かがついさっきまでいた部屋の匂い。
甘い香水が薄く残る。鷹野の瓶に似た系統だが、同一とは断定できない。
私はメモに書く。
N-12:窓開放、手すり擦過、甘い香り、在室者不明。
そのとき、廊下の向こうで何かが倒れる音がした。
金属が床に当たる、硬い音。
続いて、短い呻き。
「所長!」
「行く」
神谷が先行し、私は二歩遅れて追う。
角を曲がった先、非常階段前の踊り場で、榊原が壁にもたれて座り込んでいた。
生きている。
だが顔色は青白く、額に汗。右手で腹部を押さえている。指の間から赤が滲む。
「榊原さん!」
責任者の女が駆け寄ろうとして、神谷が制した。
「止まって。足元見て」
踊り場の床には、細い釣り糸のような透明線が張られていた。膝の高さ。
暗ければ見えない。
榊原はそれに引っかかって転倒したか、引っかかった瞬間を狙われたか。
「所長、ライン罠……」
「うん。
森下、位置記録。誰も跨ぐな」
神谷は手袋越しに線の端を追う。
片側は階段手すり、もう片側は壁のフック。簡易で、撤収しやすい。
加えて、榊原の腹部には浅い刺創が一つ。致命傷ではないが、放置は危険。
「救急処置が先です!」
私は声が上ずった。
神谷は短く頷く。
「責任者、救急箱。
森下、圧迫位置を保持。記録は口述に切り替えろ」
「はい。」
私は膝をつき、榊原の手の上からガーゼを当てる。
温かい。血の温度は、いつも現実を突きつける。
「榊原さん、聞こえますか。誰にやられましたか」
榊原は目を開け、苦しそうに息をした。
「……見て、ない。
後ろで、音がして……」
「音?」
「靴音じゃない。金属が……触れる、音……」
言葉が途切れる。
神谷が榊原の瞳孔を確認し、脈を測る。
「意識はある。搬送は必要だが今夜は無理だ。
とにかく止血する」
救急箱が届き、応急処置を施す。
私は圧迫を続けながら、時刻を確認した。
「00時12分、榊原さん生存。腹部刺創、浅い。ライン罠確認」
神谷は階段下を見下ろす。
暗がりの先に、もう一つ、光るものが見えた。
小さな金属片。
拾い上げると、カフスボタンの片割れだった。
真田が着けていたシャツと同系統の意匠。
「所長、これ……第二被害者の」
「“そう見せる”証拠の可能性もある」
神谷はすぐ封印袋へ入れた。
真犯人が賢いなら、証拠は真実を示すためではなく、疑いを誘導するために置く。
00:17。
榊原を北棟の小会議室へ移し、簡易ベッドで安静。
移動時、神谷は経路を一本に固定し、私に先導ログを取らせる。
誰が先頭、誰が後尾、誰がどこで立ち止まったか。
文字が増えるほど、頭は冷える。
広間へ戻ると、空気はさらに悪化していた。
氷室が「もう終わりだ」と繰り返し、鷹野は「帰りたい」と泣く。
一般客の中にもパニックが伝染し始める。
神谷は中央に立ち、声量を少しだけ上げた。
「聞いてください。
榊原さんは生きています。
ただし、犯人は“罠”を使った。
次は誰でも被害者になり得る。
だからこそ、今から行動を一本化します」
神谷が示した新ルールは三つ。
- 全員、広間東側に集約。
- トイレ・移動は必ず二人以上+スタッフ同行。
- 館内の紐状・線状物はすべて回収封印。
私はチェックリストを作り、スタッフに配る。
カーテンタッセル、装飾コード、予備配線、ギフト用リボン。
“飾り”が凶器に変わる夜だ。
鷹野が震える声で訊いた。
「神谷さん……私たち、全員、殺されるんですか」
神谷は即答しない。
数秒置いてから言う。
「殺される順番が設計されてる。
でも設計は壊せる」
「どうやって」
「記録で。
犯人の自由を減らす」
私はその言葉を聞いて、ノートを握る手に力が入った。
派手な推理じゃない。
でも、神谷の現場で生き残る方法はいつもそれだ。
自由を減らす。嘘の余白を削る。
00:26。
線状物の回収中、南回廊の観葉植物の鉢から小さなメモ片が見つかった。
白地に印字。今回も文の一部だけ。
……弁明は仮面のまま……
私は背筋が凍る。
第一現場の「……決は仮面のまま……」と同じ紙質、同じフォント。
文言が連続している。
「所長、第二片。『弁明は仮面のまま』」
神谷の目が鋭くなる。
「“判決”“弁明”。
法廷語で揃えてる」
「次は……」
「まだ言うな」
神谷は周囲を見た。
榊原は生きている。
だが三点目の標的が“裁判”なら、次の語は絞られる。
00:31。
そのとき、広間の奥、暖炉の上の古時計がひとつ鳴った。
誰も触っていないはずなのに、短く、乾いた一打だけ。
氷室が顔を上げる。
「今の、合図か?」
誰も答えない。
神谷は時計を見、床を見、暖炉脇の飾り棚を見た。
そして私へ。
「森下、暖炉周辺を線で切る。
誰も近づけるな」
「はい。」
私はロープを張り、立入禁止の札を置く。
直後、暖炉脇の飾り棚の陰から、黒い布切れが見えた。
拾い上げると、仮面の内張りに使う生地。
そして裏に、うっすらと口紅で書かれた文字。
……求刑……
私は息を呑み、神谷を見た。
「所長、三つ目の語、出ました。『求刑』」
神谷は低く言った。
「順番が見えた。
犯人は“裁く物語”を作ってる」
外で雷が鳴る。
窓が震え、照明がまた揺れた。
この館の夜は、まだ半分も終わっていない。
私はページをめくり、見出しを書く。
連続殺人ではない。連続“審理”。
ペン先が紙を掠めた瞬間、北棟側の廊下から、また誰かの悲鳴が上がった。
今度は短く、喉を切るみたいな叫びだった。
私は立ち上がる。神谷はもう動いていた。
「所長!」
「北だ。森下、時刻!」
「00時34分!」
神谷の背中を追いながら、私は思った。
犯人は一人かもしれない。
でも、この夜を動かしている“悪意の脚本”は、確実に私たちより先を読んでいる。
第7章 翁面は夜明けを見ない
《森下メモ 00:34 北棟から短い悲鳴。直前に暖炉周辺でメモ片「求刑」を発見。榊原は小会議室で安静のはず》
北棟へ向かう廊下は、走ると長くなる。
神谷に「走るな」と言われているのに、心拍だけが先に駆ける。私は呼吸の回数を数えながら歩幅を保った。足音は私と神谷、それに遅れて追うスタッフ二人分。悲鳴の余韻だけが、壁にまだ薄く残っている気がした。
「森下、時刻更新」
「00時35分、北棟入口通過」
「いい」
神谷の返事は短い。視線は前、手は空いたまま。武器を持たないのはこの人の流儀だ。違法奪取に加担しない、という線引きは、こういう夜ほど重く見える。
小会議室のドアは半開きだった。
私は喉が詰まる。さっき確かに閉めた。しかもスタッフを一人、扉前に置いたはずだ。
そのスタッフは、ドア脇の壁にもたれ込んでうずくまっていた。
首筋に赤い線。浅い切創。出血は多くないが意識が朦朧としている。
「所長、扉前スタッフ負傷、生存」
神谷が膝をついて頸動脈を確認する。
「意識あり。応急を優先。
森下、室内確認――いや、待て。足元見ろ」
私は一歩手前で止まった。
敷居の内側に、透明の細い線。さっきの非常階段踊り場と同じ、釣り糸状のトラップ。今度は足首の高さ。暗ければ確実に引っかかる。
「ライン罠、再設置。所長、同種です」
「うん。手際がいい。
犯人は“罠を仕掛ける手順”に慣れてる」
神谷はスタッフの首を圧迫止血しながら、私に顎で合図した。
「入口の線を記録。室内は俺が見る」
「はい。」
神谷が線を跨いで室内へ入る。
次の瞬間、神谷の声の温度が一段下がった。
「……榊原さん、死亡」
頭の中で、何かが一拍止まった。
私は視線だけを室内へ送る。
小会議室のソファ前、床に倒れる榊原慎司。翁面は割れて、頬の横に半分落ちている。腹部の止血ガーゼは外され、胸元に新しい刺創がある。今度は深い。明らかに致命傷だ。
「00時36分、第三被害者確認……」
声が掠れた。私は咳払いして書き直す。
00:36 榊原慎司(裁判官OB)死亡確認。
室内は荒れていない。
テーブルの位置も、椅子の向きも、さっきとほとんど同じ。
つまり短時間で、静かに、確実にやられている。
神谷は室内中央で一度だけ目を閉じ、すぐ開いた。
「森下、見取り図。
“誰でも犯行可能”に見える要素を拾え」
「誰でも……?」
「そう見せるのが目的だ。
それを逆に拾う」
私はノートを開き、位置を切る。
ドア、ソファ、窓、負傷スタッフの位置、ライン罠。
窓は閉まっている。鍵も内側。換気口は人が通れない。
出入口はドアだけ。
しかしドア前にはスタッフがいた。
――普通なら不可能。だからこそ「混乱で見落とした」と思わせるタイプの犯行。
神谷が榊原の右手を見た。
指先に白い粉。チョークのような粒子。
テーブルの縁には同じ白い擦れ。
さらに床に小さな紙片。
神谷がピンセットで拾い、私に読ませる。
「……“判決”」
紙片はこれまでと同じ書体、同じ紙質。
これで語が揃った。
判決、弁明、求刑。
そして今、判決そのもの。
「所長、法廷語の連鎖、完成しました」
「うん。
三人目で“共通点に気づけ”って言ってる」
言いながら神谷は室内の時計を見た。
00:31で止まっている。電池切れにしては不自然だ。
裏蓋を外すと、秒針の歯車に細い糸が噛ませてあった。
「時刻偽装……」
「“この時間に殺された”と思わせるための小細工だな。
実際はもっと後」
私は寒気が走る。
犯人は殺すだけじゃなく、記録を撹乱してくる。
私の仕事を正面から潰しに来ている。
背後で負傷スタッフがうめいた。
神谷は応急班を呼び、搬送先を広間脇の控室に指定する。
警察はまだ来ない。救急も山道が塞がって遅延。
この館で生き延びるには、自分たちで夜を繋ぐしかない。
「森下、全員を広間へ戻す。
第三被害を告げるのは俺がやる」
「はい。」
私は先に広間へ戻り、立入線を張り直す。
客の顔色は限界だった。
氷室は私の腕を掴む。
「榊原は!?」
私は振りほどかず、低く答える。
「所長が説明します。今は席へ」
氷室は舌打ちし、椅子を蹴って座る。
