神谷探偵事務所事件ファイル 冬の向日葵

第一章 森下いおり、神谷探偵事務所に入所する

 冬の空は、剥がれかけた鉛の板みたいに重かった。
 駅前の雑居ビルを見上げながら、森下いおりはコートの襟をきゅっと握った。吐いた息は白く、すぐに風にちぎれて消える。

 ——神谷探偵事務所。

 古い案内板には、そう書かれたプレートが貼られている。文字の角が少し欠けていて、貼り替えられた形跡もない。
 階段を上がる足音だけが、建物の中でやけに響いた。

 ドアをノックすると、中から返事がない。
 もう一度、控えめに叩く。今度は「どうぞ」と低い声がした。

 扉を開けた瞬間、いおりは鼻をくすぐる匂いに眉をひそめた。インスタントコーヒーと、古い紙の香。
 室内は想像より広いが、整っているとは言いがたい。机の上には封筒、新聞、領収書、使いかけのメモ帳が層になって積まれている。壁際には古いスチール棚。その上には事件ファイルらしき厚いバインダーが並んでいた。

 そして——。

「君が森下さん?」

 ソファにだらりと座る男が、気だるげに手を上げた。
 年齢は三十五くらい。髪は少し伸びていて、寝癖がそのまま残っている。シャツはしわだらけ。
 探偵というより、疲れた会社員の休日にしか見えなかった。

「はい。森下いおりです。本日から……」

「うん。よろしく。そこ、座って」

 男——神谷恒一は、ソファの横を顎で示すだけで立ち上がろうともしない。
 いおりはぎこちなく椅子に腰を下ろし、鞄の中の履歴書の存在を思い出した。だが提出のタイミングを失うほど、空気がゆるい。

(……この人、本当に大丈夫?)

 心の中で思った瞬間、神谷がぱっと目を細めた。

「不安そうな顔してる」

「えっ」

「いや、だいたいそういう顔で来る。うちに応募してくる人は」

 神谷は笑ったようで笑っていない。柔らかいけれど、視線だけは妙に鋭い。
 いおりは咄嗟に背筋を伸ばした。

「私は、前職を辞めて……事務の仕事を探していて。探偵事務所というのは、初めてで……」

「事務、助かる。俺、領収書まとめるの嫌いなんだよ」

「えっ……」

「嫌い。苦手じゃない。嫌い」

 神谷は堂々と言い切ると、机の上の紙の山を指さした。
 そこには書類が散乱している。その中心に、猫の写真が一枚、ぺらりと落ちていた。

「それは……?」

「ああ、依頼。近所のおばあちゃんが飼い猫を見失ったらしい」

「猫……ですか」

「探偵事務所の依頼って、九割そういうの」

「九割……?」

「猫の捜索。老人の話し相手。失くした補聴器探し。家族の誕生日サプライズの段取り確認。あと、浮気調査……は、ほとんど来ない。来ても断る」

「断るんですか?」

「面倒だから」

 いおりは言葉を失った。
 探偵助手の募集要項には「調査補助、事務作業、依頼対応」などとそれらしく書いてあったのに、聞こえてくるのは生活相談所の話ばかりだ。

 神谷は立ち上がり、ゆっくりと窓際へ行った。外は薄く雪混じりの雨。ガラスに小さな水滴が流れた。

「森下さん。探偵って、派手な事件ばかり追ってると思ってた?」

「……正直に言うと、少し」

「そうだよね。俺も昔はそう思ってた」

 神谷の声音が、ほんの一瞬だけ変わった。
 その一瞬を、いおりは見逃さなかった。

「昔……?」

「なんでもない。で、今日の仕事。とりあえず近所に猫探し。君が行ける?」

「私が……?」

「うん。俺、寒いの苦手」

 神谷は真顔で言う。
 いおりの頭の中で「入所初日で猫探し」という単語が踊り、軽く眩暈がした。

「分かりました……やってみます」

「助かる。じゃあこれ、写真と特徴。あと、おばあちゃんの家の地図」

 神谷は机の山から必要なものだけを迷いなく抜き取った。
 まるで初めからどこに何があるか把握しているみたいに——いや、把握しているのは確実だ。散らかっているように見えて、並び順がある。
 いおりは、ほんの少しだけ彼を見直す。

 外に出る直前、いおりは振り返った。

「所長は……行かないんですか?」

「行かない。事務所にいる。電話が来るかもしれない」

「猫のことでですか?」

「それもある。……それ以外も」

 神谷は言葉を途中で切り、手のひらをひらひら振った。
 追及しようとして、いおりはやめた。初日に踏み込みすぎるのは危険だ。

 猫探しは、想像以上に地味だった。
 家の裏、駐車場、植え込み、コンビニ裏の段ボールの影。声をかけるたびに、冷たい空気が喉の奥に刺さる。

 だが、二時間ほど歩き回った頃、いおりは不思議なことに気づく。
 猫がいそうな場所を探しているというより、猫が“通った痕跡”を探している自分がいた。

(足跡。毛の引っかかり。餌の匂い……)

 前職は会社員、ただの事務だったはずなのに。
 見落としを嫌う癖だけは、無意識に残っていたのかもしれない。

 結局、猫は見つかった。
 近所の空き家の縁側で丸くなっていたところを、いおりが声をかけると、意外にもすんなり抱かれてくれた。

「よかったぁ……」

 おばあちゃんに猫を返すと、涙ぐみながら何度も頭を下げられた。
 その姿を見て、いおりは胸の奥が少し温かくなる。

 探偵という仕事が、ドラマみたいな事件だけじゃないこと。
 それでも、誰かの困りごとをちゃんと終わらせることには意味があること。

 事務所に戻ると、神谷は相変わらずソファにいた。
 ただし、さっきと違って机の上には新しい封筒が一通置かれている。

「おかえり。猫、いた?」

「いました。空き家の縁側に……」

「よかった」

 神谷はそれだけ言い、封筒に指を置いた。
 いおりは気づいた。彼がさっきから、封筒を見ていない。見ないようにしている。

「それ、何ですか?」

「んー……届いたもの」

「依頼の手紙ですか?」

 神谷は少しだけ口角を上げた。
 笑った、というより“隠した”に近い。

「森下さん。探偵助手になった以上、覚えておくことがある」

 いおりは姿勢を正す。
 初めて“所長らしい声”が聞こえた気がした。

「仕事ってのは、最初は退屈に見える。だけど退屈の中に、たまに刃物みたいなものが混じる」

「……刃物?」

「うん。だから、これは——まだ君は触らない方がいい」

 神谷は封筒を引き寄せ、引き出しの奥へしまった。
 いおりの胸が、ひゅっと冷える。

(刃物って、何の比喩……?)

 窓の外では雨が雪に変わり始めていた。
 白い粒が暗い空から落ちてきて、街の色をゆっくり消していく。

 神谷は立ち上がり、いつもの気だるさに戻った声で言った。

「明日から忙しくなるかも。とりあえず、今日は領収書まとめて」

「はい……」

 いおりは机に向かいながら、引き出しの奥にしまわれた封筒を思い出していた。
 この人は頼りない。頼りない、はずなのに。
 なぜか、背中だけが大きく見えた。

 神谷探偵事務所。 寒い季節の予感だけが、静かにここにあった。

第二章 届いた箱

 午前十一時を少し回った頃、神谷探偵事務所のドアが二度、控えめに叩かれた。

「……宅配です」

 薄い扉越しの声は淡々としていた。
 森下いおりは、伝票のボールペンを持ったまま立ち上がり、ドアを開ける。

 制服の配達員が差し出したのは、手のひらより少し大きい段ボール箱だった。
 重さは軽い。片手で持てる程度。
 箱の角は潰れておらず、乱暴に扱われた形跡もない。むしろ丁寧だ。

「受領印、お願いします」

 いおりは印鑑を押しながら、宛名を見た。

 ——神谷探偵事務所。
 ——差出人:空欄。

(差出人がない……)

 それだけで、不快な冷たさが背中に触れた気がした。
 匿名の荷物は、誰でも送れる。悪意も、簡単に届く。

「所長、荷物が……」

 いおりが振り返ると、神谷恒一はソファに座ったまま、テレビも点けずに新聞を眺めていた。
 視線だけが動き、箱を一瞬見て、すぐ新聞に戻る。

「置いといて」

「えっ、開けなくていいんですか?」

「……後で」

 声の調子は変わらないのに、言葉が短い。
 いおりは少し首をかしげながら、箱を机の端に置いた。

 箱は、妙に“きれい”だった。
 ガムテープの貼り方がまっすぐで、中央の継ぎ目が一直線に揃っている。
 開封する手順まで考えている、几帳面な人間の手癖。

(依頼の品? それとも……)

 昼過ぎまで、いおりは領収書を仕分けていた。
 前職の癖で、数字と日付を揃える作業は苦にならない。だが、机の端の箱はずっと視界の隅に残り続けた。

 神谷は相変わらずだ。
 コーヒーを飲んで、あくびをして、新聞を畳む。
 頼りなさは平常運転。なのに、箱にだけは触れない。

「所長、気になります」

「気になるなら開ければ?」

 神谷が投げやりに言った。
 それが許可なのか、ただの皮肉なのか分からない。

「……では、開けますね」

 いおりはカッターを取り出し、テープに刃を入れた。
 音は静かで、箱が開くまでにかかった時間は数秒。

 中には、緩衝材の紙が一枚。
 それをめくると——金属の冷たい光が見えた。

 いおりの指が止まる。

 ナイフだった。
 果物を切るような小さなものじゃない。
 刃渡りは十五センチほど。手に収まり、しかし十分に人を傷つけられる長さ。

 新品のように清潔で、血の痕跡はない。
 それが逆に現実的だった。
 汚れていないからこそ、「今から使える」。

 ナイフの下には、紙が一枚、折られて入っていた。

 いおりは紙を開く。
 白いコピー用紙。印刷文字。筆跡ではない。

『どちらかを殺す』

 それだけだった。
 脅し文句としては短すぎる。
 説明も要求もない。余白ばかりの紙が、静かに机に広がっている。

 呼吸が浅くなる。
 喉の奥がひりつく。
 寒気ではない。身体が現実を理解していく感覚だった。

「所長……!」

 声が裏返った。いおりは立ち上がり、神谷を見る。
 神谷は新聞を置き、ようやく箱の中身を視線で確認した。

「……開けたか」

「警察に連絡します。これは——」

「やめろ」

 神谷の声は低く、短かった。
 いおりは耳を疑う。

「やめろって……どうしてですか? 刃物ですよ? 脅迫ですよ?」

「だから、やめろ」

「理由が分かりません。放っておいたら本当に——!」

 いおりがスマホを掴んだ瞬間、神谷が立ち上がった。
 歩く速度は遅い。なのに距離はすぐ詰まる。
 次の瞬間、いおりの手首を掴み、スマホを机に伏せさせた。

 強くはない。痛みもない。
 だが、抵抗できない確かさがあった。

「森下さん。今、警察を呼ぶと、こっちは負ける」

「負ける……?」

「相手の望み通りになる」

 神谷は視線を逸らさない。
 その目の色は、さっきまでの眠そうな男のものではなかった。

 いおりは、言い返したいのに言葉が出ない。
 心臓だけが強く鳴り、手のひらに汗が滲む。

「……どちらかって、誰のことですか。私と所長?」

「そう読める」

「じゃあ、今ここで危険なんです。だったら余計に——」

「危険なのは“ここ”じゃない」

 神谷は、ナイフと紙を指さした。

「これ、きれいすぎる。指紋もついてないかもしれない。梱包も丁寧。差出人なし。つまり、送った側は証拠を残さない」

「……」

「そして文面が短い。脅しを成立させるための説明を、あえて省いてる。相手は、こっちが勝手に想像して動くのを待ってる」

 いおりは、喉が詰まるのを感じた。
 神谷の言うことは、嫌になるほど筋が通っていた。

「警察を呼べば、相手は次の段階に進むだけだ。こっちが“守られる”前提で動くと、守りきれない場所が出る」

「……そんなの、どうして分かるんですか」

 問いは、半分だけ怒りで、半分は恐怖だった。

 神谷は一瞬だけ口を閉ざした。
 それから、息を吐いた。

「こういう手合いは、正義が好きじゃない。秩序が嫌いなんじゃない。“自分のルールで世界を動かす”のが好きなんだ」

 言葉の端に、過去が滲んだ。
 いおりはその影を見た気がして、背筋を伸ばす。

「……なら、どうするんですか」

「まず、触ったな」

「……触りました」

「箱も紙も」

「ええ」

 神谷は頷く。

「なら、警察に出しても証拠として弱い。こっちが触った時点で“汚れる”。向こうはそれも分かってる。だから送ってきた」

 いおりは唇を噛んだ。
 自分の指先が急に重く感じる。

 神谷はナイフを持ち上げた。
 刃を素手で触らず、布を噛ませる。
 扱いに迷いがない。

「森下さん、ひとつだけ」

「……はい」

「今日の行動を思い出して。誰か、不自然な人を見なかった?」

 いおりは目を閉じて、朝の記憶を辿る。
 配達員は普通だった。道ですれ違った人も、いつも通り。
 だが——。

「……事務所の階段のところに、ずっと立ってた人がいました。上を見てるような、下を見てるような……」

 いおりが言うと、神谷の眉がわずかに動いた。

「顔は?」

「覚えてません。帽子を……深くかぶってた気がします」

「そう」

 神谷は小さく頷き、紙を見直した。
 たった一文の脅迫状を、何度も読むように見つめる。

『どちらかを殺す』

 いおりは、その言葉が頭の中で反響するのを止められなかった。
 “どちらか”は、今ここにいる二人。
 けれど本当にそれだけなのか。
 この事務所に来る依頼人、関係者、近所の人、誰かが含まれている可能性もある。

(猫探しのおばあちゃんだったら?
 昨日話した老人だったら?)

