それでも私は、進むことを諦めない。

前書き

お話は雨宮萌奈が「線維筋痛症」と医師に診断されるところから物語は始まります。

「線維筋痛症?」初めて耳にする方も少なからずいらっしゃると思います。私もそうでした。YouTubeで初めて線維筋痛症を知り、その認知度が少ない事に驚いたものです。

この物語を作成するにあたり、以下の書籍を読み事前の知識を知ることにしたのです。

・線維筋痛症がよくわかる本 全身を激しい痛みが襲う      岡 寛さん監修
・線維筋痛症とたたかう未知の病に挑む医師と患者のメッセージ 西岡 久寿樹さん著
・run~病とわたしの全力邁進物語~             新藤 朱華さん著

run~病とわたしの全力邁進物語~は実際、線維筋痛症を患っている新藤 朱華さんの実体験を盛り込んだ物語となっています。

私の物語が実は線維筋痛症と闘病している人に失礼ではないか。そんな事を思っていました。でも、この病気をひとりでも知ってほしい。その思いから文字に起こすことにしました。新藤さんの物語に比べられる物ではありませんが、知っていただく機会になることを願っています。

瀞音×ChatGPTが書き起こした応援物語

瀞音

プロローグ

私の前にあるエレベーターのドアが開いた。
病院特有の、消毒液と布の匂いが混ざった空気が喉の奥に貼りつく。正直、気分はダダ下がりだ。

窓の外には、桜の枝。蕾がふくらみ始めている。開花には、もう少しかかりそう。
――私の身体も、季節と一緒に簡単に変われたらいいのに。

どれだけ病院を回っただろう。
思い出そうとしただけで、沈んだ気分がさらに底へ落ちる。

診察室前で車椅子が止まった。
押してくれている母の顔は見えない。でも、落ち着かない空気が背中越しに伝わってくる。

「雨宮さん。2番室へお入りください」

無機質な声。母が車椅子を押す。
緊張で私の頬がこわばるのが分かる。
――何回、この感じを味わっただろう。

引き戸を開けると、女医が書類に目を落としたまま座っていた。髪は後ろで束ねられ、表情は疲れて見える。それでも、目だけはちゃんとこっちを見た。

「雨宮さん。検査結果ですが……特に異常は見つかりませんでした」

やっぱり。
私の中で、ほんの少し開いていたドアが、静かに閉まる音がした。

後ろで母が、息を吐く。
異常がない。その言葉が、私たちを何回奈落へ突き落としただろう。

朝起きると、身体中に痛みが走る。
激痛の日もある。終わる気配のない鈍痛の日もある。刺すような痛み、焼けるような痛み、触れられるだけで痛いみたいな日も。
それが、24時間。365日。私を苦しめる。

「これからお話しすることは……」

医師は言葉を選びながら、慎重に続けた。

「問診と検査では異常は認められませんでした。ですが――」

一瞬の間。
その沈黙が、怖い。

「お嬢さんは、線維筋痛症の可能性が高いです」

目から、静かに涙があふれてきた。
やっとだ。やっと、私を苦しめるものに名前がついた。

母が、私の代わりに訊く。
「娘は……治るのでしょうか」

「残念ながら、原因がはっきりせず、難しい病気です。薬物療法、心理的な支援、無理のない運動療法などで改善を目指しますが、完治する方法はまだ確立していません」

今度は母が泣いていた。
私たち親娘は、深く暗い道を――それでも、進み始めた。

第1章 笑わない私と、笑いすぎる君

私は愛想笑いをするのが嫌いだ。
「感じよくしておけば丸く収まるよ」みたいな空気が、昔から苦手だった。

たぶんそれは、私が“丸く収まらない体”を持っているからだ。

雨宮萌奈、高校2年。
線維筋痛症――検査をしても異常は出にくいのに、痛みだけが確かにある病気。朝起きた瞬間から全身が痛かったり、刺すような痛みが肩から腕に走ったり、皮膚の上に熱い針をばらまかれたみたいにうずいたりする。
痛みの種類が日替わりで、しかも終わる時間が決まっていない。だから私は「今日は大丈夫?」と聞かれるたびに、心の中でため息をつく。私だって知りたい。大丈夫かどうか。

学校の廊下は、まぶしい。
春の光と白い壁と、制服の生地の擦れる音。視界に飛び込む情報が多すぎると、頭の奥がもやもやして、思考が霧に包まれる。黒板の文字が一瞬読めなくなることもある。集中しようとするほど、痛みが強調されていく感じがして、私は余計に無表情になる。