鷹野はすでに泣いていた。涙を拭く手が止まらない。
00:49。
神谷が広間中央に立つ。
誰も声を出さない。雨音だけが窓を叩く。
「報告します。
榊原慎司さんは、北棟小会議室で死亡が確認されました」
場が凍る。
誰かが短く悲鳴を漏らし、誰かが祈るように口元を押さえる。
氷室が立ち上がり、拳を握る。
「もう終わりだ……次は俺だろ!」
「座って」
神谷の一言で、氷室の動きが止まる。
声量は大きくない。なのに逆らいづらい。
「これで被害者は三名。
共通点は明確です。
元検察官、弁護士、元裁判官。
同じ司法線上にいた人物が順に狙われている」
広間の奥で、仮面の客が息を呑む音が重なる。
鷹野が震える声で言った。
「それって……昔の事件の……」
神谷は肯定も否定もしない。
「今は“誰が次か”を考えるより、“どうやって連鎖を止めるか”を優先します。
この三件は、単純な単独犯行に見せた連続操作です」
「操作?」
氷室が睨む。
「誰が、何のために」
「あなた方が互いを疑って、互いを潰すため」
神谷はボードに三本線を引く。
被害者名を繋ぐ線。
その外側に大きな円を描いた。
「実行者が毎回同じとは限らない。
でも、順番と演出を設計してる“外側の手”は一つ」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ冷えたまま安定するのを感じた。
怖い。けれど、形が見える怖さは、形のない怖さよりましだ。
神谷が私に目で合図する。
私は封印袋から、これまでのメモ片を順に出して掲示した。
- ……決は仮面のまま……
- ……弁明は仮面のまま……
- ……求刑……
- ……判決……
客のざわめきが再び広がる。
氷室が低く呻く。
「裁判ごっこかよ……」
神谷が答える。
「ごっこじゃない。
過去の“裁き”を、今夜ここで再演してる」
そのとき、鷹野が急に顔を上げた。
涙で濡れた目が、まっすぐ神谷を捉える。
「……真緒さん」
広間の空気が一段止まる。
「何ですか」
神谷が促す。
「私、見ました。
さっき北棟へ行く前、南回廊の鏡に……白いドレス。
黒瀬真緒さんに、似てた」
私は思わず神谷を見る。
神谷は表情を変えないまま、問いを重ねた。
「時刻」
「00時20分くらい……たぶん」
「“たぶん”じゃなく、前後の出来事で言って」
「えっと……線状のものを回収してるとき。
氷室さんが『終わりだ』って言ったあとです」
私はノートを確認する。
氷室の発言は00:23。
鷹野の目撃はその前後。整合は取れる。
「所長、時系列、矛盾なしです」
神谷は短く頷く。
「分かった。
ただし、今すぐ真緒さんを犯人扱いはしない」
氷室が噛みつく。
「動機は十分だろ。兄貴の件で――」
「動機だけで人は有罪にならない」
神谷の言葉は硬い。
私はその硬さに、少し救われる。
00:58。
神谷は次の方針を示した。
- 南棟を重点捜索(真緒の所在確認)。
- 広間は施錠し、一般客を保護待機。
- 氷室・鷹野は神谷と森下の視界内で移動。
- 全員の靴底・衣服の繊維を簡易採取(任意同意)。
反発はあったが、三人死んだ現実が反論を削った。
私は採取袋とラベルを並べ、手順を説明する。
単純作業に集中すると、心拍が戻る。
それでも、ラベルに「第三被害」と書く手だけは重かった。
01:07。
準備が整い、神谷が私の横に来る。
声は低く、いつも通り。
「森下、ここからが分岐だ。
真緒さんを“復讐者”として捕まえるか、
“利用された駒”として保護するか」
「どっちだと思いますか、所長」
神谷は一拍置いた。
「両方の顔を持ってる。
だから先に、物理を見に行く」
「物理」
「三件を一人でやれるかどうかだ」
私は頷く。
感情ではなく、可能性で切る。
それが神谷の順番だ。
01:10。
私たちは南棟へ向かう。
廊下の端で、風が細く鳴る。どこかの窓が完全には閉まっていない。
私はノートの新しいページを開き、見出しを書く。
第4対象:黒瀬真緒(被疑/保護対象)
その文字を書いたとき、南棟奥の扉の向こうで、何かが落ちる音がした。
軽い金属音。
続いて、かすかな女の息遣い。
神谷が手を上げ、私を止める。
視線だけで「音の向き」を確認する。
私は頷く。
「所長、右奥、倉庫側です」
「行く。
声はかけるな。まず生存確認」
私はペンを握り直した。
三つの死体の先に、ようやく“探している娘”の影が現れる。
でもこの夜の脚本は、いつだって一手遅れて読ませる。
次に開く扉の向こうで、私たちが見るのは犯人か、被害者か――
まだ、決めるには早い。
第8章 過去事件の名
《森下メモ 01:12 南棟右奥・倉庫前で金属音。扉内から女性の呼吸音を確認。突入前、神谷が“生存確認優先”を指示》
南棟の廊下は、本館より照明が暗かった。
壁のランプは二つに一つしか点いていない。床は古い絨毯で、足音を吸ってしまう。聞こえるのは、どこかで鳴る空調の低い唸りと、雨が窓枠を叩く細い音だけ。
神谷が右手を上げ、私と同行スタッフを止める。
倉庫扉の前、三歩手前。
ドア下の隙間から、薄い光。中に誰かいる。
神谷が低い声で言った。
「森下、時刻」
「01時12分」
「記録。
これより扉前交渉。扉を開けるのは中の返答後」
「はい。」
神谷は扉に正対せず、半身で立つ。真正面に立たないのは、向こうが刃物を持っていた場合の基本だ。
私は少し後ろでノートを構え、ペン先を紙に置いた。
「中にいる人、聞こえますか。
私は神谷探偵事務所の神谷。森下も一緒です。
扉はすぐには開けません。まず返事をしてください」
数秒の沈黙。
次いで、かすれた女の声。
「……開けないで」
若い。震えている。
私は心臓が一拍強く打つのを感じた。
神谷は声の温度を一段だけ下げた。冷たくではなく、揺らがないように。
「分かりました。開けません。
あなたの名前を教えてください」
「……真緒」
私はノートに書く。
01:13 名乗り:真緒。
「黒瀬真緒さんですね」
「……うん」
神谷は私に視線を向けず、続ける。
「怪我は」
「してない。
でも、外に……あいつらがいる」
「あいつら、とは誰ですか」
返答が遅れる。呼吸音だけが扉越しに聞こえる。
「……分からない。
みんな、仮面だから」
その答えは正しいし、逃げにもなる。
神谷は急がない。
「真緒さん、ここにいる理由を話せますか」
「……話せない」
「話せない、のは“知られたくない”からか、“話すと誰かが困る”からか」
扉の向こうで衣擦れ。
真緒の息が一度途切れる。
「……両方」
神谷が小さく頷いたのが分かった。
私はメモ欄に「交渉継続可」と書く。
「真緒さん。今夜、三人が死んでいます。
あなたを犯人として決めるために来たわけじゃない。
まず、あなたを“生きた証言者”として守るために来た」
沈黙。
そのあと、鍵が内側で鳴った。
ゆっくり一度、止まって、もう一度。
ドアが細く開く。
隙間から、白いドレスの裾と、痩せた指が見えた。
神谷が手で制し、先に足元を確認する。
線状トラップなし。
扉をさらに開けると、倉庫の中は狭く、棚と木箱が積まれていた。
その奥に、黒瀬真緒が膝を抱えて座っている。
写真で見た顔より、輪郭が細い。
目の下に薄い隈。唇は乾き、肩が細かく震えていた。
彼女の仮面は外され、足元で割れている。
「……母が、あなたたちに頼んだんでしょ」
最初の言葉がそれだった。
神谷は頷く。
「依頼は受けた。
でも、あなたを“連れ戻す”約束はしていない」
真緒の目が、ほんのわずかに動く。
警戒と安堵が混じった顔だ。
「じゃあ、何しに来たの」
「真実の順番を取り戻しに来た」
神谷の返答に、真緒は苦く笑った。
「順番なんて、もうぐちゃぐちゃだよ」
私はその言葉をそのままメモに写した。
順番はぐちゃぐちゃ――まさに今夜の要約みたいだった。
01:19。
倉庫内で簡易聴取を開始。
私は録音機を置き、時刻を告げる。
「01時19分、黒瀬真緒さんへの確認開始」
神谷が最初に訊いたのは、犯行ではなく“経路”だった。
「今夜、いつこの館に入った」
「19時すぎ。スタッフ動線から」
「招待客として?」
「違う。呼ばれた」
「誰に」
真緒は即答しない。
代わりに、床の割れた仮面を見た。
「……あの五人の、誰か」
「誰か、じゃなくて」
「本当に分かんない。
連絡はいつも別番号。声も変えてた」
嘘をついている感じは薄い。
でも、全部を言っていない気配は濃い。
神谷は質問の角度を変える。
「あなたは、瀬川珠紀、真田光星、榊原慎司を知ってるか」
真緒の指が止まる。
呼吸が浅くなる。
「……知ってる」
「どういう関係だ」
「私の兄の、事件で」
やっぱり、そこに行き着く。
私はペンを握り直し、次の言葉を待った。
「兄は、無実だった。
なのに有罪になって、獄中で死んだ。
検察も、弁護士も、裁判官も、みんな“手続きは正しい”って言った」
真緒の声は震えていた。でも泣いてはいない。
泣けないまま、長く固まった声だ。
「事件名は覚えてるか」
神谷が訊く。
「覚えてる。忘れるわけない」
真緒はゆっくり、はっきりと告げた。
「青葉台ひき逃げ冤罪事件。
被告は黒瀬玲央。私の兄」
私はその名前を書いた瞬間、背筋に冷たい線が走る。
過去事件の固有名が出た。
これで三件の死と、依頼者の家族線が一本に繋がる。
神谷は頷き、続けた。
「今夜、あなたに何をさせるつもりだった」
真緒はしばらく黙り、やがて言う。
「“見届け役”って言われた。
最初は脅しだと思った。
でも瀬川が死んで、真田が死んで、榊原まで……」
言葉が詰まる。
私は水を差し出した。真緒は両手で受け取り、少しだけ飲む。
「誰が“見届け役”と言った」
「……声を変えた女」
「母親か」
真緒は首を振る。強く。
「違う。
母の声じゃない。たぶん」
“たぶん”。
その揺れが、私にはむしろ本物に見えた。