 想像が広がるほど、現実が冷えていく。

「所長……私、怖いです」

 正直に言った。
 声が小さく震えたのが、自分でも分かった。

 神谷はナイフを布で包み、箱に戻し、蓋を閉めた。
 テープで封をする動きは、ゆっくりなのに無駄がない。

「怖がっていい」

「……」

「でも、慌てるな。慌てると、相手のルールに乗る」

 神谷は封をした箱を棚の一番下にしまった。
 その場所は、外から見えない死角だった。

「森下さん。今日からしばらく、事務所の鍵は二重で閉める。出入りした人間は全部メモ。電話は録音。依頼の内容も、今までより細かく記録する」

「……それって、まるで——」

「事件の準備だ」

 神谷は淡々と言い切った。

 その言葉に、いおりは背筋が凍った。
 やっと理解したのだ。
 自分が入ったのは、猫を探すだけの場所ではない。

 神谷はいつものソファに戻った。
 だが、もうさっきまでのだらしなさはない。
 目だけがずっと起きている。

「警察は呼ばない。でも、無視もしない。相手は、必ずもう一手打ってくる」

「……次は、いつですか」

「分からない」

 神谷は一拍置いてから付け足した。

「分からない、ってことは——」

「……今日かもしれない」

 いおりが言うと、神谷は短く頷いた。

 事務所の空気が変わった。
 暖房は効いているのに、部屋が寒い。
 それは温度の問題ではなく、“外から入り込んだ意志”のせいだった。

 いおりは机に座り直し、領収書の束を握りしめた。
 紙の手触りはさっきと同じなのに、意味だけが変わってしまった。

 神谷探偵事務所の冬は、静かに牙を剥き始めていた。

第三章 日常という名の試験

 翌朝、事務所の鍵は二重に掛けられた。
 神谷恒一は何も言わないまま、いつものようにコーヒーを淹れ、いつものようにソファに腰を落とした。だが、その手はカップを握ったまま微動だにしない。

 森下いおりは、昨日から机の上に置いたノートを開いた。
 新しいページの最初に、太字で書く。

《出入りした人間は全部メモ》

 神谷の指示通り、事務所の出入りがあるたび、時刻と要件を記録する。
 こういうのは得意だ。会社員時代に、何度も「報告書」という形に押し込めてきた。

 午前九時四十五分。
 最初の来客は、近所のクリーニング店の店主だった。

「すみませんねえ、これ、先月の分の請求書……また忘れてました?」

 店主は人の良い笑みを浮かべ、封筒を差し出した。
 いおりは頭を下げて受け取る。

「申し訳ありません。確認します」

 神谷は一言も喋らない。
 ただ、店主が帰る背中を見送る目が、妙に鋭い。

 午前十時二十分。
 電話が鳴る。

「神谷探偵事務所です」

『あの……すみません、母が最近、同じ話を何度もするようになって……話し相手をお願いできませんか』

 高齢の母親を心配する娘の声。
 昨日までなら“よくある依頼”のはずだ。
 だが今のいおりには、どの言葉も引っかかる。

 話し相手。
 つまり、相手の家に行く。場所が外に出る。
 行動の範囲が広がる。

 いおりは神谷を見る。
 神谷は小さく顎を引いた。受けろ、という合図だ。

「承りました。時間は……今日の午後でもよろしいでしょうか」

『助かります。住所は——』

 住所をメモしながら、いおりはノートの隅に小さく印を付けた。
 外出案件。
 昨日の箱の送り主は、こちらの行動を操ろうとしていた。なら、外に出ること自体が危険にもなる。

 電話を切ると、神谷がようやく口を開いた。

「森下さん。行くのは君だ」

「……所長は?」

「俺は残る。ここを空けると、相手が入りやすい」

「相手、って……」

「昨日のやつ」

 神谷は簡単に言う。
 だが、いおりはそれを“簡単”に受け取れない。

「もし、私が外で襲われたら……」

「襲われない」

 神谷が即答した。
 根拠がない言い方ではない。断定だった。

「どうして言い切れるんですか」

「まだ段階じゃない。あいつは“試してる”」

「試してる……?」

「俺たちがどう動くか。警察を呼ぶか。怖がって引っ込むか。逆に、調子に乗るか」

 神谷はコーヒーを一口飲み、カップを置いた。

「相手の目的は殺人じゃない。殺人は手段だ。目的は——俺に何かをさせること」

 その言葉は、いおりの胸に冷たく落ちた。
 神谷に“何かをさせる”。
 つまり、神谷が狙われている。

「……所長、過去に何をしたんですか」

 いおりが問うと、神谷は少し目を細めた。

「何もしない。何もできなかった」

 言い方が矛盾している。
 いおりが追及する前に、ドアが叩かれた。

「こんにちはあ。神谷さん、いらっしゃる?」

 入ってきたのは、昨日の猫捜しのおばあちゃんだった。
 腕には猫が抱かれている。猫はすっかり機嫌が良さそうだ。

「昨日はありがとうねえ。これ、ほんのお礼」

 おばあちゃんは包みを差し出した。中身は手作りの焼き菓子らしい。
 いおりは受け取りながら、微笑んだ。

「こちらこそ。猫ちゃん、元気そうでよかったです」

 おばあちゃんは何度も頷き、それから急に声を落とした。

「ねえ……昨日の夕方、誰か階段のところにいたでしょう?」

 いおりの指が止まった。

「え……?」

「帽子の男の人。じっと立ってたの。私、ちょっと怖くてね」

 神谷が視線を上げた。
 ほんの僅かな動き。だが、部屋の空気が張り詰める。

「どんな帽子でした?」

 神谷が穏やかに訊く。おばあちゃんは首をかしげた。

「黒っぽい……こう、深く被ってて。顔がよく見えなかったわ。でも、体は細かった」

「……そうですか」

 神谷は礼を言い、おばあちゃんを送り出した。
 ドアが閉まる音が、いつもより大きく響く。

 いおりはノートに追加で書いた。

《帽子の男 目撃:おばあちゃん(昨日夕方)》

 事務所に戻った沈黙の中で、神谷がぽつりと言った。

「相手、ここにいる時間が長い」

「見張ってるんですか」

「観察してる。俺たちの“普段”を」

 いおりは、背中がじわりと冷えるのを感じた。
 普段を観察される。
 それはつまり、生活が侵入されている。

 午後になり、いおりは依頼人の家へ向かった。
 神谷は送迎もしない。ただ、出る直前に一言だけ添える。

「帰り道は、来た道と変えろ」

「……分かりました」

 住宅街の一角。
 依頼人は五十代の女性で、柔らかな声だった。家の中は整っていて、きちんと生活している匂いがした。

 母親は八十代。
 同じ話を繰り返す——と聞いていたが、実際に会うと、それは“老い”というより“孤独”の形だった。

「昔ね、向日葵が好きだったの」

 母親は唐突にそう言った。
 いおりは一瞬、言葉を失った。

「ひまわり……ですか」

「ええ。夏の花だけどね。冬に見ると、逆に綺麗でしょう」

 いおりの心臓が、一段だけ速くなる。
 冬の向日葵。
 偶然だと言い聞かせようとするのに、耳が勝手に拾ってしまう。

「娘は、絵を描くのが好きでねえ。ひまわりをよく描いたの」

 母親は笑う。
 その笑い方は穏やかだ。
 だが、いおりの頭の中では“箱”の白い紙がちらつく。

 帰り道。
 神谷の言葉通り、いおりは道を変えた。大通りに出ず、住宅街を抜け、遠回りして駅前を回る。

 その途中で、背後に気配を感じた。

 振り返る。
 誰もいない。
 だが、角を曲がった先に、黒い帽子の男がいた。

 距離は十五メートルほど。
 男は壁際に立ち、スマホを見ているようで、見ていない。
 視線は確実に、こちらの動きを追っている。

 いおりは足を止めた。
 呼吸が浅くなる。
 心臓が痛いほど鳴る。

 逃げたい。走りたい。
 だが走れば、“追われている”を確定させる。

(……試されてる)

 神谷が言った言葉が、頭に浮かぶ。
 相手は観察している。怖がって逃げるかどうか。警察を呼ぶかどうか。助けを求めるかどうか。

 いおりは、歩幅を変えずに進んだ。
 足元の冷たいアスファルトを踏みしめる。
 そして、わざと目の前の自販機で立ち止まった。

 財布を出すふりをして、ガラスに映る背後を確認する。
 帽子の男は、距離を保ったまま動かない。
 その態度が、余計に気味悪い。

 いおりは缶コーヒーを買い、何食わぬ顔で歩き始めた。
 角を曲がる。
 もう一度曲がる。
 背後の気配は、まだついてくる。

 事務所に辿り着いた時、いおりはようやく息を吐いた。
 鍵を二重に開け、ドアを閉める。
 手が震えているのが分かった。

「……所長」

 神谷はソファにいた。
 だが視線は鋭く、まるで最初から知っていたように立ち上がる。

「見られた?」

「……帽子の男が、いました。帰り道に」

「何した」

「走りませんでした。自販機で止まって……背後を確認して……そのまま帰りました」

 神谷は一度だけ頷いた。

「それでいい」

「……所長、あれは誰なんですか」

 神谷は少し黙り、机の引き出しを開けた。
 そこには、昨日の箱とは別の封筒が入っていた。
 封筒の端が、ほんの少しだけ折れている。使い込まれた紙の折れ方だ。

「森下さん。君に言っておく」

 神谷は封筒を指先で押さえたまま、こちらを見た。

「これは、依頼じゃない」

「……脅迫です」

「脅迫ですらない。“招待状”だ」

 いおりは喉が鳴るのを感じた。

「相手は、俺に“思い出させたい”」

「何を……?」

 神谷は答えなかった。
 その代わり、静かに言った。

「次の手紙が来る。もっと具体的になる。名前が出る。場所が出る。期限が出る」

 それは予言のようだった。
 そして、予言はたいてい当たる。

 その瞬間、事務所の電話が鳴った。
 いおりは反射で受話器を取る。

「はい、神谷探偵事務所です」

 数秒、無音。
 呼吸の気配だけが、受話器の向こうにあった。

『……森下いおり』

 名前を呼ばれて、いおりの血が冷えた。
 声は低い。若いとも年寄りとも判別できない。加工されたように平坦だ。

『次は——』

 ぷつり、と通話が切れた。

 いおりは受話器を握ったまま固まった。
 神谷がゆっくり近づき、受話器を戻す。

「……始まったな」

 神谷の声は小さい。
 だが、その一言が、決定的だった。

 猫を探す日常の隙間に、刃物のような現実が差し込んだ。
 相手はもう、隠れていない。
 名前を知っている。生活を知っている。行動を読んでいる。

 神谷探偵事務所の事件は、静かに次の段階へ進んだ。

第四章 冬の向日葵

 電話が切れてからもしばらく、森下いおりの耳には「自分の名前」が残っていた。
 呼び捨てではない。丁寧でもない。
 ただの記号みたいに、淡々と告げられた。

「森下いおり」

 その響きだけが、薄い氷のように体の内側へ貼りついている。

 受話器を戻した神谷恒一は、何事もなかったようにソファへ戻った。
 だが、座り方が違う。背もたれに沈まず、腰が前にある。いつでも立てる姿勢だった。

「……所長、私の名前、相手が知ってました」

「知ってるだろうな。昨日の時点で」

「昨日の時点で……?」

「箱を届けた。階段にいた。君が出入りするのを見てた。そこまでやるなら、事務所の表札だけじゃ足りない。求人情報、契約書類、ゴミ、郵便物……探る場所はいくらでもある」

 いおりは寒気を覚えた。
 たった一日で、生活は穴だらけになる。自分が思っているほど、世界は“外”と“内”に分かれていない。

「明日から——じゃない。今日から、ここでの会話は必要最低限。電話はスピーカーにする。メモは手元に残さない。帰りは人の多い道を通る」

「……ここまでやるんですか」

「やる。相手はもう線を越えてる」

 神谷の声は冷たいほど落ち着いていた。
 怖がっていない、というより、怖がる時間を削っている。

 その日の午後は、依頼を受けなかった。
 神谷が珍しく「受付休止」と張り紙をしたからだ。
 猫を抱いたおばあちゃんが再び来ても、丁寧に追い返すつもりでいる。

 それでも外は容赦なく回る。
 ドアの隙間から郵便受けに落ちる音がした。

 カタン。

 いおりの肩が跳ねた。
 音は小さい。日常の音。新聞が届くときと同じ。
 ただ、今日のその音は、刃物の柄のように握れる硬さがあった。

「……郵便、来ました」

「取って」

「私が?」

「俺が行くと、相手の狙いが分かりやすくなる。君が取れ」

 神谷は平然と言った。
 いおりは立ち上がり、郵便受けを開ける。中には茶封筒が一通。
 差出人欄はまた空白。
 宛名は印刷文字ではなく、黒いサインペンで書かれていた。