入学式のときもそうだった。
私は車椅子に座ったまま、校門の前で担任の先生に会釈した。母は横で丁寧に頭を下げて、先生は丁寧に頷いて――その光景の全部が、私を「特別」にする。

「ほら、萌奈。きちんとご挨拶しなさい」

母の声は優しい。でもその優しさの裏に、いつも少しの焦りが混ざる。娘が普通の高校生活を送れないかもしれない怖さ。私も、同じ怖さを持っているから分かる。

私は適当に頭を下げて、車椅子の前輪をくるりと回した。
そのとき、視界の端にもう一組の親子がいた。
母親が何度も先生に頭を下げている。隣の男子は顔色が白く、制服が少し余って見えるくらいに細い。なのに――へらへら笑っていた。

「和馬をよろしくお願いします」

母親が必死そうに言うのに、その男子はずっと笑っている。
私は、無性に腹が立った。
理由は分かっている。私が笑えないからだ。笑う余裕を奪われてきたから、笑っている人を見たくない。そんな自分が最低だって分かってる。でも止められない。

「こんにちは。雨宮さん、だよね?」

男子が、私に向かって笑顔で言った。
私は愛想笑いはしない。けど無視するほど子どもでもない。軽く頭を下げただけで通り過ぎた。
それが、私と結城和馬の最初だった。

——そして数日後。
昼休みの教室で、私は“空っぽ”を待っていた。

人がいると、視線が増える。
「かわいそう」「手伝うべき?」「どう接する?」が混ざった視線。
優しさのつもりでも、私はそれを毎日浴びると呼吸が浅くなる。

だから昼休みは、なるべく静かな場所で過ごす。
痛みが強い日は、椅子に座っているだけで背中が熱を持つし、車椅子の座面の小さな段差さえ刺さるみたいに感じる。誰にも見られずに、そっと水を飲んで、そっと息を整える。それだけで精一杯だ。

教室の時計がカチカチ鳴る。
誰かの笑い声が遠ざかっていく。
やっと、教室がほとんど無人になった。

……と思った瞬間。

がらり、と後ろのドアが開いた。

入ってきたのは結城和馬だった。
また、へらっと笑う。

「……あ。雨宮さん、ここにいたんだ」

その笑顔が、また私の神経を逆撫でする。

「何」
声が冷たくなる。自分でも分かる。でも直せない。

和馬は気にした様子もなく、窓際の席を引いて座った。私と向き合う位置。距離が近い。逃げたいのに、車椅子は逃げ足が遅い。

「外、人多くてさ。ちょっと……息、しづらくなる時あるじゃん」

そう言って、胸のあたりを軽く押さえた。
ほんの一瞬、笑顔が消える。

私は、その“素”の顔を見てしまった。
へらへらの仮面の下の、苦い表情。

「……大丈夫?」
気づいたら、口から出ていた。私が一番言われたくない言葉なのに。

和馬は目を丸くして、それから少しだけ弱く笑った。

「大丈夫。座ってれば平気」

沈黙。時計の音だけが大きい。
私は窓の外に視線を逃がした。桜の枝。まだ蕾のまま。

「雨宮さんってさ、笑わないよね」
和馬が言う。

「悪い?」
棘が出る。

「悪くない。むしろ、すごい」
和馬は自分の頬を指で押し上げた。
「俺、笑ってないと周りが不安になるっていうか……空気が変になるの、怖くてさ」

その言い方が、ずるい。
私が嫌っていた愛想笑いが、ただの軽さじゃないかもしれないって思わされる。

「勝手にすれば」
私は吐き捨てるみたいに言った。

「うん、勝手にしてる」
和馬はさらっと受け流して、次の地雷を踏む。

「体育祭、どうするの?」

胸がきゅっと縮む。
“みんなで走って、笑って、団結する”イベント。私はその輪の外側に立つしかない。

「……出ない」
言い切る。言い切ったはずなのに、心の奥がざらっと崩れた。

和馬は小さく頷いた。

「そっか。俺も、出られない」

「……は?」

「運動、禁止なんだ。心臓の都合で」
軽い声。だけど、軽くない。

私は和馬の胸元に視線が吸い寄せられた。さっき押さえた場所。
それだけで、勝手に想像してしまう。痛み、息苦しさ、怖さ。病名を聞いた日の絶望。

「病名……なに」
踏み込みすぎた、と一瞬思った。でも引っ込められない。

和馬は一度だけ息を吸って、それから逃げずに言った。

「大動脈弁狭窄症。手術が必要になるって言われてる」

言葉が、私の中に落ちた。
病名がついた日の私が、目の前に立ったみたいだった。
“異常なし”を繰り返されて、やっと辿り着いた名前。嬉しかったのに、同時に救いがない現実に泣いた日。