親の声は分かる。分かるはずなのに、分からないと言うとき、人は壊れている。
神谷は攻めない。
「あなた自身は、三件に関与したか」
真緒は神谷をまっすぐ見た。
「……一件目のあと、メモを置いた。
でも、人は殺してない」
私は息を呑む。
重要供述だ。
「どのメモ」
「“弁明は仮面のまま”の紙。
渡された。指定場所に置けって」
「誰から」
「メッセージアプリ。消えるやつ。
送信者名は毎回違う」
神谷の目が細くなる。
「つまり、あなたは“演出”に使われた」
「そう」
真緒は唇を噛む。
「私は……兄のことで、あいつらを憎んでた。
だから最初、止めなかった。
でも、二人目が死んだとき、これ違うって分かった。
私が考えてた“復讐”じゃない」
「どう違う」
「これは、私を犯人にするためのやり方」
倉庫の空気が一段冷えた気がした。
神谷は短く頷く。
「誰があなたを犯人にしたい」
「……知らない。
でも、私の動機を知ってる人」
それは範囲が広すぎるようで、実は狭い。
兄の事件、遺族の感情、今夜の社交場、五人の内部事情。
知りすぎた人間しかできない設計だ。
01:31。
神谷は私に合図し、倉庫扉の外を確認させる。
廊下は静か。同行スタッフは持ち場を守っている。
戻ると、神谷が真緒に最後の確認をしていた。
「あなたの母親、黒瀬澄江は今夜の会を知っていた。
理由は分かるか」
真緒の目が揺れる。
初めて、はっきりと恐怖の色が出た。
「……母は、兄の事件のあと、変わった。
ずっと“法は仮面だ”って言ってた。
でも、ここまでのことは……」
言い切れない。
私はノートに書く。
母を庇う言葉と、母を恐れる沈黙が同居。
そのとき、神谷の端末が短く振動した。
館内の有線内線。交換室からだ。
神谷が出ると、黒服責任者の緊張した声。
『神谷さん、広間で揉めています。氷室さんが“俺は全部話す”と……』
神谷が即答する。
「拘束はしない。座らせて待機。
森下と真緒さんを連れて戻る。三分で行く」
通話を切り、神谷が私を見る。
「森下、真緒さんを保護対象として移送。
動線は南廊下一本。誰とも交差させない」
「はい。」
真緒が立ち上がる。足元がふらついた。
私は腕を貸し、歩幅を合わせる。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫じゃない」
「それでいいです。今は歩ければ」
私たちは倉庫を出る。
廊下の鏡に、私、真緒、神谷の三人が並んで映る。
その映像が、どこか証言映像みたいに見えた。
被害者か、共犯者か、目撃者か。
役割はまだ確定していない。
01:35。
広間に戻ると、空気が張りつめていた。
氷室が椅子から半分立ち、拳を握ったまま呼吸を荒くしている。
鷹野は目を逸らし、一般客は仮面の下で凍っていた。
氷室が真緒を見るなり叫ぶ。
「おまえ……やっぱりいたのか!」
真緒の肩が跳ねる。私は一歩前に出る。
神谷が氷室を制した。
「声を下げて。
彼女は保護対象だ」
「保護? 冗談だろ!
三人死んでんだぞ!」
神谷はボードの前に立ち、低く言った。
「だからこそ。
今ここで“犯人を決める”のは、犯人の思う壺だ」
氷室の目に怒りが滲む。
でも、その奥にあるのは怒りだけじゃない。
次に疑われる恐怖だ。
神谷は私に視線を向ける。
私は頷き、ボードに新しい項目を書いた。
- 過去事件名:青葉台ひき逃げ冤罪事件
- 被告:黒瀬玲央(獄中死)
- 関連:瀬川(検察)/真田(弁護)/榊原(裁判)
文字が並んだ瞬間、広間に小さなどよめきが走った。
事件の名前は、仮面より強い。
誰が何を隠しているかを、名前が勝手に照らす。
神谷が真緒に椅子を勧める。
「ここからは、俺と森下が聞く。
あなたは、知っている範囲を話せばいい。
作らなくていい。盛らなくていい。削らなくていい」
真緒は小さく頷いた。
私は録音機の新しいファイルを開く。
見出しを入力する。
01:39 黒瀬真緒・本聴取(保護下)
そのとき、広間奥の扉が音もなく開いた。
誰も呼んでいないはずの入口。
外気が細く流れ込み、甘い花の香りが一瞬だけ濃くなる。
私は反射的に顔を上げた。
扉の向こう、逆光の中に、黒いコートの女の影が立っている。
姿勢だけで分かった。
依頼人――黒瀬澄江。
神谷の目が、わずかに細くなる。
「……来たか」
私はノートに走り書く。
01:40 依頼者、現場再登場。
夜が、次の段に入る。
第9章 失踪者の告白
《森下メモ 01:40 依頼者・黒瀬澄江が広間へ再登場。来館経路不明。外扉は本来スタッフ管理》
扉の隙間から入ってきた夜気は冷たく、甘い花の香りを薄く引きずっていた。
黒瀬澄江は濡れたコートのまま、広間の入口で立ち止まる。仮面はつけていない。顔色は青いのに、目だけがまっすぐこちらを見ていた。
「真緒……!」
その声で、真緒の肩が強く跳ねた。
立ち上がりかけて、止まる。
母を見たい気持ちと、近づきたくない気持ちが、身体の真ん中でぶつかっているのが分かった。
神谷が一歩前に出る。
「ここは規制中です。
なぜ来られたんですか」
黒瀬は息を整え、神谷を見た。
「連絡がつかなくて……待てなくて。
娘がここにいると、分かっていたから」
分かっていた。
その言葉が、空気をさらに冷たくする。
「誰に聞いたんです」
「……人づてです」
「誰ですか」
黒瀬は答えない。
視線だけが真緒へ向く。真緒は目を逸らした。
私はノートに追記する。
“人づて”の主語なし。来館経路説明なし。
氷室が鼻で笑った。
「都合いいな。
死体が三つ出たタイミングで母親登場かよ」
「やめて」
鷹野が小さく制したが、氷室は止まらない。
「この一家、最初から全部知ってたんじゃねえの?」
真緒が立ち上がる。椅子が軋む音。
「違う!」
叫びは鋭く、広間の天井に跳ね返った。
全員が真緒を見る。
真緒は両手を握りしめ、息を詰めたまま言葉を吐いた。
「私は……私は、二人目までは、止めなかった。
でも、三人目は違う!
私、殺してない!」
広間が凍る。
“二人目までは止めなかった”――自白に近い告白。
私は喉が乾くのを感じながら、時刻を書いた。
01:43 黒瀬真緒「二人目までは止めなかった」発言。
神谷は即座に割り込まない。
数秒の沈黙を置き、真緒の呼吸が少し落ちるのを待ってから訊く。
「“止めなかった”を具体的に。
何を知っていて、何をしなかった」
真緒は唇を噛み、ゆっくり答える。
「最初のメモを置いた。
次の場所も、指示されて知ってた。
でも、殺すとは思ってなかった……思いたくなかった」
「指示は誰から」
「匿名メッセージ。消えるアプリ。
“弁明は仮面のまま”を南回廊に置けって」
「二件目の直前、誰と接触した」
「……してない。
でも、黒い手袋の人を見た。背が高い。男か女か分からない」
氷室が吐き捨てる。
「そんなの誰でも言える」
神谷が氷室を見ずに言う。
「発言を挟まないでください。
今は真緒さんの供述を取る」
黒瀬澄江が一歩踏み出す。
「真緒、もういい。
帰りましょう」
真緒の顔が強張る。
「帰れない。
帰ったら全部、私のせいになる」
「そんなことは――」
「あるよ!」
真緒の声が割れる。
私は反射的に録音機のレベルを確認する。
こういう瞬間の言葉は、後で意味が反転しやすい。
神谷が低く、しかしはっきりと言った。
「黒瀬さん。
今は母親として話すより、依頼人として答えてください」
澄江の目が神谷へ向く。
神谷は続ける。
「あなたは、今夜の社交場の存在を最初から知っていた。
それだけじゃない。
この館の“外扉管理”を通らずに入ってきた。
どうやって来たんですか」
黒瀬の喉が動く。
「……裏道を」
「裏道の位置は非公開です」
沈黙。
神谷が追い打ちをかける。
「誰に教わった」
黒瀬は目を伏せた。
代わりに答えたのは、意外にも榊原の世話をしていた黒服責任者だった。
「裏道は、旧会員しか知らないはずです。
昔、招待制が厳しかった頃の搬入口で……」
言いかけて、女は口をつぐむ。
言ってはいけないことを言った顔だった。
神谷はその一言を拾う。
「旧会員。
黒瀬さん、あなたはこの館の会員だった?」
「違います」
即答。
でも速すぎる。
真緒がぽつりと言う。
「母は……昔、ここで働いてた」
澄江が振り向く。
「真緒!」
真緒は止まらない。
「兄が逮捕されたあと、母は何度かここに来てた。
“話をつける”って言って」
氷室が低く笑う。
「話をつける、ね」
鷹野が顔を覆う。
空気が一気に“家族の修羅場”へ流れかけるのを、神谷が断ち切る。
「森下、整理ボード」
「はい、所長」
私はボードに新しい列を作る。
- 依頼者:黒瀬澄江
- 館との接点:旧搬入口知識(要確認)
- 娘供述:過去に来館歴あり
- 目的:娘捜索(表)/別目的(裏)不明
見える形にすると、感情の濁流が少しだけ細る。
01:52。
神谷は真緒へ視線を戻した。
「次。
あなたは“私が終わらせた”と言った。
その意味を正確に」
真緒はうなずき、絞るように言葉を出した。
「兄のことで、あの三人を許せなかった。
だから、最初の死体を見たとき……
“これで終わる”って思った。
終わらせた、って言ったのは、その意味。
私が殺したって意味じゃない」
私はそのまま書き写す。
供述としては弱い。
でも“心理の自白”としては重い。
神谷は確認する。
「凶器を持ったか」
「持ってない」
「ライン罠を知っていたか」
「知らない。
あれ、見たとき本当に怖かった」
「二件目の現場に行ったか」
「行ってない。悲鳴のあと、南棟に隠れた」
神谷は時計を見る。
そして私へ。
「森下、物理の照合」
「はい。
真緒さんの身長・体格で、榊原さんへの深い刺創は可能ですが、
短時間で罠設置と同時実行は単独だと難しいです。
特に扉前スタッフへの切創を含めると、同時刻帯で二地点対応は矛盾します」
氷室が苛立つ。