 ——森下いおり様。

 自分宛て。
 体の温度が一段下がる。

「……私宛です」

 いおりが封筒を持ったまま固まると、神谷が一歩だけ近づいた。

「開けるな」

「でも……」

「開けるな。封はそのまま。机に置け」

 命令口調ではない。
 しかし、逆らう余地のない響きがあった。

 いおりは封筒を机に置き、指先を引っ込める。
 封筒の角は鋭く、切り口が綺麗だった。
 中に何が入っていても、“この封筒を作った手”は慣れている。

 神谷は引き出しから薄いゴム手袋を取り出した。
 いつの間にそんなものを用意していたのか。
 いおりが息を呑むと、神谷は一瞬だけ目を細めた。

「日常でも使う。換気扇の掃除とか」

「……今、それ言うんですね」

「緊張すると、余計なことを考える。余計なことを考えると、視野が狭くなる」

 神谷は淡々と、封筒を触る。
 表面をなぞる指先が止まった。

「重い。紙じゃないものが入ってる」

「……写真とか、USBとか?」

「どっちもあり得る」

 神谷は封筒の口を、ゆっくり開けた。
 中から出てきたのは、紙が二枚と、小さな透明袋だった。

 透明袋の中身を見た瞬間、いおりは喉が鳴った。

 鍵。
 よくあるシリンダー錠の鍵が一本。新品のように光っている。
 袋の端には、黒いマジックで番号が書かれていた。

《3》

 紙の一枚目は、前と同じ白いコピー用紙。印刷文字。
 ただし今回は短くない。

『警察に言うな
 お前たちが守られる場所を、俺は知っている
 次は“場所”を渡す
 鍵はそのためのものだ
 森下いおり、逃げるな
 逃げたら、先に死ぬのはお前じゃない』

 いおりは紙の下半分に指が触れるのも怖くなって、両手で紙を持ったまま固まった。
 “お前じゃない”という言い方は、脅しの矛先が自分以外に向いていることを示していた。

(私じゃない……誰)

 昨日助けた猫のおばあちゃん。
 話し相手に行った母親。
 この事務所に来る、弱い立場の人たち。

 それが“現実”として急に重みを持った。

 二枚目の紙は、薄い写真用紙だった。
 いおりが目を落とすと、心臓が縮む。

 写真には——事務所のドアが写っていた。
 しかも外からではない。
 室内側。机の位置、ソファの位置まで見える角度。
 撮影者は、今この部屋に入ったことがある。

「……嘘」

 声が漏れた。

 神谷は写真を一瞥して、表情を変えなかった。

「侵入されてる」

「いつ……? 昨日? それとも……」

「昨日じゃない。昨日なら君がいる。君がいる時間に侵入して写真は撮らない。リスクが高すぎる」

 神谷の声は、氷みたいに平たい。

「つまり、君が入所する前か、深夜。鍵は合鍵、もしくはピッキング。あるいは——」

 神谷の視線が机の鍵束に落ちた。
 いおりもそれを追う。

(……ここは、私たちの城じゃない)

 そう思った瞬間、足元が揺らいだ。

「森下さん」

 神谷の声が、わずかに柔らかくなった。
 彼は写真を裏返した。

 裏には、手書きの文字があった。
 黒いペン。ゆっくり丁寧に書いた字。

《冬の向日葵は、どこだ》

 いおりは、その言葉を見た途端、息が止まった。
 偶然の一致じゃない。
 母親が語った向日葵とは別の、明確な固有名詞。

「冬の……向日葵……」

「来たな」

 神谷が短く言った。
 その瞬間、いおりは理解した。
 神谷は“これが来る”ことを、最初から知っていたのだ。

「所長……この絵って、何なんですか。あなたが隠してるんですか」

「隠してない。存在は知ってる」

「知ってる?」

「依頼があった。数年前」

 神谷はそれだけ言って、立ち上がった。
 棚の前へ行き、事件ファイルのバインダーが並ぶ列に手を伸ばす。
 いおりは息を呑んだ。

 神谷が触れたのは、いちばん奥。普段は絶対に開けない場所。
 古いファイルが、薄い箱のように差し込まれていた。

 神谷はそれを抜き取らず、指先で押さえたまま言う。

「森下さん。ここは触るな」

「……触ってません」

「触りたい顔してる」

 言い当てられて、いおりは黙った。

 神谷はファイルをそのまま押し戻し、代わりに別のバインダーを引き抜いた。
 表紙には何も書いていない。
 しかし背表紙に、小さく印字された管理番号があった。

 いおりは、その番号の並びに見覚えがあった。
 会社の内部資料では見ない形式。
 もっと、官公庁の、書類の匂い。

「……それ、警察の……?」

「昔の癖だ」

 神谷はさらっと言う。
 誤魔化し方が、逆に本当らしい。

「所長、あなたは……元、警視庁の匿名捜査班出身って」

 言った瞬間、事務所の空気が一瞬だけ止まった。
 神谷は顔を上げないまま、バインダーを閉じる音を立てた。

「どこで知った」

「募集要項に……それっぽく書かれてました」

「書いてないよ。君が読み取っただけだ」

 いおりは、自分の首筋に汗が浮くのを感じた。
 神谷は声を荒げない。脅しもしない。
 ただ、答えを求める“圧”だけがある。

「……私、間違ってますか」

「間違ってない」

 それだけだった。
 肯定は一瞬。
 そして、すぐに日常へ戻るように神谷は言った。

「だから、警察を呼ぶなと言った。警察を敵に回すためじゃない。相手が警察の手順を、俺より詳しい可能性があるからだ」

「そんなこと……」

「ある。警察は巨大で、手順がある。巨大なものほど動きが読める。読める動きは利用される」

 神谷は机の上の手紙と鍵を、一定の距離で並べた。
 視線がその距離を測っている。

「鍵の番号、3。次に“場所”を渡すと言ってる。つまり、これは三回目の合図か、三番目の場所か、三日後か……」

「……そんなの、何通りもあります」

「そう。だから“俺たちが決める”」

 神谷が静かに言った。

「相手に決めさせない。こっちが主導権を取る」

 その言葉に、いおりはぞくりとした。
 この人、本当に頼りないだけじゃない。
 優秀さを隠している。
 隠して、日常の皮を被っていた。

「……冬の向日葵は、どこだ、って」

 いおりが言うと、神谷はわずかに目を伏せた。

「それが、相手の本題だ」

「絵が欲しいんですか」

「欲しいんじゃない。絵に“意味”があるんだ。相手にとっての」

 神谷は一拍置き、言葉を選ぶように続けた。

「絵は、ただの絵じゃない。誰かの最後で、誰かの始まりになる」

 その言い方が、ひどく重い。
 いおりは胸の奥がじわりと痛んだ。

「……所長、その絵を探す依頼があった時、どうしたんですか」

「断った」

 即答だった。
 そして、そこに微かな棘があった。

「見つけられなかったから?」

「見つけられなかったから、じゃない」

「じゃあ、どうして——」

 いおりが問いかけた瞬間、神谷のスマホが震えた。
 通知音。短い、無機質な音。

 神谷は画面を見て、表情を動かさずに端末をいおりへ向けた。

 メッセージは、知らない番号から届いていた。
 短文。
 冷たい命令。

《鍵を使え。今夜。
 冬の向日葵は、ここだ》

 その下に、住所が一つ添えられていた。
 地図で見れば、駅から少し離れた古い倉庫街の一角。

 いおりの指先が震えた。
 “今夜”という具体性。
 “ここだ”という断定。

「所長……」

「行くな」

 神谷が言った。
 だが、その言葉は“禁止”ではなく、“対策を考えるための時間稼ぎ”に聞こえた。

「でも、相手は——」

「行けと言う。行かなければ、誰かが死ぬと言う。そういうゲームだ」

 神谷はスマホを受け取り、画面を伏せた。

「森下さん。相手は絵を“人質”にしてる。見せるふりをして、縛るつもりだ」

「絵を……人質に……」

「そうだ。冬の向日葵は、ただの絵じゃない。相手にとっては“人生”だ」

 神谷はそう言い切ると、机の上の手紙を折り、封筒に戻した。
 鍵も、透明袋ごと戻す。

「今夜の場所は罠だ。だから——」

 神谷が言いかけたその時、また電話が鳴った。

 いおりは反射で受話器を取ろうとしたが、神谷が手で止めた。
 スピーカーボタンを押す。
 事務所に、相手の呼吸音が広がった。

『……来るなとは言わない』

 加工された声。
 低く、平坦。
 だが、昨日よりも近い。

『冬の向日葵は、見せてやる。
 でも、見たいなら——約束を守れ』

 ぶつり。
 切れた。

 静寂が戻る。
 いおりは、自分の唾を飲む音さえうるさく感じた。

「所長……これ、どうなるんですか」

 神谷は目を閉じて、ほんの数秒だけ黙った。
 そして、いつもの気だるさの影を少しだけ戻した声で言った。

「どうにかする」

 短い。
 でも、その短さが“決めた”感じだった。

「森下さん。今から準備する。今夜は、勝負になる」

 いおりは頷いた。
 喉が渇いている。手が冷たい。
 それでも、目だけは逸らさなかった。

 冬の向日葵。
 消えた絵画。
 そして、鍵。

 日常の隙間に差し込まれていた刃物は、もう隠れない。
 現実は、こちらに“選べ”と言っている。

 ——行くか、行かないか。
 ——守るか、守れないか。

 神谷探偵事務所は、静かな冬の夜へ向けて、確実に動き出していた。

第五章 倉庫街の灯

 夕方から雪に変わった雨は、夜になっても止まなかった。
 街灯の光に照らされた白い粒が、斜めに流れ、アスファルトを薄く濡らす。
 倉庫街へ向かう道は人通りが途切れ、車の音も遠くなった。

「……ここ、ほんとに人がいるんですか」

 森下いおりは、足元の水たまりを避けながら言った。
 吐く息が白い。口の中が乾いて、舌がうまく回らない。

 神谷恒一は、いつものコートを着ているだけだった。防刃ベストも、警棒もない。
 なのに歩き方が違う。まるで地面の硬さを測るように、音を立てずに進む。

「人はいる。相手も、俺たちも」

「所長……本当に罠なんですよね」

「罠だよ。分かりやすい罠」

 神谷の声は淡々としている。
 その落ち着きが、いおりには怖かった。

 指定された住所は、古い木造の倉庫だった。
 シャッターの一部が錆び、建物の外壁に貼られた会社名はもう読めない。
 入口の扉だけが新しく、つい最近交換されたように見えた。

「鍵、これですよね」

 いおりが透明袋を示すと、神谷は頷いた。

「番号が3。鍵穴も新しい。……この鍵のために、扉を替えたな」

「そんなことまで……」

「準備してる。だから“遊び”じゃない」

 神谷は周囲を一度見回した。
 倉庫の両隣は空き地、背後には別の建物が連なり、通路が細い。
 逃げ道はあるようで少ない。

「森下さん、俺から離れるな。声は出すな。スマホは使うな」

「はい……」

 神谷が鍵を袋から出し、布越しに持った。
 鍵を差し込み、ゆっくり回す。

 カチ、と乾いた音。
 扉がわずかに開く。

 中から、冷えた空気が漏れた。
 湿った木と金属の匂いが混じっている。倉庫独特の匂いだ。
 それと、ほんの僅かに——絵具の匂いがした。

 いおりの喉が鳴った。

「……絵具……」

「嗅ぎ取るな。集中しろ」

 神谷は囁くように言い、扉を押し開けた。

 倉庫内は暗い。
 天井に吊るされた裸電球が一つだけ点いていて、光が足元の範囲しか照らさない。
 中央に、机が置かれていた。
 机の上には、一枚の絵が立てかけられている。

 額縁。
 そして、向日葵。

 黄色が見えた瞬間、いおりは胸の奥が熱くなった。
 冬の倉庫の中で、夏の花がそこだけ燃えているようだった。

「……冬の向日葵……」

 声になりそうな息を、いおりは慌てて飲み込んだ。

 神谷は絵にまっすぐ近づかない。
 左右を確認し、床を見て、天井を見た。
 そして机の手前で足を止めた。

「近づくな」

「でも、あれ……」

「視線で触れ。身体で触れるな」

 神谷は床に落ちている細い線を指さした。
 いおりが目を凝らすと、電球の下に透明な釣り糸のようなものが張られているのが見えた。
 机の脚から倉庫の壁へ伸びている。

「……罠」

「音を鳴らすやつ。あるいは何かが落ちる。単純だけど、確実」

 神谷は視線を上げた。
 電球の上、梁の影が濃い。そこに何かがある気がして、いおりの背筋がぞくりとした。

「所長、じゃあ絵は……」

「見せたいだけだ。触らせる気はない」

 神谷は机の上の絵を、距離を保ったまま観察する。
 いおりも目を凝らした。

 確かに向日葵が描かれている。
 だが、どこか違和感がある。
 線が硬い。
 塗りの重なりが単調で、絵の奥行きが浅い。

(……これ、写真みたいに“上手い”のに、心がない)

 いおりは前職で、広告用のイラストの修正を何度か見たことがあった。
 上手いのに、呼吸がない絵。
 人の感情を動かさない絵。

「……本物じゃない」

 いおりが小さく言うと、神谷は頷いた。

「複製。写真をプリントして、上から少し手を入れた程度だ」

「じゃあ、冬の向日葵は……」

「ここにはない。——でも、相手は“俺が見分けられる”ことも織り込み済みだ」

 神谷の声は静かだった。
 その静けさが、倉庫の寒さより冷たい。

 その時。

 ぱちっ、と電球が一度だけ瞬いた。

 いおりは息を止めた。
 次の瞬間、倉庫の奥から“足音”が聞こえた。

 コツ。
 コツ。
 ゆっくり。靴底が床を叩く音。

 神谷が手を上げ、いおりを背後に寄せた。
 いおりの心臓が、肋骨を叩く。

 暗がりから現れたのは——男だった。
 黒い帽子を深く被り、顔は影に落ちて見えない。
 体は細い。動きは無駄がない。

「来たか」

 神谷が言った。
 声が驚くほど落ち着いている。

 男は答えない。
 ただ、机の上の絵をちらりと見て、神谷へ視線を戻した。

「本物じゃないな」

 神谷が告げると、男が僅かに首を傾けた。
 それは笑いではない。
 “正解”を確認するような反応だった。

 男がポケットから小さな紙片を取り出し、床へ落とした。
 紙片は滑るようにいおりの足元へ来る。

 いおりは拾おうとしたが、神谷が目で止めた。
 彼は足で紙片を押さえ、屈まずに読める角度へずらした。

 そこには短い文字が書かれていた。

《次は、事務所だ》

 いおりの胃がきゅっと縮んだ。
 “次”という言葉は、今夜が終わりではないと宣言している。
 そして“事務所”という単語が、逃げ場を奪った。

「何が目的だ」

 神谷が問いかけた。
 男は無言のまま、一歩だけ前に出る。
 その瞬間、梁の上で何かが軋む音がした。

 神谷の目が鋭く動いた。

「森下、伏せろ!」

 神谷がいおりの肩を押し、床へ引き倒した。
 次の瞬間、梁の影から金属の箱が落ちた。

 ドン!