「……怖くないの?」
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。

和馬は笑った。いつものへらへらじゃなくて、諦めと意地が混ざった笑い。

「怖いよ。めちゃくちゃ」
それから、肩をすくめて言う。
「でも、怖いって顔するとさ。母さんがもっと怖がるんだよね」

その一言で、私は胸がちくりとした。
私も、母の前ではなるべく平気なふりをする。痛いって言うと母の顔が曇るから。曇る顔を見ると、痛みが倍増する気がするから。

誰もいない教室。
運動ができない二人。
その共通点が、少しだけ世界を静かにした。

和馬が、急にぱっと明るい声に戻した。

「ねえ、雨宮さん。体育祭出られない同盟、組まない?」

「……は?」

「いや、なんかさ。出られないなら出られないで、居場所作ったほうがよくない?」
和馬は机の上を指でトントン叩く。
「放送係とか、得点係とか、応援の台本作るとか。走らなくてもできること、あるじゃん」

私は言葉に詰まった。
同盟。ばかみたい。子どもみたい。
でも――ばかみたいな言葉のほうが、私の固い心に入り込んできた。

「……勝手にすればいい」
私は視線をそらして言った。
それは拒否にも肯定にも聞こえる、ずるい返事。

和馬は嬉しそうに笑った。

「じゃ、成立。雨宮さん、今日から同盟員ね」

「……私、そんなの入った覚えないから」

「いいじゃん。同盟ってそういうもん」
和馬は立ち上がって、最後にさらっと言った。
「同盟ならさ、名前で呼び合ったほうがそれっぽくない?」

私は反射で睨んだ。
「無理」

「即答だ!」
和馬は可笑しそうに笑って、でも少しだけ真面目に付け足す。
「じゃあ、いつか。気が向いたらでいい」

その言い方が、なぜだか胸に残った。
押しつけじゃない。逃げ道がある。
それは、私がずっと欲しかった距離感だったのかもしれない。

教室の外から、昼休み終わりを告げるチャイムが鳴った。
和馬はドアの前で振り返り、いつものへらへらを少しだけ薄めて言う。

「雨宮さん。……また、ここで作戦会議しよ」

私は返事をしなかった。
でも、窓の外の桜の枝を見て、ほんの少しだけ思った。

まだ咲いていない。
それでも蕾は、確かに膨らんでいる。

——この春。
私は、進むことをまた一つ試される。
それが怖いのに、なぜか少しだけ、悪くないと思ってしまった。

第2章 名前を呼んだ、その瞬間

同盟が成立した翌日から、私の昼休みは少しだけ変わった。

変わった、と言っても大したことじゃない。
教室が空になるのを待って、窓際で呼吸を整えて、痛みの波が来ないことを祈る。そこまでは同じ。

ただ一つ違うのは――その“空っぽ”が、もう私だけのものじゃなくなった。

がらり、と後ろのドアが開く音。
振り向かなくても分かる。

「今日もここ、空いてる?」

結城和馬。
相変わらず、へらっと笑っている。昨日の“同盟員”宣言が、冗談なのか本気なのか分からないまま、彼は当たり前みたいに前の席を引いて座った。

「……勝手に」
私は窓の外を見たまま言った。

「うん、勝手にする」
和馬は、その返事を許可だと解釈してしまう天才だ。

机の上に、プリントが二枚置かれた。体育祭の係決めの紙。
“参加できない側”と“参加してはいけない側”が、同じ紙を見てるのがちょっと可笑しい。

「放送係、どう?」
和馬が言う。「走らなくていいし、座ってられるし。雨宮さん、声は出る?」

……その言葉に、胸がきゅっとした。
声は出る。出るけど、出せない日がある。

線維筋痛症の痛みは、身体のどこか一部だけじゃなく、全身に散らばっている。痛みが強い日は、呼吸するたびに胸が擦れて、喉の奥まで熱っぽくなる。そうなると、声を出すだけで疲れる。
疲れると痛みが増す。増すと眠れない。眠れないと次の日が終わる。
終わる、というのは比喩じゃない。私の一日が、最初から「無理」で埋まる。