「つまり共犯ってことだろ」
「違う」
神谷が切る。
「“単独犯と断定できない”だけだ。
そして現時点で、真緒さん単独は成立しにくい」
黒瀬澄江が小さく息を吐く。
安堵にも見えるし、別の計算にも見える。
私はその表情を見て、胸の奥がざわついた。
この人は今、娘の無実を喜んだ顔じゃない。
“予定が崩れていない”顔に近い。
01:59。
神谷は黒瀬澄江に向き直る。
「あなたにも確認します。
青葉台ひき逃げ冤罪事件の関係者を、今夜ここに集めたのは誰ですか」
「知りません」
「では、なぜ“この夜に娘がいる”と確信した」
黒瀬は口を開き、閉じる。
その沈黙を、氷室が壊した。
「俺が呼ばれたメッセージ、末尾が同じだった。
“仮面の下で話を終わらせる”って。
たぶん全員同じ文面だ」
神谷がすぐ訊く。
「端末は」
「提出済みだろ」
封印袋の中。
私はラベルを確認し、氷室端末を取り出す。立会いのもとで表示履歴を開くと、確かに削除済み通知の痕跡だけが残っている。
送信者は毎回異なるID、しかし招待文末が共通。
仮面の下で話を終わらせる。
私は文字を見た瞬間、背中が冷えた。
“話を終わらせる”は、“命を終わらせる”にすり替えられる言葉だ。
02:05。
神谷は全員に告げる。
「ここまでで確定したことを言います。
一つ、三件は過去の司法線に沿った選別。
二つ、真緒さんは演出に利用された可能性が高い。
三つ、招待文面とメモ片は同一設計者の痕跡。
四つ、依頼人である黒瀬さんは館の非公開情報にアクセスしている」
黒瀬が顔を上げる。
「私を疑うんですか」
「疑うのは全員です。
あなただけを特別扱いしない」
神谷の声は変わらない。
私はその言葉を聞き、少しだけ肩の力が抜けた。
母親だから、被害者家族だから、と線を曲げない。
それがこの夜の唯一の安全地帯だ。
真緒が小さく言った。
「……所長さん」
「神谷でいい」
「じゃあ、神谷さん。
私、もう逃げない。
知ってること全部話す」
神谷はうなずく。
「森下、正式調書モードに切り替え」
「はい。」
私は新しいページを開く。
見出しを書く。
黒瀬真緒 詳細供述(02:07開始)
真緒は深く息を吸い、言った。
「最初のメッセージが来たのは一週間前。
“兄の真実を知りたければ、仮面の夜に来い”って。
指定されたロッカーに、私の名前のない封筒があって……
中にこの館のカードと、四枚の紙が入ってた」
「四枚」
「うん。
“判決”“弁明”“求刑”……あと一枚」
「何て書いてあった」
真緒は一瞬、母親を見た。
澄江は視線を逸らす。
「……“執行”」
空気が止まる。
私はペン先を強く押しすぎて、紙に小さな穴を開けた。
執行。
判決、弁明、求刑の次に来る語。
もしこの順番通りなら、夜はまだ終わっていない。
「所長……四枚目、まだ未発見です」
神谷は即座に立ち上がる。
「全員、広間中央へ寄せる。
暖炉・時計・ステージ裏を優先捜索。
“執行”が出る前に止める」
「はい!」
私が動き出したその瞬間、
広間の照明が一斉に落ちた。
今夜で三度目の完全停電。
悲鳴が重なり、椅子が倒れ、誰かが私の肩にぶつかる。
「所長!」
「ここだ、森下! その場で低く――」
神谷の声の途中、
すぐ近くで、短く湿った音がした。
刃物が布を裂くような、嫌な音。
非常灯が遅れて点く。
橙色の光の中、広間中央で、誰かが膝から崩れ落ちるのが見えた。
私は時刻を見る。
秒針が震えている。
「02時11分――!」
神谷が走る。
私はノートを胸に押し当て、後を追った。
“執行”は、もう始まっている。
第10章 殺し合いの設計図
《森下メモ 02:11 三度目の停電直後、広間中央で転倒者発生。刃物音様の短音あり。非常灯復旧は約4秒後》
橙色の非常灯が戻ったとき、広間の中央で倒れていたのは氷室蓮だった。
額に浅い裂傷。胸元を押さえているが、血はにじむ程度。致命傷ではない。
私は喉の奥を締める息を吐いた。死体じゃない。まだ生きている。
「所長、氷室さん生存、出血少量!」
神谷はすでに氷室の手を外し、負傷箇所を確認していた。
「浅い。かすり傷だ。
森下、時刻記録。誰がどこにいたか、今すぐ固定」
「はい!」
私はノートを開いて叫ぶ。
「動かないでください! 今見えている位置のまま止まって!」
声が裏返りそうになるのを抑える。
客たちは仮面のまま固まり、鷹野は椅子の脇でしゃがみ込み、真緒は私の左後方で壁に背をつけていた。
黒瀬澄江は広間入口付近。神谷から最も遠い位置にいる。
神谷が氷室へ低く訊く。
「刺された感覚は」
「……分かんねえ、ぶつかったと思ったら、熱くて」
「誰か見たか」
「黒い影。右から」
“黒い影”は今夜何度も出る。
当てにならない証言の典型だ。けれど、ゼロよりはまし。
神谷は私に合図する。
「森下、照明制御系を最優先。
交換室、配電盤、非常灯タイミングを取る」
「はい。」
私は黒服スタッフ一人を伴って交換室へ向かう。
廊下は静かすぎる。さっきまでの悲鳴が嘘みたいに、空調音しかない。
交換室のドアを開けると、配電盤の前に小さな端末が置かれていた。
スマホより薄い、無線リレーのような機器。LEDが弱く点滅している。
配線は簡易クリップで噛ませてあり、タイマー制御が可能な構成だった。
「所長、交換室です。
配電盤に外部リレー機器、発見。タイマー式の可能性高いです。」
無線越しに神谷の声。
『触るな。写真と時刻だけ。
それで“停電の意図性”が確定できる』
「了解、所長。時刻02:16、機器発見」
私はメモに型番らしき刻印を写す。
汎用品。通販でも手に入るレベル。
つまり専門業者でなくても設置できる。
さらに床を見ると、細い白線がドアから盤前まで続いていた。
粉。チョークの粉末。
榊原の指先にあったものと同系統だ。
「所長、床に白色粉末。榊原さん指先の粉と一致傾向」
『いい。
“同一設計者が同一素材を使ってる”補強になる』
私は深呼吸して戻る。
広間へ入ると、神谷がすでに次の手を打っていた。
中央テーブルを移動させ、全員を半円配置に座らせている。視界の死角を減らす陣形だ。
「森下、報告」
「02:16、交換室で外部リレー機器発見。
配電盤にクリップ接続、タイマー制御可能。
床に白色粉末線あり」
神谷が短く頷く。
そのまま全員に聞こえる声で言った。
「今夜の停電は事故ではなく操作です。
犯人は暗闇を“作って”います」
どよめき。
氷室が痛みに顔をしかめながら笑う。
「ほらな。
誰かが全部仕組んでる」
神谷は氷室を見た。
「あなたも“仕組みの中”にいる。
傷は軽い。わざと浅く切られた可能性がある」
「囮ってことかよ」
「あるいは、次の殺し合いを引き起こす点火剤」
氷室の目が細くなる。怒りより先に、理解の色が出た。
浅い傷は“生かして疑わせる”ために最適だ。
02:21。
神谷はボードに太く書く。
- 連続事件の主目的:相互不信の最大化
- 手段:停電操作/メモ誘導/罠設置/疑似襲撃
- 効果:被害者側同士の先制攻撃誘発
「今から、もう一つ確認します」
神谷は真緒を見る。
「真緒さん。
あなたが受け取った四枚目の語は“執行”で間違いないか」
「……間違いないです」
「紙の形状は、これまでのメモ片と同じか」
「うん。同じ紙。
同じフォント。端がまっすぐ切ってあった」
神谷は黒瀬澄江へ視線を移す。
「黒瀬さん。あなたは“執行”という語に心当たりがありますか」
「ありません」
即答。
神谷は間を置かず続ける。
「青葉台ひき逃げ冤罪事件の遺族会記録に、
“判決・求刑・執行”という語を使ったメモが残っていた。
あなたの筆跡に近い」
澄江の瞳がわずかに開く。
私は息を止めた。
神谷がどこまで把握しているのか、私にも全部は見えていない。
「……そんなもの、知りません」
「知ってるはずです。
あなたは“法は仮面だ”と言っていた」
真緒が顔を上げる。
「母さん……?」
澄江は娘を見ない。
代わりに私へ、そして神谷へと視線を滑らせる。
逃げ道を探す目だ。
神谷は追い込む声を使わない。平坦に、事実だけを置いていく。
「ここまでで分かるのは、
“誰が誰を刺したか”より、
“誰が刺すように場を設計したか”です。
三件の死、二件の負傷、三度の停電。
これを即興で回すのは不可能に近い」
私はボードの下に補助線を引いた。
実行犯≠設計犯。
この一行で、視点が変わる。
氷室が低く言う。
「つまり、俺たちは踊らされてるだけか」
神谷が答える。
「そう。
そして“踊っている最中に手を出したやつ”がいれば、
設計犯はそいつを実行犯に仕立てる」
鷹野が震える声で言った。
「……私、第一のあと、氷室さんを疑ってた。
第二のあと、真田さんが怖くて……
さっきは真緒さんを……」
言葉が崩れる。
私は水を渡し、鷹野の前にティッシュを置く。
この場では、感情の崩壊が次の事故になる。
02:28。
神谷は全員に「今夜、誰を疑って何をしたか」を短く申告させた。
これは“懺悔”じゃない。
先制行動の芽を、言語化して無力化するためだ。
- 氷室:真田を脅した、腕を掴んだ。
- 鷹野:真緒を犯人と思い、隠れた。
- 真緒:メモ設置に協力した。
- 澄江:回答を拒否(「娘を守るため」だけ繰り返し)。
神谷は黒瀬澄江の“拒否”をそのまま記録した。
無理に引き出さない。拒否そのものが証拠になるからだ。
02:33。
私は神谷に小声で言う。
「所長、設計図って、具体的には」
神谷はボードの隅に簡単な図を描いた。
- 招待文で対象者を集合
- 停電で視認を奪う
- メモで“司法語”を提示
- 小規模攻撃で疑心を点火
- 当事者同士に先制行動させる
- 最後に“執行”で責任を一人に集中
「これが殺し合いの設計図だ」
私はその図を見て、胃の奥が重くなる。
人間を直接操るのではなく、感情の順番を操る。
怒り、恐怖、正当化。