 床が震える。
 箱は机の脚のすぐ横に落ち、乾いた音を立てて転がった。

 いおりの耳がキーンと鳴る。
 心臓の音が、聞こえないほど大きい。

「……くっ」

 神谷が呻いた。
 いおりが顔を上げると、神谷の腕に箱の角が当たったらしく、袖の布が裂けて赤い線が走っていた。
 血が滲む。
 深くはない。だが、確かな“実害”。

 男はそれを見ても動かない。
 ただ、遠くから観察するように立っている。

「殺すつもりなら、もっと確実に落としたはずだ」

 神谷が痛みを無視するように言った。

「これは脅し。——いや、合図だな。俺が“守れるか”を見る試験」

 男が一歩下がった。
 まるで次の段階へ進むために、結果を記録したような動き。

 神谷が立ち上がる。
 血が袖を赤く染めているのに、呼吸が乱れていない。
 いおりはその横顔を見て、初めて“怖い”と思った。

 この人の冷静さは、慣れだ。
 何度もこういう場を生きてきた人間の冷静さ。

「お前は、誰だ」

 神谷が問う。
 男は答えず、扉の方へ歩き出した。

「待て!」

 神谷が追う一歩を踏み出した瞬間、床の釣り糸が揺れた。
 神谷は寸前で止まり、いおりを振り返る。

「動くな。ここはまだ罠の中だ」

 男は扉へ向かい、鍵を内側から回した。
 開け方を知っている。
 つまり、こいつがここを作った。

 外の冷気が流れ込み、男の帽子の端が揺れた。
 顔が一瞬だけ見えた気がした。
 だが影が深く、確かに捉えられない。

 男は外へ消えた。

 扉が閉まる。
 倉庫の中はまた静かになり、裸電球の光だけが頼りない。

 いおりは、床に落ちている金属箱を見る。
 中身は何もない。
 ただの重り。落ちること自体が目的のもの。

「……殺す気がないなら、どうして脅すんですか」

 声が震えた。

 神谷は袖の裂け目を押さえ、ゆっくり息を吐いた。

「殺す気はある。——まだ“今じゃない”だけだ」

「……」

「相手は、目的のために段階を踏む。俺を追い詰める段階、君を縛る段階、周りを削る段階……全部やる」

 神谷の言葉は、冷たい説明だった。
 それが現実の形をしているから、いおりの胸は更に苦しくなる。

「所長……帰りましょう。事務所が……」

「行く」

 神谷が即答した。

「今すぐ戻る。——相手は“次は事務所だ”と言った。つまり、事務所を荒らす。あるいは、誰かを置いていく」

 いおりは頷き、足が震えるのを無理に動かした。

 倉庫を出て、タクシーを拾うまでの道が長かった。
 雪がコートの肩に溜まり、視界が白く滲む。
 それでも神谷は振り返らない。

 事務所に戻った時、ドアは閉まっていた。
 鍵も破られていない。
 いおりは一瞬だけ安堵した——が、次の瞬間、その安堵が裏返る。

 室内の空気が違った。
 匂いが変わっている。
 コーヒーでも紙でもない、“人の気配”が残っている。

「……入られてます」

 いおりが言うと、神谷は黙って頷いた。
 そして、電気を点けずに中へ入った。

 机の上に、白い紙が一枚置かれていた。
 まるで最初からそこにあったみたいに、きっちり中央に。

 神谷が紙を開く。
 短い文字。

『次は、選べ
 森下いおりを守るか
 冬の向日葵を守るか』

 いおりの喉が鳴った。
 言葉の冷たさが、心臓を直接掴む。

「……所長、どういう意味ですか」

 神谷は紙を見つめたまま、静かに言った。

「相手は分かってる。俺が、絵に関わってることを」

「……」

「そして、君が俺にとって“新しい弱点”だってことも」

 いおりは胸の奥が痛んだ。
 自分が弱点。
 役に立ちたいと思って入ったのに、足を引っ張る存在だと言われたようで。

 神谷はその紙を折り、ポケットに入れた。
 そして、ソファに座らず、机に両手をついた。

「森下さん。ここから先、俺は君を“助手”として扱う。守る対象じゃなく、動ける人間として扱う」

「……私、できますか」

「できる。今日、倉庫で走らなかった。声を出さなかった。言われた通りに伏せた。それだけで十分だ」

 神谷の声は冷たいままなのに、いおりはその言葉に少しだけ呼吸が戻った。

「……所長」

「今夜は寝るな。交代で見張る。相手は“次”を急がせようとする。焦らせて、判断を誤らせるために」

 神谷は腕の血をティッシュで押さえながら言った。

「そして——冬の向日葵を探す。もう避けられない。相手の人生の中心がそこにあるなら、そこを突く」

 いおりは頷いた。
 寒さは変わらない。雪もまだ降っている。
 でも、事務所の中で始まったものは、もう戻らない。

 日常は終わった。
 神谷探偵事務所の冬は、静かに火を灯したまま燃え続ける。

第六章 依頼人の名前

 夜明け前の事務所は、冷蔵庫みたいに冷たかった。
 暖房はつけっぱなしなのに、床の底から冷気が上がってくる。
 森下いおりはカップの湯気に手をかざしながら、神谷恒一の腕に巻かれたガーゼを見た。

 昨日の倉庫街で裂けた袖の下、皮膚に赤い線が残っている。
 深くはない。
 でも、痛みよりも“ここまで来た”という証拠が怖かった。

「所長、寝てないですよね」

「寝てるように見える?」

 神谷はソファではなく、机に肘をついていた。
 視線はパソコンの画面と、紙の束を往復している。
 眠そうな顔をしているのに、目だけが落ちない。

 いおりはノートを開き、昨夜の出来事を時系列で整理した。
 倉庫街、偽物の絵、重りの箱、事務所侵入、置かれた紙。

《森下いおりを守るか 冬の向日葵を守るか》

 その一文は、文字として書くとさらに冷たかった。
 選択肢に見せかけた拘束。
 どちらを選んでも、相手の思う通りに揺れる。

「所長……絵を探すって言いましたよね。どうやって?」

「記録から辿る」

 神谷は机の引き出しを開け、古いクリアファイルを出した。
 昨日、いおりに触るなと言った棚の奥ではない。
 しかし紙の色が他と違う。少し黄ばんでいて、角が丸い。

「数年前の依頼書だ。……これが出てくるとは思わなかった」

 神谷の指先が、ファイルの端を押さえる。
 躊躇いが一瞬だけ見えた。

「所長、私も見ていいですか」

「……必要な部分だけな」

 神谷は依頼書を机に置いた。
 いおりは覗き込み、すぐに息を止めた。

 依頼内容:絵画捜索
 作品名:冬の向日葵
 依頼人:三宅直人

 名前が、そこにあった。
 活字ではなく、手書き。
 力の入った文字で書かれている。筆圧が紙を押して少し凹むほどだ。

「……三宅直人。……」

 いおりが言いかけると、神谷が小さく頷いた。

「妹が最後に描いた絵が消えた、って依頼だった」

「最後に描いた……」

「病気だった。若かった。三宅は、絵を“妹そのもの”みたいに扱ってた」

 神谷の声には、余計な感情が乗っていない。
 まるで報告書を読むような口調。
 けれど、その平坦さが逆に“触れたくない過去”を示している気がした。

 いおりは依頼書の続きを見た。
 捜索範囲、最後に確認された場所、関係者の名前。
 そして、神谷の回答欄。

《受任せず》

 たったそれだけ。
 理由の欄は空白だった。

「……所長、断ったんですよね。どうして空白なんですか」

「書けなかったから」

 神谷は短く言った。

「書くと、相手を傷つける」

「それって……優しさですか」

 いおりの問いに、神谷は目を上げた。
 視線がまっすぐで、鋭い。

「優しさじゃない。判断だ」

「判断……」

「探偵の仕事は、依頼人が欲しいものを渡すことじゃない。依頼人が“背負える真実”を渡すことだ」

 神谷の言葉は冷たい。
 だが、突き放す冷たさではなく、刃物のような冷たさだった。
 切れ味が良すぎて、触れると痛い。

「三宅は背負えなかった。だから俺は断った」

「……背負えない真実って、何だったんですか」

 神谷は答えない。
 その代わり、依頼書の添付資料をめくった。

 写真が数枚。
 展示会のチラシ。
 画廊の名刺。
 そして——妹が描いたという、冬の向日葵の小さな複写。

 いおりはその絵を見た瞬間、胸の奥が詰まった。
 黄色い花なのに、明るくない。
 花弁の先が少し沈んでいて、背景は淡い灰色。
 冬の空気が絵の中にある。

 向日葵なのに、泣いているみたいだった。

「……これが、本物のタッチ」

「昨日の偽物とは違うだろ」

「全然違います。……絵が、息してます」

 いおりが言うと、神谷はほんの少しだけ目を伏せた。

「妹は、上手かった。何より、自分の痛みをごまかさなかった」

 その言い方は、どこか自分にも向いていた。

 いおりは名刺に目を落とす。
 画廊名と住所。
 担当者の名前。
 電話番号。

「この画廊……今もあるんでしょうか」

「あるかもしれない。まずそこから当たる」

 神谷は淡々と言い、スマホを手に取った。
 だが発信ボタンを押す前に、一瞬止まる。

「……森下さん」

「はい」

「今日、外に出る」

 いおりの喉が鳴った。

「危険ですよね」

「危険だ。でも、止まる方が危険だ。相手は、俺たちが動く前提で仕掛けてくる」

「じゃあ、私も——」

「君は残る」

「……!」

 いおりは反射で立ち上がりかけた。
 昨日“助手として扱う”と言われたばかりなのに。
 置いていかれるのは、守られるより辛い。

「森下さん」

 神谷が低い声で呼んだ。
 いおりの動きが止まる。

「残るのも仕事だ。ここが空けば、相手は喜ぶ。侵入して、また“選べ”と言う。君は、それを許すな」

「……私一人で?」

「一人じゃない。メモと録音と鍵がある。あと——」

 神谷は机の引き出しから、小さな銀色のベルを取り出した。
 ホテルのフロントに置いてあるようなやつだ。

「これ、何ですか」

「音で分かる。ドアが開いたら鳴らすように置いとけ」

「……それ、探偵事務所がやることですか」

「日常の道具が、一番役に立つ」

 神谷はそう言って、コートを羽織った。
 腕の傷に触れたのか、一瞬だけ眉が動く。
 でも痛がるそぶりは見せない。

「帰ってくるまで、誰も入れるな。依頼も取るな。電話は全部録音。相手が話したら、言葉じゃなく“息”を覚えろ」

「息……?」

「癖が出る」

 神谷はそれだけ言い、出て行った。

 扉が閉まったあと、事務所は急に広く感じた。
 いおりは二重の鍵を確認し、ベルをドアの近くに置く。
 ノートを開き、時間を記す。

《9:18 所長外出》

 時計の針が進むたびに、室内の静けさが薄く怖くなる。
 窓の外の人の足音すら、全部“来る足音”に聞こえた。

 午前十時半。
 電話が鳴った。

 いおりは一瞬ためらってから受話器を取る。スピーカーを押す。

「神谷探偵事務所です」

『……』

 無音。
 呼吸だけ。
 昨日と同じだ。

 いおりの指先が冷たくなる。

「……どなたですか」

『森下いおり』

 名前。
 やはり、同じ声。
 低く、平坦。近い。

『神谷はどこだ』

「所長は外出しています」

『嘘をつくな』

 声が少しだけ尖った。
 その尖りが、相手の感情の輪郭を見せた。

「嘘ではありません」

『——なら、伝えろ』

 いおりは息を止める。

『絵を探せ』

 たった四文字。
 命令。
 それ以上の説明はない。
 探さなければ、何が起きるかは言わない。言わなくても伝わると思っている。

「……絵は、どこにあるんですか」

 いおりは震える声を押し込みながら問うた。
 相手は一瞬だけ沈黙し、それから言った。

『お前が探せ』

 ぷつり。
 通話が切れた。

 いおりは受話器を握ったまま、体の芯が冷えるのを感じた。
 怒鳴られたわけでもない。脅された言葉も少ない。
 それなのに、背中が汗で濡れていく。

(……“絵を探せ”)