「……日による」
私はそう答えた。

和馬は、少しだけ笑顔を薄めてうなずいた。
「そっか。じゃ、台本は俺が多めに読む。雨宮さんは、タイミングとか、音楽とか……できそうな方で」

その言い方が、ずるい。
“できない”を責めない。
“できる範囲”を最初から作ってくる。

私はペンを握った。
指先が少し痛む。鉛筆の角度ひとつで、皮膚がひりつく日がある。今日は――まだまし。たぶん。

「……私、得点係の方がいい」
口から出たのは、予想外の言葉だった。

和馬が目を丸くする。
「お、攻めるじゃん」

攻める、って言い方が気に入らない。けど、少しだけ笑いそうになってしまって悔しい。

「数字つけるだけなら……できるから」
私は言い訳みたいに付け足した。

「いいね。じゃ、同盟は“得点係&放送補助”で行こう」
和馬が拳を軽く握る。テンションだけは健康そのものだ。

……でも。
私は昨日、彼が胸を押さえた顔を見てしまっている。
笑顔の下に隠している“弱さ”を。

「和馬、て」
言いかけて、私は止まった。

――今、私は。
口に出そうとした。
名前を、呼びそうになった。

和馬が首をかしげる。
「ん? なに?」

心臓が跳ねた。
いや、私の心臓じゃない。頭の中が跳ねた、みたいな感じ。

「……結城、って」
結局、苗字に戻してしまう。
「……無理、するなよ」

和馬は一瞬きょとんとして、それから、へらっと笑った。
「え、心配してくれるの? 雨宮さん優しいじゃん」

「優しくなんかないから」
私は即答した。
「同盟が倒れたら困るから」

「それ、優しいって言うんだよ」
和馬は勝手に結論を出して、プリントに丸をつけた。

その時だった。

ふっ、と教室の空気が変わったのが分かった。
和馬の笑い声が、途中で途切れた。

「……っ」
小さく息を吸う音。
椅子がきい、と鳴って、和馬の身体がほんの少し前に揺れる。

私は反射で、彼の手元を見た。
指先が机を探るみたいに滑って、掴めない。

次の瞬間、和馬の顔から血の気が引いた。

「え……?」
言葉が遅れる。
脳が状況を理解する前に、身体だけが動いた。

私は車椅子のブレーキを解除して、半回転。
近づく距離はほんの数十センチなのに、それが妙に遠い。
タイヤを回す腕に力を入れると、肩の奥がピキッと痛む。痛い。でも今は後回し。

「結城!」
声が出た。

和馬の身体が、椅子から滑り落ちそうになる。
私は机の角に車椅子をぶつけて止め、伸ばせるだけ腕を伸ばした。
触れたのは、和馬の制服の袖。細い。布越しに骨の感触が分かるくらい。

「ちょ、待っ……」
和馬が何か言おうとしたけど、言葉が形にならない。
喉が詰まったみたいに、息だけが漏れる。

私は力を込めて、彼の身体を椅子に押し戻そうとした。
でも、私の腕も強くない。車椅子生活で筋力が落ちているのを、こういう時に思い知らされる。
それでも、離したくない。