その流れに乗せれば、誰でも加害者になる。
02:37。
神谷は結論を置いた。
「今夜の核心は“誰が刺したか”単体じゃない。
“誰が刺す状況を作ったか”だ。
そして設計犯は、過去事件と館の導線、
両方を知っている人物に限られる」
氷室が澄江を見る。鷹野も見る。
真緒は見ない。
見ないこと自体が、もう答えに近い。
澄江が初めて強い声を出した。
「だったら何ですか。
法が間違えたことは誰が執行するんですか」
広間が静まり返る。
神谷は即答した。
「あなたじゃない」
「どうして」
「あなたの“執行”は、娘を次の被告にするからだ」
澄江の肩が微かに震える。
怒りか、図星か、両方か。
私はその震えを見て、ペンを握り直した。
02:41。
そのとき、広間の時計が二度鳴った。
同時に、南回廊側の非常灯が一つ落ちる。
完全停電ではない。局所消灯。
犯人がまだシステムに触れている証拠だ。
「所長、南回廊だけ落ちました」
「分かってる。
“執行”は局所でやるつもりだ」
神谷は即断する。
「全員、ここから一歩も動かない。
森下、俺と来い。
交換室のリレーを物理的に切る」
「はい、所長」
私は立ち上がる。
神谷は去り際、真緒にだけ言った。
「あなたはここにいろ。
母親から離れるな、でも二人きりになるな」
真緒が頷く。
澄江は何も言わない。
私たちは交換室へ急ぐ。
廊下を曲がると、甘い花の香りが急に濃くなった。
そして配電盤の前、床に新しい紙片が落ちている。
私は拾わず、読む。
白地に黒字。
……執行は母の手で……
背中がぞくりとした。
神谷が低く言う。
「来たな。
森下、これで“設計犯の自己署名”だ」
「所長……」
「まだ確定じゃない。
でも、ここからは“誰が最終行為をするか”を止める段階だ」
神谷はリレー機器の電源を落とし、配線を抜いた。
違法な侵入ではない。管理責任者立会いでの安全措置。
私は時刻を記録する。
02:45 停電操作系リレー無効化。
その瞬間、広間方向から椅子の倒れる大きな音がした。
誰かの叫び。
私は反射的に走りかけ、神谷の声で止まる。
「走るな、森下。視界を守れ!」
「はい!」
それでも心拍は跳ねる。
私たちは広間へ戻る。
扉を開けた先、中央で澄江と真緒が向かい合って立っていた。
澄江の手には、細いナイフ。
刃先は真緒ではなく、自分の喉元に向いている。
真緒が泣き声で叫ぶ。
「やめて、母さん!」
神谷が一歩入る。声は落ち着いている。
「黒瀬さん。
それは“執行”じゃない。
証拠の焼却です」
澄江の目が、静かに笑った。
その笑みは、泣いていた依頼人の顔とは別人だった。
「……やっと、ここまで来たのに」
私はノートに書く。
手が震えて、字が歪む。
設計図、最終段階。
“執行”開始。
第11章 依頼書にない地図
《森下メモ 02:46 広間中央。黒瀬澄江がナイフを保持。刃先は自己頸部方向。神谷は“証拠の焼却”と判断》
人が本気で死のうとする姿勢と、死ぬふりの姿勢は、似ているようで違う。
黒瀬澄江の手首は震えていなかった。刃先は喉の皮膚に触れる寸前で止まっている。押し込む角度ではなく、見せる角度だった。
私はその距離を見た瞬間、神谷が言った意味を理解した。
これは“自害”じゃない。主導権の確保だ。
「母さん、やめて!」
真緒が一歩踏み出す。
神谷が手を上げて止める。
「真緒さん、そこで止まって。
今近づくと、あなたが“引き金を引いた”構図になる」
澄江の目が細くなる。
図星を刺された人の目だ。
神谷は声を落としたまま続ける。
「黒瀬さん。
あなたはここまで、ずっと“誰かにやらされた母親”を演じてきた。
でも今の立ち位置は違う。
あなたは、舞台の中央に自分で立った」
「……何が言いたいんですか」
「依頼書にない地図を、あなたが持ってるってことです」
私はノートにその言葉を書いた。
依頼書にない地図。
それは物理の地図でもあり、心理の地図でもある。
神谷は一歩、半歩だけ近づく。
距離を詰めすぎない。追い込みすぎると、演技が本物の事故に変わる。
「あなたは今夜、
旧搬入口を使って来館した。
館内の停電ポイントを知っていた。
さらに、法廷語の連鎖メモの語彙に心当たりがある。
ここまで揃って“偶然”は成立しない」
澄江は唇を引き結ぶ。
その横で氷室が低く吐き捨てた。
「やっぱりこいつが――」
「氷室さん、黙って」
神谷が制する。
怒りの矛先は便利だが、真実を潰す。
私はそのやり取りを見ながら、広間の入口側に置いた非常灯の角度を直した。影を減らす。今は視界が命だ。
02:49。
神谷は私に合図する。
「森下、依頼書」
「はい、所長」
私はファイルから初回受任票のコピーを出す。
神谷が澄江に向けて読み上げた。
「失踪時刻、三日前22時。
勤務先“会員制社交場”、名称不明。
娘の所持品“仮面の招待状”。
――ここまでが依頼書」
神谷は紙を下ろす。
「でもあなたは、初回面談で
“山の方”“仮面着用ルール”“同伴入場”まで口にした。
名称不明のはずの場の運用を、詳細に知っていた」
澄江の喉が上下する。
ナイフの先端がほんの少し揺れた。
「母親なら、娘を調べるでしょう」
「調べただけで旧搬入口は分からない」
神谷の返答は即座だった。
「それは“来た人間”の知識です」
私は胸の中で小さく息を呑む。
詰め方が精密だ。
感情に触れず、動線だけで逃げ道を潰す。
澄江は笑った。
乾いた、小さな笑い。
「……探偵って、冷たいのね」
「冷たくない。
崩さないだけです」
神谷の声は変わらない。
その言葉に、真緒が目を伏せた。
たぶん、どこかで救われた顔だった。
02:52。
神谷は次のカードを切る。
「もう一つ。
あなたは“来館経路”の質問に答えなかった。
代わりに“娘を帰したい”を繰り返した。
これは質問回避の典型です。
そして、さっき交換室前で見つかったメモ――
“執行は母の手で”。
この文言は、犯人があなたを名指しで使っているか、
あなた自身が署名しているかのどちらかです」
澄江の瞳に、一瞬だけ苛立ちが走った。
私は見逃さずに書く。
“母の手”提示時、表情に嫌悪ではなく反応(既知可能性)。
神谷が続ける。
「もしあなたが無関係なら、
今ここで最優先に言うべきは“私じゃない”です。
でもあなたは言わない。
代わりに“やっとここまで来た”と言った」
真緒が顔を上げる。
「母さん……あれ、どういう意味」
澄江は娘を見ない。
視線は神谷に固定したまま。
「……あなたには分からない」
神谷が低く返す。
「分からせるために、今夜を作ったんでしょう」
広間の空気が張りつめる。
鷹野が小さく震え、氷室は拳を膝に押しつけていた。
03:00。
神谷は私へ。
「森下、館内地図のボード」
「はい。」
私は見取り図を持って中央へ運ぶ。
神谷が赤ペンで線を引いていく。
- 旧搬入口
- 交換室
- 北棟小会議室
- バーカウンター西端
- 暖炉前(メモ出現点)
「この線を、一般客は辿れない。
スタッフでも、全部を一晩で回すのは難しい。
でも、館の古い動線を知る人間なら可能です。
依頼書にない地図を持っている人間」
神谷はペン先を澄江へ向ける。
「黒瀬さん、あなたです」
沈黙が落ちる。
澄江の手にあるナイフが、少しだけ下がった。
「……証拠は?」
神谷は即答しない。
代わりに、私に視線を送る。
私は封印袋から三点を出して並べた。
- 法廷語メモ片(同一紙質・同一書体)
- 配電盤リレー機器発見記録
- 旧搬入口の靴泥成分メモ(北棟床痕と類似)
「現時点での証拠は“構造証拠”です。
あなたが刺した直接証拠は、まだない。
でも、あなたがこの夜の地図を持っていたことは、積み上がっている」
神谷は言う。
「そして構造証拠は、嘘をつきにくい」
澄江の肩が、ふっと落ちた。
その瞬間、私は“降りる気配”を感じた。
でも降りるのは告白じゃない。
もっと危険な方向かもしれない。
「……ねえ、神谷さん」
澄江が初めて神谷の名を呼ぶ。
「あなた、分かってるなら簡単でしょう。
私が悪者になるだけで、全部きれいに終わる」
「終わらない」
「どうして」
「娘さんが次の被告席に座るからです」
真緒が息を呑む。
澄江の目に、ほんの一滴だけ水が浮いた。
泣いているのか、光の反射か、判断がつかない。
「私は……あの子を守りたかっただけ」
「守るって言葉は便利です。
でも、今夜あなたがやったことは“守る”じゃない。
疑いの矢印を娘へ集める設計です」
澄江がかすかに首を振る。
「違う……違うの」
「じゃあ教えてください。
あなたは、誰と組んだ?」
この問いで、澄江の表情がはっきり変わった。
驚き。
次に、諦め。
そして、短い沈黙。
「……一人じゃないのは、分かってるのね」
私はペン先を強く握った。
神谷は頷く。
「分かってる。
あなたは設計者の一人。
全部の実行者ではない」
氷室が立ち上がりかける。
「共犯は誰だ!」
「座って」
神谷が制し、澄江に戻る。
「名前を言って」
澄江は視線をゆっくり動かし、
広間の端――黒服責任者の女を見た。
女は顔色を失い、一歩下がる。
「……昔の同僚よ」
その一言で、広間の空気が裂けた。
黒服責任者が首を振る。
「違います! 私は――」
神谷が遮る。
「今すぐ否定しない。
森下、責任者の手元確認。通信端末、鍵台帳、今夜のシフト原本」
「はい。」
私は責任者へ近づく。女の手は冷たい汗で濡れていた。
端末を受け取り、シフト原本を確認。
その隅に、見覚えのある筆跡の修正がある。
神谷事務所の依頼書で見た、澄江の字癖に近い“はね”。
「所長、シフト原本に手書き修正。筆跡類似あり」
神谷は短く頷く。
「ありがとう。
これで“依頼書にない地図”が、紙の上にも出た」
03:09。
澄江のナイフを持つ手が、ゆっくり下がる。
神谷は距離を詰めず、言葉で受け取る。
「黒瀬さん。
ナイフを床に置いて。