 命令の矢印が、はっきり自分へ向いた。
 相手は神谷だけを見ていない。
 いおりが動けるかどうかも、試している。

 その時、ドアの外で足音が止まった。
 そして——。

 チリッ。

 ベルが、ほんの小さく鳴った。

 いおりは息を止めた。
 ベルは、風では鳴らない位置に置いてある。
 つまり、ドアノブに手が触れた。

 鍵はかかっている。
 二重だ。
 でも、相手は一度侵入している。

 いおりはゆっくり立ち上がり、机の引き出しを開けた。
 中には文房具と、封筒と、紙。
 武器になるものはない。武器を探す発想もしたくない。

 足音が動く。
 ドアの向こうで、誰かが鍵穴を覗く気配。
 金属の擦れる音が、かすかに聞こえた。

 いおりはノートに震える字で書く。

《10:33 ドア外に気配》

 そして、深呼吸を一つ。
 声を出さない。
 動きで恐怖を見せない。
 神谷の言葉を思い出す。

(相手のルールに乗らない)

 いおりは静かにスマホを握り、録音を開始した。
 通報ではない。
 証拠を残すための録音。

 ドアの向こうで、金属音が止まる。
 数秒。
 そして足音が遠ざかった。

 いおりはその場に立ったまま動けなかった。
 心臓が、胸の内側を叩き続ける。

 外の世界はいつも通りなのに、こちらだけが違う。
 この事務所が、誰かのゲーム盤の上に置かれている。

 冬の向日葵。
 消えた絵。
 そして命令。

 ——絵を探せ。

 神谷が戻った時、いおりは机に向かっていた。
 ノートには、時間と出来事が細かく並んでいる。

「電話がありました」

 いおりが言うと、神谷の目が一瞬だけ鋭くなる。

「内容は」

「……“絵を探せ”って」

 神谷は短く息を吐いた。
 その息は怒りではなく、確認の息だった。

「直接来たな。——三宅だ」

 いおりは神谷を見た。

「……やっぱり、三宅直人が」

「本人か、本人の代弁者か。どっちにせよ、中心は三宅だ」

 神谷はコートを脱ぎ、机に手を置いた。

「森下さん。ここから先、絵は“探し物”じゃない。相手の心臓だ。心臓を握った方が勝つ」

 いおりは頷いた。
 怖さは消えない。
 でも、自分の中で何かが固まっていく感覚があった。

 探偵助手としてではなく、探偵として。
 最初の一歩を踏み出すための固さ。

 冬の向日葵を探す。
 それは、誰かの復讐の中に入っていくことだ。

第七章 断った理由

 神谷恒一が事務所に戻ってから、空気は少しだけ変わった。
 危険が減ったわけじゃない。むしろ逆だ。
 相手が「絵を探せ」と言った以上、こちらが動けば動くほど、相手は次の手を打つ。

 なのに、いおりの心はわずかに落ち着いていた。
 “何をすべきか”が見えたからだ。
 恐怖は曖昧なときほど膨らむ。輪郭がついた恐怖は、呼吸できる。

「画廊は……どうでした?」

 いおりが尋ねると、神谷は濡れた髪をタオルで雑に拭きながら答えた。

「まだある。でも、名前が変わってた。担当者もいない。十年前の名刺を出しても、店員は首をかしげるだけだった」

「じゃあ、手がかりなしですか」

「ゼロじゃない。展示会の記録が残ってた。妹の名前も、冬の向日葵も」

 神谷は紙を数枚、机に置いた。
 コピーされた古い展示会のフライヤー。
 そこに小さく写った作品の写真と、作家名。

《三宅 美咲》

「妹さんの名前……」

「三宅直人の妹だ。美咲。彼女の個展で、冬の向日葵が展示された形跡がある」

 いおりはフライヤーの写真を見つめた。
 小さくて粗いのに、花の沈んだ色は分かる。
 黄色の中に、冷えた灰色が混じっている。

「これが最後の絵……」

「“最後に描いた”ってのは、三宅の言い方だ。正確には、最後に“渡したかった”絵だと思う」

 神谷の言葉が引っかかった。

「渡したかった……誰に?」

「それが、俺が断った理由に関係してる」

 神谷は椅子に座らず、机に背を預けた。
 いつもなら、話を逸らす。誤魔化す。眠そうにする。
 なのに今は、逃げる余地を削っている。

「森下さん。君は昨日からずっと聞いてるな。“なんで断った”って」

「……はい」

「答え方を間違えると、君は俺を嫌いになる」

 いおりは息を止めた。
 嫌いになる、という言葉が、奇妙に現実的だった。

「それでも、聞きます」

 神谷はわずかに目を細めた。

「断ったのは、見つけられなかったからじゃない。見つける可能性があったからだ」

「……え?」

 いおりの理解が追いつかない。
 見つける可能性があったなら、受ければよかったはずだ。

「冬の向日葵は、当時——“売られていた”」

 神谷は淡々と言った。

「闇じゃない。普通のルートだ。オークション。画廊経由。コレクターの手。つまり合法の形で、もう誰かの所有物になってた」

 いおりは口を開けたまま固まった。

「……でも、それって、盗まれたとかじゃなくて……?」

「盗まれた可能性はある。けど、証明できない。証明できなければ、取り戻す方法は——奪うしかない」

 神谷の言葉が、静かに胸を刺した。

「三宅は“奪う”と言った。言い方を変えれば“取り返す”だ。でも同じだ。妹の最後の絵が他人の壁に掛かってる。それに耐えられない」

「……」

「俺が手を貸せば、三宅はその絵を手に入れようとする。相手がどういう人間でも関係ない。手段が荒くなる。結果、誰かが傷つく」

 いおりは唇を噛んだ。
 神谷の言っていることは、正しい。
 それが分かるから苦しい。

「だから断ったんですか」

「断った。“俺は探偵だ。盗人の共犯はしない”って」

 神谷の声には、かすかな硬さがあった。
 過去の自分の言葉を、そのまま繰り返しているみたいに。

「……三宅直人は、どうしたんですか」

「笑ってた」

 神谷の目が、遠くを見る。

「最初は丁寧だった。“分かりました。ありがとうございました”って。だけど帰り際に——」

 神谷は少し間を置いた。

「“あなたも、いつか取り返したくなる日が来ますよ”って言った」

 いおりの背筋が冷えた。
 その言葉は、復讐の予告にも、予言にも聞こえる。

「それが……今」

「たぶんな」

 神谷は机の上の資料を指で揃えた。

「今、絵はどこかの個人コレクションにある。画廊も詳しくは教えない。守秘があるからだ」

「じゃあ、どうやって探すんですか」

「合法で追う」

 神谷は短く答え、次の紙をいおりに見せた。

「当時の展示会のスポンサーに、金融系の会社が入ってる。あと、後援に印刷会社。作品の運搬業者も載ってる」

 いおりは目を見開いた。
 フライヤーからそこまで拾うのか。

「……運搬業者」

「絵は誰かが動かした。動かした痕跡は必ず残る。記録が消えてても、人の記憶が消えるとは限らない」

 神谷は電話をかけ始めた。
 社名を告げ、丁寧に用件を伝え、担当部署に繋いでもらう。
 その口調は、昨日までの気だるい男のそれではない。
 淡々としているのに、相手が断りにくい“距離”を作る話し方。

 いおりは横でメモを取った。

《運搬業者:東都アートロジ》
《担当:岩崎(不在)折返し待ち》

 次に印刷会社。
 次に後援の団体。
 神谷は、断られても怒らない。食い下がりすぎない。
 ただ、必ず“次の糸”を残して切る。

 数時間後。
 折返しが来たのは、運搬業者ではなく、画廊の現スタッフからだった。

『昔の資料、ちょっと見てみたんですけど……その作品、引き取りに来たの、兄の方じゃなかったですよ』

 スピーカー越しの声は困っていた。
 いおりは息を止め、神谷を見る。
 神谷は顔色を変えない。

「兄じゃない。誰でした」

『女性でした。えっと……美咲さんの、友人……だったと思います。名前は……確か——』

 相手が言いよどむ。紙をめくる音。

『……“相沢”って。相沢、真理さん』

 いおりのペン先が止まった。
 神谷の目が、わずかに細くなる。

「連絡先は残ってますか」

『すみません、そこまでは……。でも、写真が一枚だけ残ってました。搬出の時の……』

 神谷が即座に言う。

「送ってください。メールで」

 電話を切ったあと、事務所の空気が濃くなった。
 いおりは神谷を見つめた。

「相沢真理さん……妹さんの友人が、絵を持ち出した?」

「そうなる」

「じゃあ、その人が盗んだ……?」

「まだ決めるな」

 神谷は冷たく言った。

「友人が持ち出した=悪じゃない。美咲本人が頼んだ可能性もある。家族に渡さなかった理由があるのかもしれない」

 いおりは息を呑む。
 家族に渡さなかった。
 兄が必死で探しているのに、妹が最初から兄に渡すつもりがなかった可能性。

(そんなこと……ある?)