ここから先は、あなたの言葉でしか進まない」
澄江は数秒目を閉じ、
やがて刃を床へ置いた。
金属音が、やけに小さく響く。
真緒が崩れるように泣いた。
私は胸が締めつけられるのを感じながら、
それでも記録を止めない。
澄江がかすれた声で言う。
「……全部じゃない。
でも、始めたのは私」
神谷が返す。
「続けて」
澄江は頷く。
そして、依頼書には一行も書かなかった地図を、
自分の口で語り始めた。
03:12。
私は新しいページを開く。
見出しを書く。
黒瀬澄江 供述開始。
その瞬間、館の外でサイレンが遠く鳴った。
警察か、救急か、まだ分からない。
でも夜はようやく、終わりの形を持ち始めていた。
第12章 六人目の仮面
《森下メモ 03:12 黒瀬澄江、ナイフを床に置く。供述開始。遠方でサイレン音を確認(到着未確認)》
澄江の声は、最初の数行だけ母親の声だった。
けれど語りが進むにつれ、それは“遺族”の声に変わり、最後には“設計者”の声になった。
私はペンを握る手に力を入れ、言葉の温度が切り替わる瞬間を一つも逃さないように書き続けた。
「兄が死んだあと……私はずっと、あの判決文を読んでた。
毎晩、同じ行を。
“証拠上、合理的疑いはない”――あの一文を」
真緒は俯いたまま、膝の上で拳を握っている。
氷室も鷹野も口を挟まない。
広間には雨音と、澄江の声だけがあった。
「私は、何度も抗議した。
でも返ってくるのは手続きの言葉だけ。
だから思った。
“手続きの言葉で、手続きの人間を裁く”しかないって」
神谷が静かに問う。
「その発想が、法廷語メモになった」
「……ええ」
澄江は頷く。
私はノートに太線を引く。
判決/弁明/求刑/執行=澄江起案。
「でも、私は一人で全部できない。
館の導線も、電源も、客の動きも。
だから“手を借りた”」
神谷の視線が黒服責任者へ向く。
責任者――名札には小田切奈緒美とある――は蒼白のまま、首を振った。
「私は、手伝ってない……!」
「あなたは“鍵を渡した”」
澄江が言う。
小田切が一歩下がる。
「それは業務です。搬入口の解錠は通常運用で――」
「通常運用の時刻じゃない。
あなたは私のメッセージで、三度、規定外に開けた」
神谷が私に合図する。
「森下、鍵台帳」
「はい、所長」
私は台帳を開き、時刻欄を照合する。
確かに、規定外の開錠記録が三回。担当者欄は空白。
さらに備考欄に、同じ筆圧で書かれた短い記号。
澄江の依頼書と類似する“跳ね”の癖。
「所長、開錠記録に不自然な空欄。
備考記号は依頼書筆跡と類似。確度中から高です」
小田切が声を荒げる。
「筆跡だけで決めつけないで!」
神谷は首を横に振る。
「決めつけはしない。
だからこそ、あなたの供述が必要です」
小田切は唇を噛み、沈黙する。
澄江はその横顔を見て、乾いた笑いを漏らした。
「奈緒美さん、もう無理よ。
“母親が全部やった”で終わらせる段階は過ぎた」
私はその言葉で、違和感がはっきり輪郭を持つのを感じた。
澄江は最初から“自分がすべてを背負う筋書き”を用意していた。
それ自体が、娘を守る仮面だったのか、共犯を守る仮面だったのか――まだ分からない。
03:18。
神谷が供述を整理する。
「確認します。
あなたは今夜の“設計”に関わった。
ただし三件すべてを自ら実行したとは言っていない。
正しいですか」
「正しい」
「第一被害者、瀬川珠紀。
あなたが直接手を下したか」
澄江はまっすぐ神谷を見る。
「いいえ」
「第二被害者、真田光星」
「……いいえ」
「第三被害者、榊原慎司」
澄江は一拍置いた。
その沈黙が、場の全員の喉を締めた。
「……私じゃない」
神谷は頷き、続ける。
「では“誰かが実行した”。
その誰かは、あなたが選んだか、利用されたか、どちらですか」
澄江の目に、疲れた色が滲む。
「両方よ。
私は火をつけた。
でも、燃え方はもう私の手を離れた」
氷室が机を叩いた。
「だから誰だよ、実行したのは!」
神谷が制する。
「焦らない。
ここからは“役割”を切り分ける」
神谷はボードに三列を引いた。
- 設計(動機・語彙・対象選定)
- 実装(鍵・導線・停電)
- 実行(直接攻撃)
「設計は澄江さん。
実装には館内部者の関与が濃厚。
実行は、現時点で複数可能性。
――この三列が揃って、今夜の事件になる」
私はその図を見て、胸が少しだけ落ち着く。
“六人目”という言葉が、感情ではなく構造として見えてくる。
最初の五人だけでは閉じない輪。
外から乗り込んだ一人――依頼者の母親。
しかし実際には、もう一人、内部の手がある。
「所長」
「ん」
「“六人目”は澄江さんで確定。
でも、内部者は七人目に相当しませんか」
神谷がわずかに口角を上げた。
「いい観察だ。
“六人目の仮面”は物語上の正体。
現実の共犯構造は、六で止まらない」
澄江が低く言う。
「奈緒美さんは、殺してない。
鍵と電源だけ」
小田切が顔を上げる。
「……違う。
私は、最初は“脅すだけ”って聞いたの。
誰も死なないって」
声が震え、最後は涙混じりになった。
「でも瀬川さんが死んで、怖くなって、やめようとした。
そしたら“今さら降りたらあなたも同罪”って……」
「誰に言われた」
神谷が問う。
小田切は視線を泳がせ、やがて一点で止まる。
鷹野美月。
夜蝶の彼女は、椅子の端で凍りついた。
「……美月さんに」
広間がざわめく。
鷹野が首を振る。
「違う! 私はそんな――」
神谷は遮らない。
代わりに私に合図を送る。
私は封印袋から鷹野の香水瓶を出し、テーブルに置く。
「所長、鷹野さんの香水と、N-12室残香は一致傾向。
また、北棟ライン罠付近で同系統香りを確認済み」
鷹野が涙目で叫ぶ。
「香水なんて、女ならみんな使う!」
神谷が静かに返す。
「その通り。単独では証拠にならない。
でも、あなたは第一のあと“化粧室方面にいた”と供述した。
同時に、北棟側であなたに似た歩幅の記録がある」
私はノートをめくり、該当箇所を読み上げる。
「22:21、夜蝶歩幅一定。
22:26停電後、北回廊方面に細い足音。
23:58榊原消失時、北手前に新しい水滴導線」
鷹野の肩が落ちる。
否定の勢いが、そこで途切れた。
03:27。
神谷は鷹野に向き直る。
「あなたは“実行役”の一部だった可能性がある。
ただし、ここで重要なのは自白より整合。
あなたが今話せば、娘さんへの冤罪を減らせる」
鷹野は真緒を見た。
真緒の目は赤い。けれど逸らさない。
「……私、最初は澄江さんの味方だった。
あの事件、私も傍聴してたから。
でも、途中で怖くなって、降りたくなって……
そしたら氷室さんが“今さら逃げるな”って」
「は!?」
氷室が立ち上がる。
「俺は脅してねえ!」
神谷が即座に言う。
「座って。
いまのは“脅しと受け取った”という供述だ。
あなたの確定罪を言ってるわけじゃない」
氷室は歯を食いしばり、座る。
怒りの矛先が次々に移る。
これこそ犯人の狙いだった“殺し合いの連鎖”だ。
神谷はそれを、言葉で一段ずつ止めている。
澄江がぽつりと言った。
「……結局、みんな同じ。
自分だけは正しいって顔をする」
神谷は首を振る。
「違う。
今ここでやってるのは“正しさ”の競争じゃない。
“誰が何をしたか”の回収だ」
私はその言葉を聞き、ページの余白に小さく書いた。
正義ではなく回収。
神谷らしい。
03:31。
外のサイレン音が近づく。
まだ門を越えたかは分からないが、確実にこの山へ入ってきている。
神谷は最後の確認を始めた。
「黒瀬澄江さん。
あなたは依頼人として来た。
同時に、設計者としても来た。
これで間違いないか」
澄江は静かに頷く。
「……ええ」
「あなたは娘を守るつもりだった。
だが結果として、娘を主犯に見せる構図を作った。
認めますか」
澄江は目を閉じた。
「認める」
真緒の喉が、ひくりと鳴る。
涙は落ちない。代わりに、顔から色が抜けた。
「母さん……なんで」
澄江は娘を見た。
今夜初めて、母親の顔で。
「あなたに、私と同じ地獄を見せたくなかった。
だから、私が“最後の悪者”になるつもりだった」
真緒は首を振る。
「それ、守るじゃない。
私に嘘を着せるだけだよ」
澄江は答えられない。
神谷が一歩下がり、二人の間に空間を作った。
03:35。
私は新しいページを開き、見出しを書く。
六人目の仮面=黒瀬澄江(設計)
内部共犯=小田切奈緒美(実装)疑い高
実行関与=鷹野・氷室・他(精査中)
神谷が私の記録を見て、短く言う。
「いい。
ここから先は、警察に渡す“背負える真実”にする」
そのとき、広間の外で重い扉を叩く音がした。
続いて、拡声の声。
「警察です! 中の状況を知らせてください!」
全員の肩がわずかに落ちる。
夜が、ようやく外界と繋がった。
でも終わりじゃない。
神谷は私に低く言う。
「森下、最後の仕事。
“誰が誰を殺したか分からない”って構図を、
“誰が何を担ったか”に翻訳して渡す」
「はい、所長」
私は頷き、ペンを持ち直す。
この夜の仮面は、まだ全部は剥がれていない。
それでも、輪郭は見えた。
六人目の正体は母。
そして嘘の中心は、愛のふりをした支配だった。
第13章 背負える真実
《森下メモ 03:38 警察到着。扉の向こうに“外界”が戻った瞬間、館内の嘘は逆に増える——皆が自分を守る嘘を選び始める》
扉の向こうの声は、館の中の空気を一度だけ軽くした。
救いの音――のはずだった。
けれど私は、その瞬間に別の怖さが立ち上がるのを感じた。人は助かると、次に「責任」を考える。今夜の責任は、誰か一人に押し付けたほうが楽だ。
「警察です! 中の状況を知らせてください!」
神谷は扉へ向かいながら、振り返らずに言った。
「森下、記録の束を持て。
口で勝てない相手には、紙で勝つ」
「はい、所長」
私はノートと封印袋、鍵台帳、時刻ログ、メモ片の写真記録を抱えた。腕が痺れるほど重い。文字の重さだ。
黒服責任者――小田切奈緒美が、震える手で扉の鍵を開ける。チェーンが外され、隙間から冷たい外気と雨の匂いが差し込む。ライトの白が床に落ち、館内の橙色が一気に負けた。
警察官と刑事がライトを構えたまま入ってくる。続いて救急隊員。
そして、現場を見る前に誰もが見るものがある。
三つの死体。
それが揃っているかどうかを、目は勝手に確認する。
「負傷者は?」
警察官の声が硬い。
「一名刺創で死亡、二名はすでに死亡確認済み。負傷者は一名軽傷、スタッフ一名切創」
神谷が淡々と答える。
“誰がやった”を言わない。順番を守るためだ。
「あなたは?」
「探偵。現場責任者ではない。応急の統制をしただけです」
刑事の視線が神谷から私へ移る。私は一歩前に出て、ノートを開いた。
「森下いおりです。時刻ログと移動ログ、証言要旨を記録しています」
刑事が頷き、次に見たのは真緒だった。
白いドレスのまま、膝の上で手を握り、顔色は紙みたいに白い。
その隣に澄江。目は赤いのに、涙は落ちていない。
その二人の並びは、親子というより、同じ被告席の二人に見えた。
氷室が、痛みで歪んだ顔のまま叫ぶ。
「そいつだ! 母親だ! 最初から全部!」
鷹野も涙声で重ねる。
「私、巻き込まれただけで……!」
小田切は首を振り続ける。
「私は鍵を開けただけで……!」
空気がいきなり“誰が悪いか”へ向かって流れ始める。
あまりに速い。速すぎる。
誰も自分の番になる前に、答えを置きたがっている。
神谷が、そこで一歩前に出た。
「今、そのやり方をすると、真緒さんが犯人になります」
刑事が眉をひそめる。
「どういう意味ですか」
神谷は私を見た。私は頷いて、ノートのページを開く。
神谷が言葉を選び、短く置いていく。
「この夜の目的は“犯人当て”じゃない。
互いに疑わせて、先に手を出させる設計でした。
停電操作、メモ誘導、罠設置。
誰か一人を実行犯に仕立てるための装置です」
「証拠は?」
刑事が即座に訊く。
神谷は私へ目配せ。
「所長、提示します」
私は封印袋から、写真のプリントと時刻ログのコピーを差し出した。
- 02:16 交換室で外部リレー機器発見(配電盤にクリップ接続)
- 22:26/23:14/00:36 各事案の時刻ログと非常灯復旧タイム
- 法廷語メモ片(同一紙質・同一書体)
- 鍵台帳の規定外開錠記録(三回、担当欄空白)
- 北棟ライン罠(透明線)の位置記録
刑事の視線が紙の上を走り、顔の筋肉が少しだけ硬くなる。
現場の“偶然”が、書類の上で“意図”に変わった瞬間だった。
「……停電は事故じゃない、と」
「はい。操作です」
神谷が答える。
「そして、黒瀬澄江さんは“六人目”として介入している。依頼人であり、設計の起案者です。本人が供述を始めています」
澄江が小さく頷いた。
「私が……始めました。止められませんでした」
真緒が顔を上げる。
「母さん、それでも……私に被せるつもりだったの?」
澄江の唇が震える。
答えられない沈黙を、神谷は埋めなかった。埋めるのは、探偵の仕事じゃない。
刑事が澄江へ向き直る。
「黒瀬澄江さん、あなたの供述を正式に取ります。
ただし、ここから先は“依頼人”ではなく“当事者”として扱います」
「分かっています」
澄江はその言葉だけは崩さなかった。
崩れない強さが、今夜を作った強さでもある。
救急隊が氷室の処置を進め、スタッフの切創も手当てされる。
その間に、神谷は刑事へ一つだけ、強く釘を刺した。
「真緒さんは“利用された可能性が高い”。
メモ設置の関与は認めていますが、三件の実行を単独で成立させる物理が薄い。
このまま“動機”だけで締めると冤罪になります」
刑事が言う。
「判断はこれからです」
「判断材料を渡します」
神谷はそう言って、私のノートを指した。
「ここに“背負える真実”がある。
背負えない推測は書いていない」
私は胸の奥が熱くなるのを、咳払いで隠した。
所長の言葉を、私はまだ完全には受け取れていない。
でも少しずつ、重さの持ち方を覚えている。
03:57。
警察は現場を封鎖し、聴取のために人員を分け始めた。
澄江は別室へ。小田切も別室へ。鷹野も呼ばれる。氷室も応急後に。
最後に残ったのは、真緒と神谷と私だった。
真緒は立ち上がれず、椅子の端に座ったまま、指先でドレスの布を揉んでいる。
「……私、結局、何になるの」
真緒が小さく言った。
「被害者? 共犯? 犯人?
どれでも嫌だ」
神谷は椅子に座らない。立ったまま、少しだけ距離を取る。
この人は、誰かの隣に安易に座らない。隣に座ると、共犯に見えるからだ。
「あなたは“証言者”になれる」
神谷はそう言った。
「ただし、苦い。
あなたが何を憎んで、何を見て見ぬふりをしたかも、含めて話すことになる」
真緒の目に涙が溜まる。落ちない。溜まるだけ。
「それでも……話すしかない?」
「話さないと、あなたの代わりに誰かが話す。
その誰かは、あなたの味方とは限らない」
真緒は、息を吸って、吐いた。
そして初めて、神谷ではなく私を見た。
「森下さん……怖かったでしょ」
私は喉の奥が詰まった。
でも、所長のルールを思い出す。感情はあっていい。流されない。
「怖かったです。
だから、記録しました。逃げないために」
真緒は小さく笑った。泣き笑いだった。
神谷が続ける。
「真緒さん。
あなたの兄の件は、あなたの中で終わっていない。
でも、今夜の“裁き”は、兄のためじゃない。
母親の痛みを正当化するための装置になっていた」
真緒が俯く。
「母は……私を守るって言った」
「守るって言葉で、あなたを縛った」
神谷の声は相変わらず平らだ。
でも平らだからこそ、言葉が刺さる。
真緒は震える声で言った。
「じゃあ、私は……母を止めるべきだった」
「止められたとは限らない」
神谷が即答した。
「でも、“止めなかった自分”は、あなたが背負うしかない。
それが大人の罰だ」
真緒の涙が、そこでようやく落ちた。
一粒。次に、もう一粒。
声は出さない。泣き方が静かで、壊れない。
私はティッシュを差し出し、受け取る手を見届けた。
神谷は泣かない。
泣かない代わりに、最後に一つだけ言葉を置く。
「あなたは利用された。
でも利用されたまま終わるな。
自分の言葉で、順番を取り戻せ」
真緒は頷いた。
その頷きが、今夜の唯一の前進に見えた。
04:08。
警察官が呼びに来る。真緒の事情聴取が始まる。
「所長」
私は小さく呼びかけた。
「ん」
「……私の記録、ちゃんと役に立ちますか」
神谷は一度だけ私を見た。
「立つ。
立たせるために、書いたんだろ」
「はい、所長」
その返事のあと、私はノートを抱えて、警察官へ渡す準備をした。
雨の夜はまだ終わっていない。
でも“仮面を被った嘘”は、少しずつ外気に晒され始めている。
外ではサイレンが遠ざかり、代わりに鳥が一声鳴いた。
夜明けが来る。
死体の上にも、生き残った人間の上にも、同じように。
第14章 母の手、娘の目
《森下メモ 04:12 事情聴取開始。警察は“設計(澄江)/実装(小田切)/実行(未確定)”の三層で整理を始めた。だが“実行”は意図的に混線している》
事情聴取用に仕切られた小部屋は、ホテルの会議室を急ごしらえで“取調室”に変えたものだった。
机が二つ。椅子が四つ。ペットボトルの水。録音機。
照明は白く、館内の橙とは違って現実の色をしている。
白い光は嘘を薄くする。代わりに、言い訳を濃くする。
私は廊下側の待機椅子に座り、ノートのページを整えた。
警察官が持っていくコピーと、私が手元に残す原本。
紙を分ける作業は、気持ちを分ける作業でもある。
ここから先、私たちの仕事は“語る”ではなく“渡す”になる。
扉の向こうから、澄江の声が聞こえる。
涙声ではない。落ち着いている。
泣けば同情が乗ると知っていて、泣かない声だ。
「……私は、娘を救いたかっただけです」
その一文が、釘みたいに胸に刺さった。
“救う”という言葉は、人を何でも正当化できる。
少し離れた別室では真緒の聴取が始まっている。
真緒の声は、たぶん震えている。
でも、震えていても真緒の言葉は真緒の言葉だ。
母の台本じゃない。
廊下を挟んで、神谷が壁にもたれて立っていた。
スマホも触らない。腕組みもしない。
ただ、扉の位置と人の出入りを見ている。
逃げ道ではなく、言い訳の逃げ道を塞ぐために。
「所長」
私が小さく声をかけると、神谷は目だけ動かした。
「何」
「澄江さん、最後まで“娘を救う”で通す気がします」
「通せない。
“救う”は目的で、手段の免罪符じゃない」
神谷の声は相変わらず平坦だった。
その平坦さが、今はありがたい。
私の感情が揺れたぶん、所長が揺れない。
04:23。
扉が開き、刑事が出てきた。四十代くらいの男。疲れが顔に出ている。
「探偵さん、ちょっと」
「神谷です」
「森下さんも」
私たちは小部屋へ入った。
澄江は椅子に座り、手は膝の上で組まれている。
顔は整っていた。
夜の終わりに、依頼人の顔へ戻ろうとしている。
「黒瀬さん、設計の部分は認めていますね」
刑事が言う。
「はい。……止められなかった。
でも私が殺したわけじゃない」
澄江はその一点だけを繰り返す。
設計者の自白で自分の“罪の範囲”を決め、実行を切り離す。
賢い。残酷なほど。
神谷は刑事へ短く言った。
「実行の混線は意図です。
“誰が刺したか分からない”状況は、設計者が望んだ結末」
「分かってる。だが現実には立件が必要だ」
刑事は溜め息混じりに言う。
その瞬間、私は“物語と現実”の差を痛感した。
物語なら真相で終われる。
現実は、証拠と罪名で終わる。
神谷は私へ目配せした。
私はノートの該当ページを開き、項目を読み上げる。
「停電操作は交換室の外部リレー機器で可能。02:45に無効化済み。