 数分後、画廊からメールが届いた。
 添付された写真は一枚。
 搬出の瞬間を撮った記録写真だ。

 梱包された大きな木箱の横で、二人の女性が立っている。
 一人は画廊スタッフ。
 もう一人が、相沢真理らしい。

 彼女はカメラ目線ではない。
 箱を見ている。
 その目が、悲しいほど真剣だった。

「……この人、盗む顔じゃない」

 いおりが思わず言うと、神谷は小さく頷いた。

「盗む顔ってのも曖昧だけどな。ただ——絵を“守ってる”顔だ」

「守ってる……」

 いおりは、冬の向日葵の複写を見た。
 あの絵は、誰かを責めるために描かれた絵じゃない。
 悲しさを抱えたまま、誰かに何かを残す絵。

 神谷が静かに言った。

「冬の向日葵は、三宅直人のためじゃない可能性がある」

 いおりは胸の奥が痛んだ。
 兄は人生をかけて探している。
 でも、妹の絵は兄のために描かれたものではないかもしれない。

「それが……背負えない真実ってことですか」

 神谷は答えなかった。
 代わりに、机の上の資料をまとめる。

「相沢真理を探す。ここからが本番だ」

「どうやって?」

「住所を当たる。昔の名簿、SNS、勤務先、何でも使う。合法でな」

 神谷は淡々と指示を出した。
 いおりはキーボードを叩き、検索し、候補を拾っていく。
 相沢真理という名前は珍しくない。
 だが、絞り込みの条件がある。

 美咲の友人。
 画廊に関わる。
 当時二十代後半〜三十代前半なら、今は四十前後。

 数十件の候補。
 その中に、一つだけ、画廊関係の経歴が見えた。

「所長……この人かも」

 いおりが画面を示すと、神谷は一度だけ頷いた。

「当たりに近い。——でも、当てるだけじゃ意味がない。接触は慎重にする」

 神谷がメモを取る。
 その時、事務所の電話が鳴った。

 いおりは反射で身構えた。
 神谷がスピーカーボタンを押す。

『神谷恒一』

 加工されていない声だった。
 低い。疲れている。
 それでいて、憎しみが滲んでいる。

 いおりの心臓が跳ねる。
 これまでの“平坦な声”とは違う。生身の声。

『……やっと動いたな』

 神谷は答えない。
 呼吸すら揺らさない。

『俺の妹の絵だ。お前が探せ。
 今度は断るな』

 その声の主が誰なのか、確認する必要はなかった。
 名前がなくても分かる。
 言葉の重さが、兄の執念だった。

「三宅直人だな」

 神谷が静かに言った。

 電話の向こうで、短い笑い声が漏れた。

『そうだ。三宅直人だ』

 いおりは指先が冷たくなる。
 ついに、本人が名乗った。

『神谷。お前は知ってるはずだ。
 冬の向日葵が“どこへ行くべきか”を』

「……」

『絵を探せ。
 見つけたら、俺に渡せ。
 渡さないなら——』

 三宅の声が、ほんの少しだけ低くなる。
 脅しは叫びではなく、確定事項みたいに落ちてきた。

『次は、周りから消える』

 ぷつり。
 通話が切れた。

 いおりは息を吐けなかった。
 空気が重い。喉が乾く。
 神谷は受話器を戻し、机の上の資料を一度だけ撫でた。

「……所長」

「“周りから消える”か。分かりやすいな」

 神谷の声は冷たい。
 しかし、その冷たさの奥に、怒りがあった。
 抑え込んだ怒り。

「森下さん。ここから先、相手は“絵”じゃなく“人”を使う」

「……守るべき人が多すぎます」

「だから、終わらせる」

 神谷が言い切った。

「冬の向日葵を見つける。それで三宅を止める」

 いおりは頷いた。
 怖い。
 でも、逃げない。

 探偵事務所の日常は、もう戻らない。
 この冬の中で、向日葵の意味を掴まなければ、誰かが消える。

 いおりはノートに震える字で書き足した。

《三宅直人 本人から直接連絡》
《要求:絵を探せ》

 そして、神谷の横顔を見た。
 この人は泣かない。
 同情もしない。
 真実を伝えるために、冷たい顔をしている。

 けれど——その冷たさの奥に、確かに“守る意志”が燃えていた。

第八章 消える人

 雪はやんでいた。
 その代わり、空気が硬い。濡れたアスファルトが冷え切り、朝の光を鈍く反射している。

 神谷恒一は机の上に並べた資料を、無駄なく重ね直した。
 相沢真理。
 美咲の友人。
 冬の向日葵を持ち出した人物。

「森下さん、接触する」

 神谷が言った。

「電話ですか」

「まずは電話。反応を見る。警戒されるなら訪問はしない。——相手は“守ってる”側の可能性が高い」

 守ってる。
 いおりはあの写真の目を思い出す。木箱を見つめていた相沢の横顔。盗人の顔ではなく、何かを預かった人の顔。

 神谷はスピーカーを入れ、番号を押した。

 呼び出し音が二回。
 その後、女性の声が出た。

『はい、相沢です』

 落ち着いた声だった。若すぎない。忙しさの中に、丁寧さがある。

「神谷探偵事務所の神谷です。突然すみません。三宅美咲さんの件でお話がありまして」

 一瞬、呼吸が止まる。
 それが音として分かった。

『……美咲? どうしてその名前を』

 相沢は動揺を隠しきれていない。
 神谷は淡々と続ける。

「数年前、兄の直人さんから絵画捜索の依頼がありました。作品名は“冬の向日葵”。当時、画廊から搬出したのが相沢さんだと記録に残っています」

 言い方が冷静すぎて、いおりは背筋が伸びた。
 相手が逃げる隙を与えない。
 しかし追い詰めるような口調でもない。事実だけを置く。

 数秒の沈黙のあと、相沢が短く息を吐いた。

『……今さら、何を』

「絵を探しています。直人さんが動いています。危険です」

『危険……?』

「脅迫が来ています。人が巻き込まれかけています」

 ここだけ、神谷の声が僅かに低くなった。
 “お願い”ではない。
 “現実”として告げた。

『……分かりました。会いましょう。ただし、場所はこちらが指定します』

「構いません。時間は」

『今日の午後。——人の多い場所で』

「了解しました」

 相沢は地名を告げ、店名を言った。駅前の小さな喫茶店。昼でも席が埋まる、昔ながらの店。
 通話が切れたあと、いおりは息を吐いた。

「会ってくれるんですね」

「会うってことは、話す準備があるってことだ」

 神谷は資料を鞄に入れ、いおりの方を見る。

「森下さんも来い。今回は二人で行く」

 いおりの胸が少しだけ軽くなった。
 置いていかれない。守られるのではなく、同じ場所に立てる。

 それでも恐怖は消えない。
 相手——三宅直人は、“周りから消える”と言った。
 そしてこの数日、相手の言葉は必ず現実になってきた。


 喫茶店は昼の匂いがした。
 コーヒーとバターと、古い木の香り。
 席は半分以上埋まっていて、客の話し声が絶えない。

 相沢真理は、奥の席にいた。
 灰色のコート、黒いバッグ。背筋が真っ直ぐで、視線が落ち着いている。
 だが、神谷といおりを見ると、その目が一瞬だけ揺れた。

「……神谷さん、ですよね」

「はい。突然すみません」

 神谷が座り、いおりも隣に座る。
 相沢は、いおりを一度だけ見てから神谷に戻した。
 “助手”だと理解した顔。

「結論から言います。冬の向日葵は、私が持ち出しました」

 相沢が、先に言った。
 声は小さいが、逃げない音。

 いおりの手が膝の上で固まる。

「盗んだわけじゃありません。——美咲に頼まれました」

 その瞬間、いおりは胸の奥が痛んだ。
 予想していた可能性が、現実として落ちる。

「美咲さん本人が?」

 神谷の問いに、相沢は頷いた。

「亡くなる少し前、病院で。美咲は弱っていた。でも、頭は最後まで冴えてた。……はっきり言いました。“この絵は、兄には渡さないで”って」

 喫茶店のざわめきが遠のいた気がした。
 兄には渡さない。
 兄は人生をかけて探しているのに。

 いおりは思わず口を挟んだ。

「どうして……そんな」

 相沢の目が、いおりの方を見る。

「あなた、兄の顔を知ってる?」

「……いえ」

「兄はね、優しいの。優しいけど——美咲にとっては、息ができない優しさだった」

 相沢の言葉は冷たくない。
 むしろ、痛みを含んでいる。

「直人は、美咲を守りたかった。けど守り方が強すぎた。美咲は絵を描いてた。最後の最後まで“自分で選びたかった”。でも兄は、選ばせなかった」

 相沢は指先をぎゅっと握りしめた。

「入院先も治療も、全部兄が決めた。美咲は感謝してた。でも——感謝しながら、苦しかった」

 いおりは、息を飲んだまま動けなかった。
 家族の愛が、鎖になることがある。
 それを“善意”の顔で言われたら、逃げ場がない。

「だから冬の向日葵は、兄のものじゃない」

 相沢は静かに言った。

「美咲は、その絵を“兄から離れるための手紙”にしたかった。——最後の、さよなら」

 神谷が初めて、わずかに目を伏せた。

「……それが、あなたが守っている理由ですか」

「はい」

 相沢は頷いた。

「美咲は亡くなる直前に言いました。“兄はきっと探す。絵を見つけたら、また私を抱えてしまう。——だから、渡さないで”って」

 いおりの胸の奥がぎゅっと締まる。
 兄の執念は、妹への愛だった。
 でも妹にとっては、最後まで自分を閉じ込める愛だった。

「絵は、今どこに?」

 神谷の声は淡々としていたが、質問は核心だった。

 相沢は一瞬ためらい、それから言った。

「……ここにはない。安全な場所に移しました。美咲の意思が壊されない場所に」

「直人さんは、その意思を壊してでも欲しい」

「分かってます」

 相沢は唇を噛んだ。
 その表情には恐怖がある。
 それでも守ろうとしている。

「だから、あなたに連絡した。神谷さん。……あなたは断ったでしょう。あの時、“共犯にはならない”って」

 相沢は神谷をまっすぐ見た。

「でも今は違う。直人は止まらない。あなたしか止められない」

 神谷は答えない。
 それは拒否ではなく、言葉を選んでいる沈黙だった。

 その時——いおりのスマホが震えた。
 マナーモードの振動が、机の上のコップをわずかに揺らした。

 画面には、知らない番号。
 メッセージが一行だけ表示される。

《森下いおり 外に出ろ》

 いおりの指先が凍った。

 神谷がそれを見て、目が冷たくなる。

「……来たな」

 相沢が顔色を変えた。

「まさか、直人?」

 いおりは喉が詰まり、声が出ない。
 神谷がいおりのスマホを受け取り、素早く画面を確認する。

 そして——次のメッセージ。

《周りから消えるって言ったよな》

 いおりの背中が汗で濡れた。
 喫茶店のざわめきが急にうるさくなる。
 自分だけが、別の空気の中にいる。

 神谷が相沢を見る。

「あなた、今日は一人で来たと言いましたね」

「……はい」

「店の外に、あなたの知ってる人間はいないですか」

「いません。……でも、最近、家の近くで帽子の男を見た。何度も」

 その言葉に、いおりの胃が沈んだ。
 帽子の男。
 あれは“観察”じゃない。
 準備だ。

 神谷が席を立ちかけた瞬間、喫茶店の入り口で騒ぎが起きた。

「すみません! 救急車……!」

 店員の声。
 客が振り返る。
 入口付近で、年配の男性が膝をついて倒れ込んでいた。
 顔色が悪い。意識が朦朧としている。

 いおりは立ち上がりかけた。
 助けなきゃ。
 普通ならそうする。
 でも——神谷の手が、いおりの腕を掴んだ。

「動くな」

「でも、人が……!」

「違う。見せしめだ」

 神谷の声は低かった。冷たい現実の声。

 救急車の呼び声が外に響く。
 喫茶店は一気に乱れ、客が立ち、通路が塞がる。
 その瞬間、入口の横から黒い帽子の男が滑り込むように入ってきた。

 いおりの呼吸が止まる。

 男は店内の混乱に紛れ、相沢のバッグへ手を伸ばした。
 狙いは金でもスマホでもない。
 バッグの中の“鍵”。
 相沢が守ってきたものの手がかり。

「……っ!」

 相沢が気づいてバッグを引いた。
 男の手が空を切る。
 だがその代わり、男は相沢の手首を掴み、ぐっと引いた。

「やめ——!」

 相沢の声が出た瞬間、男は紙を一枚、相沢の胸元に押し込んだ。
 そして混乱の中へ消える。

 ほんの三秒。
 冷たい現実は、いつも短い。

 相沢は震える手で紙を抜き取った。
 そこには短い一文。

《絵を渡せ》

 相沢の顔から血の気が引いた。

「……直人」

 神谷はすぐに店の外を見た。
 人波の向こうに、帽子の影がすでに遠ざかっている。追っても間に合わない。追えば、次の罠に入る。

「森下さん、相沢さん。ここから出るな」

 神谷が言った瞬間、またいおりのスマホが震えた。
 神谷が画面を確認し、いおりに見せる。

《森下いおり
 次は“消える側”になれ》

 いおりの視界が揺れた。

 消える側。
 自分が連れていかれる。
 もしくは、自分が消えることで誰かを守れと言っている。

 神谷が静かに言った。

「相手は、選ばせる。人質を増やして、判断を鈍らせる」

 相沢が震える声で言う。

「……冬の向日葵を渡したら、直人は止まると思う?」

「止まらない」

 神谷は即答した。

「渡したら、次は“意味”を欲しがる。意味を欲しがる人間は、真実じゃなく“自分が救われる物語”を欲しがる」

 いおりは、その言葉が胸に刺さった。
 三宅直人の執念は、妹を取り戻すためのものではない。
 自分を救うためのものになっている。

「相沢さん」

 神谷が相沢を見る。

「絵の場所を教えてください。あなたを守るためじゃない。——絵を守るためでもない。終わらせるためです」

 相沢の瞳が揺れる。
 迷いがある。
 守ってきたものを渡す恐怖。
 でも、今この瞬間にも“周りから消える”が動いている。

 相沢は、ようやく頷いた。

「……分かった。場所は——」

 その時、店の外で車のエンジン音が強く鳴った。
 低い、急な加速。
 そして、タイヤが濡れた路面を削る音。

 相沢が窓の外を見て、顔色を変える。

「あ……私の車……」

 駐車場に停めてあった相沢の車が、誰かに乗られて動き出していた。
 助手席の窓が少し開いていて、黒い帽子がちらりと見える。