鍵台帳の規定外開錠が三回、担当欄空白。
北棟のライン罠は二度設置。設置者は“罠手順”に慣れている。
第二被害者真田の爪間に黒繊維。第三被害者榊原の指先に白粉。
交換室床にも白粉線。素材一致傾向」
刑事が頷く。
「助かる。これで“実装担当”を絞れる」
澄江が静かに言った。
「奈緒美さんは関係ない。
あの子はただ……」
神谷が遮る。
「“ただ”じゃない。
鍵を開けた時点で構造に加担している」
澄江の目が鋭くなる。
「あなたには分からない。
私たち遺族が、どれだけ――」
「分かる必要はない」
神谷は淡々と言った。
「分かるのは、あなたが何をしたかだけです」
澄江の唇が震えた。
この人は今、怒っている。
でも怒りの正体は、たぶん“見透かされたこと”だ。
刑事が澄江へ質問を重ねる。
「あなたが作った“法廷語メモ”は、誰が印刷した」
「……知らない」
「配電盤の機器は誰が設置した」
「知らない」
「では、あなたが確実に行った行為は」
澄江は一瞬だけ目を泳がせた。
そして、答える。
「招待状の手配。
……真緒の誘導」
真緒の名前が出た瞬間、私は背中が冷たくなる。
母親の口から“誘導”と言われると、言葉が剥き出しの刃になる。
神谷が低く言った。
「娘さんは被告にするための駒じゃない」
「被告にするためじゃない!」
澄江の声が初めて大きくなる。
「……守るためよ」
同じ言葉。
守るため。
その言葉が、何度も同じ場所を擦って、言葉自体が薄くなる。
神谷は言った。
「守るなら、真緒さんの目の前で言ってください。
ここじゃない。
あなたの都合が通る場所で言うな」
刑事が少し驚いた顔をしたが、止めない。
この夜の中心は“親子”だと、もう誰もが気づいている。
04:38。
真緒の聴取が一段落し、真緒が廊下へ出てきた。
白いドレスの上に毛布を羽織り、目は赤い。
それでも足取りはしっかりしていた。
神谷が真緒に言う。
「来られるか」
真緒は小さく頷いた。
「……うん」
真緒が小部屋に入る。
澄江の背筋が、目に見えて硬くなる。
娘の前では、依頼人の仮面が剥がれる。
「真緒」
澄江の声が震えた。
今度は演技ではない震えだと思った。
でも、それが免罪にはならない。
真緒は椅子に座らず、立ったまま言った。
「母さん。
私に“守る”って言うなら、
何をしたか、全部言って」
澄江が口を開き、閉じる。
視線が逃げる。
神谷が言う。
「順番を間違えるな。
真緒さんが聞いている。あなたが答える番だ」
澄江の瞳に涙が溜まる。
そして初めて、母親として言った。
「……私は、あなたをここに呼んだ。
あなたを“怒りの正体”にした」
真緒の顔が引きつる。
「正体?」
「私の怒りの矛先を、あなたに背負わせた。
あなたが犯人になれば、私は“母親として守った”顔ができると思った」
真緒の目が揺れる。
怒りと悲しみと、理解したくない理解が混ざる。
「それ、守るじゃない。
私を壊すだけだよ」
澄江が泣きながら首を振る。
「違うの……私は……私が……」
神谷は口を挟まない。
私はノートに書く。
澄江、動機の中心は“自己正当化”と“娘への転嫁”。
真緒が言った。
「母さん。
兄のこと、私だって苦しかった。
でも、私を使って楽になろうとしないで」
澄江の肩が崩れた。
この夜で初めて、澄江の身体から力が抜ける。
泣き崩れる。
遅すぎる涙。
でも、嘘の涙よりは本物に近い。
刑事が静かに告げる。
「黒瀬澄江さん、あなたの供述は記録します。
ただし、罪の範囲はこれから捜査で確定します」
澄江は涙のまま頷いた。
真緒は一歩下がり、私を見た。
「……森下さん、私、ちゃんと話したよ。
逃げなかった」
私は喉の奥が詰まり、言葉がすぐに出なかった。
それでも、私は答える。
「はい。
逃げませんでした。
それが、あなたの番の正しさです」
神谷が真緒に向けて言う。
「これで、あなたは“被告席”から一歩降りた。
完全には降りられない。
でも、降りる方向に進んだ」
真緒は小さく頷く。
私はその横顔に、依頼写真の警戒の目が少し薄くなったのを見た。
04:56。
廊下の窓が白み始めていた。
雨はまだ降っているのに、夜だけが終わろうとしている。
私はノートの最後の余白に、今日の結論を書いた。
母の手は、娘を守るために動いたふりをした。
娘の目は、嘘の仮面を剥いだ。
神谷が私の文字を見て、短く言った。
「いい。
それが“背負える真実”だ」
私は頷く。
泣かないまま、胸の奥が痛い。
それでも、この痛みは逃げる痛みじゃない。
記録し続けた痛みだ。
第15章 仮面を外す朝
《森下メモ 05:08 夜明け前。雨は止まないが、館内の“脚本”は崩れた。残ったのは、誰かを救う言葉ではなく、誰かを傷つけた手順の記録》
夜明けは、優しくない。
窓の外が白くなっていくほど、館の中の汚れた輪郭がはっきりする。血の色、床の傷、割れた仮面の欠け方。
そして、人の目の下の影。
警察は現場の線を引き直し、客を一人ずつ移送していった。
仮面は証拠品として封印袋に入れられ、番号札がつく。
“匿名”という遊びは、袋の中でただの物体になった。
私は廊下の端の椅子に座り、ノートを閉じた。
手首が痛い。指の付け根が痺れている。
書き続けた夜の代償は、身体に出る。
でもその痛みは、私にとっては「生きている証拠」だった。
神谷は窓辺に立って、雨の線を眺めていた。
いつもならだらしなく見える背中が、今は不自然に真っ直ぐだった。
崩れないための姿勢。
私が一番近くで見てきた神谷の“冷たさ”だ。
「所長」
「ん」
「……全部、終わったんでしょうか」
神谷はすぐには答えなかった。
外の白さを一度だけ見て、それから私の方へ視線を移した。
「事件は終わった。
でも、誰かの中では続く」
それが神谷の答えだった。
私は小さく頷く。
続くものを全部終わらせる力は、探偵にはない。
でも、続くものに“形”を与えることならできる。
05:19。
真緒が私たちのところに来た。毛布は肩から落ちかけていて、手には紙コップのぬるい水。
泣き腫らした目はまだ赤いが、視線はまっすぐだった。
「神谷さん」
「……ありがとう。助けたって言うの、変だけど」
「助けたんじゃない。
順番を戻しただけだ」
神谷はそう言って、真緒から視線を外さない。
同情を避けているわけじゃない。
同情が“許し”にすり替わるのを避けている。
真緒は小さく笑って、でもすぐ顔を歪めた。
「私、母を憎んでいいのかな」
私は胸が詰まった。
憎んでいい。許していい。
どれも軽々しく言える言葉じゃない。
神谷が言ったのは、別の言葉だった。
「憎むのは自由だ。
ただ、憎しみで自分の順番を決めるな」
真緒は目を閉じた。
少し息を吸って、吐いた。
「……うん」
05:27。
澄江が警察官に付き添われて廊下へ出てきた。
両手は前に出され、手錠はされていない。拘束の有無は状況次第だ。
でもその歩き方は、拘束されている人間の歩き方だった。
重いものを背負った足取り。
真緒は動かなかった。
近づかない。逃げない。
ただ、見ている。
澄江が真緒に気づき、足を止めた。
一瞬、何か言いたげに口を開き――閉じた。
言葉は、もう遅いと分かっている顔だった。
真緒が先に言った。
「母さん。
兄のこと、これから私が話す。
私の言葉で。
母さんの復讐じゃなくて、私の証言として」
澄江の目が揺れた。
涙がまた浮いた。
でも澄江は頷くことも、否定することもできなかった。
真緒は続ける。
「だから、私に“守る”って言わないで。
守らなくていい。
壊さないで」
その言葉は、静かで、刃物より鋭かった。
澄江の肩が小さく震える。
そして澄江は、初めて娘を見て言った。
「……ごめん」
たった三文字。
でもそれは、今夜のどの演出より重かった。
許しを求める言葉じゃない。
謝罪という形の“事実”だ。
真緒は答えなかった。
答えないことで、母の言葉を“完了”させない。
その距離感が、真緒の生き方の第一歩に見えた。
05:36。
警察官が澄江を促し、澄江は歩き出す。
角を曲がる直前、澄江が小さく振り返った。
その目が一瞬だけ私に向いた。
依頼人としての目ではない。
計画者としてでもない。
ただの、疲れた人の目。
神谷は何も言わない。
言わないことで、共犯にならない。
それも神谷のルールだ。
05:44。
残されたのは、真緒と、神谷と、私。
そして、封印袋に入った仮面たち。
真緒がぽつりと言った。
「仮面って、便利だね。
嘘をついても、顔が痛まない」
私は言った。
「でも、痛むのは……あとから来ます」
真緒がうなずく。
そのうなずきが、薄い光の中で少しだけ大人びて見えた。
神谷が真緒に言う。
「この先、あなたは何度も“兄のことで”聞かれる。
そのたびに、あなたは答えるか、答えないか選べる。
答えるなら、今日の言葉で答えろ」
「今日の言葉?」
「“私は利用された。でも、利用されたまま終わらない”」
真緒は小さく笑って、涙を一滴だけ落とした。
「……うん」
06:02。
私と神谷は、館の玄関を出た。
雨はまだ細く降っている。
山の空気は冷たく、でも夜よりは軽い。
遠くの木々の間から、薄い朝日が滲んでいた。
私は車に乗り込む前に、最後に振り返った。
あの建物は、遠目には静かな宿にしか見えない。
中で何が起きたかなんて、外からは分からない。
神谷がエンジンをかける。
「森下」
「はい、所長」
「おまえ、最後に一行書け」
私はノートを開いた。
最後のページの一番下。
震えない文字で書く。
仮面を被った嘘は、仮面を外した沈黙に負けた。
ペンを置くと、胸の奥の熱が少しだけ落ち着いた。
私たちは車を出す。
山道はまだ濡れている。
でも、もう閉じ込められてはいない。
後ろで、館の門がゆっくり閉まる音がした。
軽い金属音。
あの夜の最初と同じ音。
でも意味は違う。
今度の音は、終わりの音だった。