 いおりの心臓が凍りつく。
 相沢が叫びかける。
 神谷が低く言った。

「追うな」

「でも——!」

「追えば事故る。追わせるために盗んだ。——相沢さんの“帰る場所”を消したんだ」

 相沢の肩が震え、唇が白くなる。

「直人……ここまで……」

 神谷の目が冷たく光った。

「ここまでだ。だから終わらせる」

 そして、神谷は相沢に言った。

「場所を言ってください。今すぐ」

 相沢は一度だけ深く息を吸い、震える声で告げた。

「……港の近く。古い画材倉庫。そこにある。
 でも、入るには鍵が——」

 いおりの視線が、ふと神谷のポケットにいった。
 番号《3》の鍵。
 あれが“場所の鍵”だったとしたら。

 神谷が短く頷いた。

「繋がったな」

 いおりは唇を噛んだ。
 相手は最初から、ここへ誘導していた。
 絵を探せ、と命令しながら、絵の位置情報を少しずつ出し、こちらが掴む瞬間を待っていた。

 相沢が神谷を見つめる。

「神谷さん。直人は、あなたを憎んでる。でも本当は——」

「分かってます」

 神谷が遮った。
 冷たく、そして少しだけ痛そうに。

「本当は、俺に“妹のことを肯定してほしい”んだ」

 いおりは息を止めた。
 その理解は、鋭すぎた。

 神谷は立ち上がり、いおりを見る。

「森下さん。行くぞ」

「はい」

 喫茶店の外はまだ昼だった。
 救急車のサイレンが遠くで鳴っている。
 人が倒れ、車が盗まれ、脅迫が届く。
 全部が現実で、全部が日常の延長にある。

 そしていおりの胸に、冷たい確信が生まれていた。

 次に消えるのは、自分かもしれない。
 でも、消えたままでは終われない。

 冬の向日葵の“意味”に辿り着く前に、誰かが消える。

 神谷探偵事務所の事件は、もう引き返せない場所に来ていた。

第九章 告白

 港へ向かう道は、街の音が薄くなる。
 車の流れが変わり、空が広くなり、潮の匂いが混じってくる。
 昼の光はまだ残っているのに、倉庫街の影は早く伸びた。

 神谷恒一は無駄な会話をしなかった。
 森下いおりも、口を開くたびに自分の声が震えるのを嫌って黙っていた。
 代わりに、二人の間には“確認”だけがあった。

「鍵はあるな」

「はい。番号3の」

「使うのは俺がやる。君は周囲を見ろ」

「分かりました」

 タクシーを降りると、風が強かった。
 海から吹き上げる冷たい風が、頬の皮膚を乾かしていく。
 相沢真理が言った“古い画材倉庫”は、港の外れにあった。

 薄い鉄板の建物。
 壁には古い塗装の剥がれ。
 窓は少なく、シャッターは半分閉まっている。

 人の気配はない。
 それが安心ではなく、嫌な予感になった。

「……ここ、静かすぎます」

 いおりが言うと、神谷は頷くだけで前に出た。
 扉の前で立ち止まり、鍵穴を見る。

 そして、ほんの一瞬、目の動きが止まった。

「新しい」

「え?」

「鍵穴、最近交換されてる。——ここも、作られてる」

 その言葉で、いおりの喉がひゅっと縮んだ。
 倉庫街の罠と同じ。
 つまり、誘導されている。

 神谷が鍵を差し込む。
 回す。
 抵抗がなく、すんなり回る。

 扉が開き、冷えた空気が押し出された。
 中は暗い。
 だが、完全な暗闇ではない。奥に弱い灯りがある。

 いおりは一歩踏み出しそうになったが、神谷が手で制した。

「待て。床を見る」

 言われて足元を見ると、薄い粉のようなものが撒かれていた。
 白っぽい。
 しかし雪ではない。倉庫の中なのに、それが不自然に“新しい”。

「石膏……?」

「画材だ。踏んだ跡が残る」

 神谷の声は冷たかった。
 相手が撒いた“確認装置”。
 誰がどこを通ったかが分かる。

「つまり、ここに入った人間の足跡が全部、相手に残る」

「……じゃあ、入るのも」

「入る。残していい足跡を残す」

 神谷はそう言い切り、ゆっくり踏み出した。
 歩幅は一定。
 無駄な足跡を作らないように、最小限で進む。

 いおりも後ろについた。
 自分の靴底が粉を押す感触が怖い。
 “ここに来た”と証明してしまう感触。

 倉庫の中には、棚がいくつも並んでいた。
 古いキャンバス。
 額縁。
 乾ききった絵具のチューブ。
 使われなくなった筆。

 そして、奥の机の上に——木箱があった。

 梱包用の箱。
 側面に赤い矢印のシール。
 注意書き。
 運搬業者のラベルが貼られた跡。

 神谷が足を止める。

「箱だな」

 いおりは喉が鳴った。
 冬の向日葵。
 ここにあるのか。

 だが、神谷は箱に触れない。
 視線を机の周囲へ滑らせ、天井へ上げ、壁へ移す。

「音、聞け」

 いおりが息を止めると、確かに聞こえた。
 小さな、機械の動作音。
 カチ…カチ…という周期的な音。

「……時計?」

「録音だ。ここは会話を取られてる」

 神谷は口を閉じ、指で“喋るな”と示した。

 その直後、倉庫の奥のスピーカーから声が流れた。
 加工されていない、生身の声。

『ようこそ』

 低い声。疲れている。
 憎しみが滲んでいる。

 いおりの胃が沈む。
 さっき喫茶店で神谷が言い当てた通り——三宅直人の声だ。

『絵を探せって言っただろ』

 神谷は黙っている。
 沈黙は拒絶ではなく、相手に余計な情報を渡さない戦術だ。

『そこにある箱を開けろ。冬の向日葵が入ってる』

 いおりは神谷を見る。
 神谷は首を横に振った。
 開けない。

『開けないのか。さすが元警視庁だな。慎重だ』

 その呼び方に、いおりの背中が冷たくなった。
 相手は神谷の経歴を把握している。
 把握して、今の状況を設計している。

『でも、開けないと始まらない。……いや、もう始まってるか』

 スピーカーの向こうで、紙をめくる音がした。
 それは芝居じゃない。
 誰かが手元の資料を読んでいる音。現実の音だ。

『森下いおり。お前がいるのも知ってる』

 名前が呼ばれた瞬間、いおりの身体が固まる。
 神谷がいおりの肩に、軽く指を置いた。
 大丈夫、という意味じゃない。動くな、という合図。

『お前、よくやったな。自販機の前で止まった。走らなかった。偉いよ』

 褒め言葉みたいに言うのが、最悪だった。
 観察の結果を淡々と述べる声。
 生き物を見ている声。

『猫を見つけたのも、お前だっけ? 老人の話し相手にも行ったよな。……優しいな』

 神谷の目が一瞬だけ鋭くなる。
 いおりは気づく。相手は“善意”を利用する。
 優しさを弱点に変える。

『でも、優しいのは一番簡単に折れる』

 言葉が冷たく落ちた。

 神谷が初めて口を開いた。

「三宅直人」

 短く、確定させる呼び方。

 スピーカーの向こうで、笑い声が漏れた。

『そうだよ。覚えてたか。——覚えてるよな、俺を。あの時、お前は俺を見捨てた』

「見捨ててない。断っただけだ」

『同じだ!』

 声が少しだけ荒くなる。
 初めて、感情が表に出た。

『妹の最後の絵が消えたって言った。俺は頼んだ。金も払うって言った。どんな情報でも欲しかった。……それなのにお前は、俺に背を向けた』

 神谷は冷静に返す。

「お前は絵を“取り返す”と言った。相手が誰でも奪うと言った」

『だって妹の絵だ!』

 三宅の声は、怒鳴る寸前で押し止められていた。
 怒鳴れば負けだと分かっているような抑制。
 その抑制が、余計に歪んで聞こえる。

『妹が死んだんだぞ。残ったのは絵だけだ。絵がなきゃ、俺は——』

「妹が残したものは絵だけじゃない」

 神谷が低く言った。

『黙れ』

 三宅の声が冷えた。
 怒りが引っ込み、代わりに刃物のような静けさになる。

『……お前は、絵の意味を知ってるんだろ。知ってるから断ったんだろ。だったら今さら善人ぶるな』

 いおりは息を止めた。
 神谷が断ったのは、“奪う”が理由だと思っていた。
 だが三宅は、別の理由を知っていると言う。

(絵の意味……)

 その意味が、まだ見えない。
 だが、近づいている。

 神谷は机の木箱を見たまま、言った。

「これは本物じゃない」

 倉庫の空気が一瞬止まった。

『……は?』

「お前がここに置いたのは本物じゃない。梱包は上手いが、匂いが違う。木箱の内側が新しすぎる。運搬ラベルも貼り直し」

 神谷の指摘は、冷たい“検死”だった。
 死体を前にした刑事みたいな言い方。

 三宅が短く笑った。

『さすがだな。……でも正解だよ。本物はここにない』

「分かってる。だから聞く。目的は何だ」

 神谷の声は淡々としていた。

『目的? 簡単だ。お前に“探させる”。俺の代わりに、俺の妹を見つけさせる』

「妹は死んでる」

『死んでるからこそだ! 死んだ人間は話さない。だから絵が喋る。絵が言うんだよ。“兄ちゃん助けて”って!』

 その言葉に、いおりの胸が痛くなった。
 救いを求めている。
 しかし、その救いは自分のための救いだ。

 神谷が静かに言った。

「妹はそんなこと言わない」

 次の瞬間、三宅の声がひどく低くなった。

『お前が言うな』

 その一言に、殺意が混じった。
 叫びではない。
 温度がない。だからこそ怖い。

『……分かったよ。お前が知りたいのは“誰がやったか”だろ。全部俺だよ』

 いおりの指先が冷たくなる。
 ついに、言った。

『箱を送ったのも俺。帽子の男を動かしたのも俺。倉庫の罠も俺。事務所に入ったのも俺。喫茶店で車を盗ませたのも俺だ』

 神谷は眉一つ動かさない。
 だが、いおりには分かった。
 神谷は怒っている。
 怒りを“冷静”に押し込めている。

『数年前、お前に依頼して断られた時、俺は——終わったと思った。妹が死んで、絵が消えて、俺の中から何もなくなった。だから埋めるものが欲しかった。』

 三宅の声は疲れていた。
 憎しみより、空洞が喋っている。

『埋めるものは復讐だった。分かるか? 復讐は温かいんだ。人間を動かす。息をさせる。——俺は生きたかった』

 いおりは唇を噛んだ。
 この男は泣いていない。
 同情を誘う言い方でもない。
 ただ、自分の空洞を正当化している。

『お前は探偵だろ? 優秀なんだろ? なのに隠れてる。猫探しとか老人の相手とか、ふざけたことしてる。……逃げてるんだろ。お前も絵が怖いんだろ?』

 神谷は短く返した。

「怖いのはお前だ」

 沈黙。
 三宅の呼吸が一度だけ乱れた。

『……何が』

「妹がいなくなった現実。妹が自分の思い通りにならなかった現実。妹が“兄のために絵を描いた”わけじゃない現実」

 いおりは息を呑んだ。
 神谷はもう核心を踏みにじっている。

 三宅の声が震えた。
 怒りではない震え。

『黙れ……!』

「だから、お前は人を消すと言った。周りを消せば、自分の現実を壊せると思った」

『……黙れ!!』

 三宅が叫んだ。
 その叫びは、倉庫の中に反響しない。
 スピーカー越しの叫びは、薄っぺらくて、余計に痛々しい。

 神谷は机の木箱に目を落とし、静かに言った。

「冬の向日葵は、どこだ」

 三宅の呼吸が一瞬止まった。

『……知りたいか』

「知りたい。終わらせるために」

 三宅が低く笑った。
 その笑いは、泣き声みたいに聞こえた。

『終わらないよ。終わらせない。俺は——妹を取り戻す』

「取り戻せない」

『黙れ! 俺は、妹を——』

「妹は物じゃない」

 神谷の言葉は短く、硬かった。
 冷たい現実の刃で、相手の幻想を切っている。

 しばらく沈黙が続き、スピーカーの向こうで、紙を握り潰すような音がした。
 そして、三宅が言った。

『……分かった。場所を教える』

 いおりの背筋が固まる。
 次の瞬間に何かが起こると分かる。
 こういう時、相手は“条件”をつける。

『神谷。次は電話じゃない。直接会う。
 絵の意味を——お前の口で言え』

「……」

『逃げるな。今度逃げたら、本当に消す。
 今度は、森下いおりから』

 いおりの心臓が凍った。
 自分の名前が、脅迫の刃の中心に置かれる。

 神谷の声が、いつもより低くなる。

「会う場所を指定しろ」

『お前が指定しろよ』

 三宅が吐き捨てるように言った。
 それは挑戦だった。
 主導権をどちらが握るかの勝負。

 神谷は少しだけ目を細め、即答した。

「画廊だ。——“冬の向日葵”が最初に展示された場所。そこで会う」

 三宅の呼吸が止まった。
 一秒。二秒。
 それから、小さく笑った。

『……いいね。お前らしい。
 じゃあ来い。神谷。森下も連れてこい』

「森下は関係ない」

『関係ある。お前が守ると言った。守れ。
 守れないなら、お前が泣け』

 ぷつり。
 通話が切れた。

 倉庫の中に残ったのは、機械の停止音と、粉を踏んだ足跡だけだった。
 いおりは自分の呼吸がうるさいことに気づいて、口を押さえた。

「……所長」

 神谷は木箱を見たまま、静かに言った。

「終わる」

「……絵は、見つかるんですか」

「見つかる。相手は見つけさせる。俺に“意味を言わせる”ために」

 神谷が、初めていおりの方を見る。
 その目は冷たいのに、奥が痛そうだった。

「森下さん。ここから先は、感情が邪魔になる」

「……でも、私」

「怖いだろう」

 神谷は淡々と断定した。
 いおりは頷くしかない。

「怖い。でも、逃げない。逃げたら……誰かが消える」

 神谷は短く頷いた。

「なら、行く」

 倉庫の外へ出ると、風がさらに冷たかった。
 港の空は広く、薄い雲が流れている。
 世界は何も変わっていないのに、自分たちだけが“決戦”へ向かっている。

 冬の向日葵。
 消えた絵は、まだ見えない。
 でも、意味はもうすぐ触れられる距離にある。

 そして次に待つのは——画廊での対面。
 三宅直人が求める“答え”。
 神谷恒一が伝えなければならない“真実”。

 いおりは拳を握った。
 指先が冷たい。
 それでも、その冷たさが自分の意志を固めてくれた。

第十章 冬の向日葵の意味

 画廊の空気は、外の冷たさと違って乾いていた。
 暖房が効いているのに、壁に掛かった絵はどれも冷静な顔をしている。
 白い照明が作品を均一に照らし、影を薄くする。
 ここは感情を飾る場所じゃない。感情を“見せる”場所だ。

 神谷恒一は入口のドアを押し、いおりを先に通した。
 営業時間外。
 貸し切りのように静かな空間。
 受付カウンターの奥に、年配の男性が立っていた。

「神谷さんですね。お話は伺っています。……三宅さんは奥で」

 男性の声は、事情を全部知っている人間の声だった。
 見て見ぬふりをしないが、踏み込みもしない。
 画廊という場所の中立。

 いおりは、神谷の横顔を見た。
 いつも通りの顔。眠そうで、だるそうで、頼りない——はずの顔。
 なのに今日だけは、背中に芯が見えた。

 奥の展示室の扉を開けると、そこに三宅直人がいた。

 背は高くない。
 痩せている。
 しかし立ち姿が硬い。
 コートの襟を立て、手はポケットに入れたまま。
 目だけが燃えている。

「……来たな」

 三宅の声は、電話の時より生々しかった。
 加工も遠回しもない。
 現実の声。

「三宅直人」

 神谷は淡々と名前を呼んだ。
 それだけで、空気が刃物みたいに張った。

「森下いおりも連れてきたのか」

 三宅の目がいおりに刺さる。
 いおりは背筋を伸ばし、視線を逸らさなかった。
 怖い。
 でも、逸らしたら負ける気がした。

「森下は関係ない」

 神谷が言うと、三宅は笑った。
 笑ったのに、目は笑っていない。

「関係ある。お前が守るって言った。守れないなら、お前はまた逃げる」

「逃げない」

 神谷の即答は短かった。
 それが挑発ではなく、決定事項に聞こえた。

 三宅は奥の壁を顎で示した。

「ある。冬の向日葵」

 いおりの視線が動く。
 そこに、一枚の絵が掛かっていた。

 ——冬の向日葵。

 写真や複写じゃない。
 絵具の厚みがある。
 黄色の重なりが、光の角度でわずかに表情を変える。

 絵は、静かにそこにあった。
 叫ばない。
 押し付けない。
 ただ、冬の向日葵として、そこにある。

 いおりは喉の奥が熱くなるのを感じた。
 あんなに探して、脅されて、奪われて、壊されて、
 ようやく辿り着いたのが——この静けさ。

 三宅が低い声で言った。

「返してもらった。相沢真理からな」

 いおりの背中が冷えた。

「……相沢さんを」

「殺してない。まだな」

 三宅は平然と言った。
 それが現実すぎて、いおりは息が詰まった。

「でも、壊した。車も、生活も、逃げ道も。絵を返すしかないようにした。——俺は優しいだろ」

 その言い方に、いおりは初めて怒りが湧いた。
 優しさの顔をした暴力。
 それがどれだけ残酷か。

 神谷が一歩前に出た。

「見せたかったのは絵じゃないだろ」

 三宅の眉が動く。

「何が言いたい」

「絵を見せて、俺に言わせたい。妹の絵の“意味”を」

 三宅が口角を歪めた。

「そうだよ。言え。お前の口で言え。
 この絵が、妹が、俺に何を残したか——言えよ」

 いおりは神谷を見る。
 神谷は絵を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 沈黙は逃げじゃない。
 絵に触れている時間だった。

 そして神谷が、静かに言った。

「三宅。お前は間違ってる」

 三宅の目が鋭くなる。

「……何が」

「妹は、この絵で“助けて”なんて言ってない」

 三宅の喉が鳴った。
 怒鳴りたいのを抑えている。

「じゃあ何だよ。妹は何を言ってる」

 神谷は、一歩だけ絵に近づいた。
 触れない距離で、絵の中心を見て言う。

「“もう、私を抱えないで”だ」

 空気が止まった。

 三宅の顔から、一瞬だけ血の気が引く。
 それは否定じゃない。
 心臓に刺さった反応だった。

「……嘘だ」

 震えた声だった。

「嘘じゃない」

 神谷の声は冷たい。
 でも、その冷たさは残酷のためじゃない。
 真実のための冷たさだ。

「冬の向日葵は、夏の花だ。
 冬に咲かない。
 咲かない花を描いたのは、妹が“咲けなかったから”じゃない。
 妹が“冬でも咲く”って言いたかったからだ」

 いおりの胸がきゅっと締まる。
 “咲く”とは、生きること。
 自由であること。
 自分で選ぶこと。

「妹は、自分で選びたかった。
 治療も、場所も、最後の時間も、
 誰かの善意じゃなく、自分の意思で」

 三宅の唇が震えた。

「……俺は守っただけだ」

「守った。だが、妹の呼吸を奪った」

 神谷が淡々と言った。

 三宅の目が赤くなっていく。
 怒りで赤いのか、涙で赤いのか、判別できない。

「……そんなこと、俺が望んだわけじゃない」

「望んでない。だから苦しい」

 神谷は絵の端を見ながら言った。

「妹はお前を嫌ってない。
 嫌ってたら、この絵はこんな色にならない。
 妹は……お前を愛してた」

 三宅の肩が揺れた。

「……なら、なんで渡さない」

 絞り出す声。
 子どもみたいに、答えが欲しい声。

 神谷が言った。

「渡したら、お前はまた抱える。
 妹を抱えて、絵を抱えて、
 “俺が守ったんだ”って自分を抱える」

 三宅の喉が鳴る。

「……守ったのに、何が悪い」

「悪くない。
 でも、妹は“守られるだけの人間”で終わりたくなかった」

 神谷は、そこで初めて絵の中心を指で示した。
 触れない。
 ただ、示す。

「見ろ。向日葵の花弁が全部上を向いてない。
 沈んでる花弁がある。
 でも、茎は折れてない。
 折れそうなのに、立ってる」

 三宅は絵を見た。
 見て、呼吸が乱れた。

「……妹は、苦しかったのか」

 声が弱くなった。

「苦しかった。
 でも、お前を憎んで苦しかったんじゃない。
 お前に“分かってほしくて”苦しかった」

 三宅の目から、ようやく涙が落ちた。
 静かに。
 床に落ちる音もないくらい小さく。

「……じゃあ、俺は、どうすればよかった」

 いおりはその問いに胸が痛んだ。
 それは復讐者の言葉じゃない。
 兄の言葉だった。

 神谷が言う。

「選ばせるべきだった」

 三宅が嗚咽を噛み殺すように息を吸う。

「……俺は、妹のために生きてた」

「それが間違いだ」

 神谷は迷いなく言った。

「妹は、お前に“自分の人生を生きろ”って言ってる」

 三宅は首を振った。
 拒絶じゃない。
 理解が追いつかない揺れ。

「そんなの……できない……」

「できる」

 神谷は短く言い切った。
 その瞬間、神谷自身の目がわずかに濡れた。
 いおりは見てしまった。
 神谷が泣きそうになっている。

 でも、泣かない。
 崩れない。
 ただ、目の奥だけが痛む。

 三宅が膝をついた。
 床に手をつき、肩を震わせる。

「……俺は……何をしてたんだ……」

 その声は、弱い。
 復讐の刃が溶けて、ただの喪失が残っていた。

 いおりの目に涙が滲んだ。
 神谷の言葉が冷たく正しいからこそ、痛い。
 痛いのに、逃げられない。

 三宅が顔を上げる。
 涙でぐしゃぐしゃのまま、神谷を見る。

「……お前は、なんでそんなに分かる」

 神谷は答えなかった。
 答えると、自分の過去が露出するからだ。

 代わりに、神谷は言った。

「冬の向日葵は、お前を責めてない。
 ただ、離れていくだけだ。
 お前がそれを受け入れれば、絵は“遺品”じゃなくなる。
 妹の“最後の意志”になる」

 三宅が泣きながら笑った。
 ひどく壊れた笑い。

「……最後の意志……」

 神谷は頷いた。

「だから、返して終わりじゃない。
 伝えて終わりだ。
 お前が聞くべき真実は、ここにある」

 三宅は絵を見上げた。
 そして、声を絞り出した。

「……美咲……ごめん」

 いおりの涙がこぼれた。
 音もなく頬を落ちた。
 それは同情ではなく、痛みの共有だった。

 神谷がいおりを見た。
 一瞬だけ、厳しい目になる。

「……泣くな」

 いおりは唇を噛んだ。
 でも涙は止まらない。

 三宅は床に座り込み、肩を震わせたまま、ポケットからスマホを取り出した。
 震える指で、何かを打つ。
 おそらく——自分が仕掛けたものを止める指。

「……帽子の男、引かせる……もう、いい……」

 神谷は一度だけ頷いた。
 勝った、という顔ではない。
 終わった、という顔でもない。

 ただ、重いものを受け取った顔だった。

 いおりは絵を見つめた。
 冬の向日葵は、相変わらず静かだった。
 誰も救わない顔で、でも確かに“生きろ”と言っていた。

エピローグ 冬に咲く

 それから三週間が過ぎた。

 雪はもう降らない。けれど、風の冷たさだけが冬の名残を引きずっていて、街はまだ春の顔を見せない。
 神谷探偵事務所のドアには、いつものように小さなプレートが掛かっている。

 ——神谷探偵事務所。

 依頼内容は相変わらずだ。
 猫の捜索。老人の話し相手。補聴器の捜索。忘れ物の聞き込み。
 世界は何事もなかったように、日常に戻っていた。

 ただ、森下いおりの中だけが変わってしまった。

 あの画廊の白い壁。
 冬の向日葵。
 膝をついた三宅直人の背中。
 そして神谷恒一の、濡れた目。

 泣いたのは自分だ。
 泣いてはいけないのに、止められなかった。
 涙は弱さではなく、理解の証みたいにこぼれてしまった。

 その日のことを思い出すたび、いおりは息の仕方を忘れそうになる。

 ——けれど、終わりは悲鳴ではなかった。
 終わりは、静かな手続きだった。

 冬の向日葵は、三宅直人の手を離れた。

 彼は最初、絵を抱えた。
 抱えたまま、立てなかった。
 何かを失った人間が、何かを取り戻した瞬間に現れる“空白”を、彼は顔に浮かべていた。

 だが最後に、彼は絵を壁に戻し、こう言った。

「……この絵は、俺の家に置けない」

 それは敗北の言葉じゃない。
 初めて、妹の意思を尊重した言葉だった。

 絵は、寄贈されることになった。

 三宅美咲の名で。
 冬の向日葵は、個人の所有物ではなく、誰の目にも触れる場所へ移された。
 鍵のかかった箱ではなく、光の中へ。

 神谷はそれを“妥当”と言った。
 相沢真理は、それを聞いて黙って泣いた。
 三宅直人は、泣かなかった。泣けない顔をしていた。
 その代わり、何度も何度も頭を下げた。

 誰に対してかは、分からない。
 妹にかもしれないし、過去の自分にかもしれない。

 寄贈から数日後。
 いおりは神谷と一緒に、美術館へ行った。

 休日の昼間で、人は多くない。
 館内は暖かく、床は静かで、足音が柔らかく吸い込まれていく。
 ロビーの空気には、乾いた紙と木と絵具の匂いが混じっていた。

 展示室の奥。
 案内板には、小さな文字で書かれていた。

《三宅美咲 冬の向日葵》

 その横に、短い説明文。

《寄贈:三宅直人》

 いおりはその文字を見ただけで喉が詰まった。
 あの人は、最後に“手放す”ことを選んだのだ。
 抱えるのではなく、置くことを選んだ。

 冬の向日葵は、白い壁に静かに掛かっていた。

 照明は強すぎず、影は薄い。
 絵は声を出さない。
 けれど、そこにあるだけで、確かに空気を変えていた。

 向日葵の黄色は、夏の黄色ではない。
 冷えた黄色。
 それでも沈みきらない黄色。

 花弁の一部は下を向き、背景は灰色に近い。
 冬の空気が絵の中にある。
 なのに——茎は折れていない。

 立っている。
 今にも折れそうなのに、立っている。

 いおりは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
 涙はもう出ない。
 代わりに、呼吸が深くなる。

「……咲いてる」

 思わず漏れた言葉だった。

 神谷が隣で、ほんの少しだけ口角を上げた。
 笑ったのかどうか分からない程度の、小さな変化。

「冬に咲く花は、強い」

 その声は相変わらず淡々としている。
 だけど、その淡々さは冷たさではなく、揺れない土台みたいだった。

 いおりは絵から目を離せなかった。
 誰かの復讐の中心だった絵が、今は誰のものでもない。
 誰でも見られる。
 誰かの痛みを、誰かが受け止められる場所にいる。

 それは“終わり”ではなく、“始まり”に近い形だった。

 展示室を出て、館内のベンチで少し休んだ。
 窓の外には冬の空。
 冷たい光。
 それでも、ほんのわずかに色が柔らかく見えた。

 いおりは、意を決して言った。

「所長。……泣いてしまいました」

 神谷は返事をしない。
 ただ、少しだけ目を伏せた。

「探偵は、泣いちゃいけないんですよね」

 いおりが続けると、神谷はようやく口を開いた。

「三つ、覚えとけ」

 いおりは背筋を正す。
 この声は、事務所で聞いたものよりも少しだけ重い。

「探偵はいかなる時に泣いてはいけない」

 神谷は淡々と言う。
 いおりは小さく頷いた。

「同情してはいけない」

 胸が少し痛む。
 でも、理解できる。
 同情は人を救う顔をして、真実を曇らせることがある。

「真実を伝えなければいけない」

 神谷はそこで一拍置き、いおりを見た。

 その目は、冷たいのに、ちゃんと人を見ていた。
 突き放す目じゃない。
 支えるために、崩れない目。

「泣いたなら、次は泣くな。
 泣きたくなる真実から逃げるな」

 いおりは息を吸った。
 胸の奥に、向日葵の黄色が残っている気がした。

「……はい」

 返事は短かった。
 でも、揺れなかった。

 神谷は立ち上がり、出口へ歩き出す。
 いおりも並んで歩いた。

 振り返ると、展示室の奥に白い壁が見えた。
 冬の向日葵はもう見えない。
 けれど、確かにそこにある。

 誰にも奪われず、誰にも抱えられず、
 冬の中で静かに咲くように。

 それは、消えた絵が“見つかった”結末ではなく、
 消えたはずの人の意志が、ちゃんと“残った”結末だった。

 そしていおりは思う。

 探偵は泣いてはいけない。
 同情してはいけない。
 真実を伝えなければいけない。

 ——でも、冬の向日葵が咲いたことだけは、
 きっと、忘れてはいけない。

タイトルとURLをコピーしました