――お願い。
倒れないで。

その祈りが形になる前に、私は叫んでいた。

「和馬!」

……あ。
呼んでしまった。

名前が教室に落ちる。
誰もいないはずの空間が、その一言で急に現実になる。

和馬の目が、うっすら開いた。
私を見て、焦点を合わせようとしている。

「……雨宮、さん……」
かすれた声。
笑顔じゃない。
初めて見る、“そのまま”の顔。

私は喉が震えた。
痛みじゃない。怖さだ。

「保健室、行く?。今すぐ」
私はそう言って、教室のドアの方を見た。誰かを呼ばないと。先生を――

「待って」
和馬が、私の袖を掴んだ。指先に、少しだけ力が戻っている。

「……大丈夫。ちょっと、立ちくらみ、みたいなやつ」
息を整えるみたいに言う。
でも分かる。誤魔化してる。いつもの癖で。

「大丈夫じゃない顔してるから」
私は言い返した。

和馬は、困ったみたいに眉を下げて、やっと小さく笑った。
へらへらじゃない、弱い笑い。

「……ごめん。驚かせた」
それから、ほんの少しだけ真面目な声で言う。
「さっきさ、俺の名前……呼んだよね」

心臓がまた跳ねる。
否定したい。でも、できない。私は確かに呼んだ。

「……呼んだ。悪い?」
私はぶっきらぼうに言った。誤魔化しのために。

和馬は、目を細めた。
「悪くない。なんか、嬉しい」

「意味わかんないから」
私は顔を背けた。
頬が熱い。痛みじゃなくて、別の熱。

沈黙が落ちる。
窓の外で、風が桜の枝を揺らした。

「ねえ」
和馬が言う。
「同盟なんだからさ……雨宮さんも、名前で呼んでいい?」

私は反射で「無理」と言いそうになった。
でもさっき、私は彼の名前を呼んだ。
必死で、咄嗟で、選ぶ余裕なんてなくて――だからこそ、嘘じゃない。

喉の奥が、少しだけきゅっとなる。
痛みの前兆じゃない。
怖いのに、前に進みたい気持ち。

「……呼ぶなら、勝手にすれば」
結局また、ずるい返事。

和馬は、今度は本当に嬉しそうに笑った。
そして、静かに、でもはっきり言った。

「萌奈」

その二文字が、胸に落ちた。
名前って、こんなに音がするんだ。
私は思わず息を吸って、痛みが肩に刺さるのを感じた。なのに、その痛みが一瞬だけ遠のいた気がした。

私も――呼ばないといけない。
同盟なら。
“対等”でいるなら。

私は目を閉じて、短く息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ声を震わせながら言った。

「……和馬。無理、しないで」

和馬は、笑った。
へらへらじゃない。
ちゃんと、私に向けた笑顔で。

「うん。萌奈がそう言うなら、無理しない」

……ずるい。
それ、私の心臓に悪い。

チャイムが鳴って、遠くの廊下が急に賑やかになる。
誰かが教室に戻ってくる足音が近づいてきた。

私は、和馬の顔をもう一度見た。
倒れかけた時の青白さが、少しだけ戻っている。
でも、戻ったのは色だけじゃない。

私たちの関係も、たぶん。
ほんの数センチ、前に進んだ。

第3章 霧の中で、君の声だけが聞こえた

「和馬、ほんとに保健室行ったほうが・・・」

昼休み、倒れかけた和馬に私はそう言い続けた。
けれど本人は「平気平気」と笑って、結局その日は授業に戻った。へらへらじゃない、薄い笑い。気合いで貼り付けたみたいな笑い。

私はそれが気に入らない。
気に入らないのに、和馬が笑うたびに、胸の奥がざわざわして落ち着かなくなる。

そしてそのざわざわは、次の授業で別の形になって返ってきた。

五時間目。国語。
窓からの光が、今日はやけに白い。
まぶしい。眩しさが痛い。目の奥がじんじんして、頭の中が熱を持つ。

嫌な予感がした。

線維筋痛症の痛みは、いつも同じ場所に同じ強さでいるわけじゃない。
波みたいに来る。
さっきまで我慢できていた痛みが、何の前触れもなく盛り上がって、身体の内側から押し返してくることがある。

「……っ」

私は息を吸うのに失敗したみたいに、喉が引っかかった。
背中。肩甲骨の下。誰かが熱い針をぐいぐい押し込んでくる。
それが腕へ、首へ、こめかみへ――広がる。

教科書を開く指が、震える。
ページをめくるだけで、皮膚が痛い。
制服の襟が首に触れるのも嫌だ。髪が頬に当たるだけで、そこから痛みが増幅するみたいに感じる。

「雨宮、ここ読める?」
先生が当ててくる。いつも通りの声。悪意はない。

……読める。はず。
文字は見えてる。視界に入ってる。
なのに、頭が追いつかない。

ブレインフォグ。
霧。霧が降りたみたいに、言葉と意味が結びつかなくなる。
目で追っているのに、文章が音にならない。
“読む”という行為だけが、急に別の生き物みたいに難しくなる。

私の喉が乾く。
教室が急に広く感じる。
誰かの視線が刺さる気がする。

「……雨宮?」
先生の声が少しだけ強くなる。

私は、口を開こうとして――開けなかった。
痛みのせいで息が浅い。呼吸が浅いと声が出ない。
声が出ないと、余計に焦る。焦ると、もっと霧が濃くなる。

まずい。
崩れる。

私は視線を落とし、教科書の行を指でなぞった。
でも指先の感覚がぼやけて、どこを読んでいたかも分からなくなる。

“怠けてる”と思われる。
“やる気ない”と思われる。
“演技”って言われる。
昔から何度も、そういう目で見られてきた。

私は、愛想笑いをしない。
だから余計に、“感じ悪い”でまとめられる。

こめかみが脈打つ。
視界の端が揺れる。
声が出ない。息が苦しい。

その時――隣の方から、椅子が小さく鳴る音がした。

「先生、雨宮……萌奈、ちょっと具合悪いみたいです」

和馬の声だった。
はっきり、名前が聞こえた。
私の名前を、教室の真ん中で。

瞬間、教室の空気が変わった。
“雨宮さん”じゃない。“萌奈”。
距離が一気に近くなる呼び方。クラスメイトの視線が、一斉にこちらへ集まる。

私は恥ずかしさより先に、怖さが来た。
見ないで。
お願い、今の私を見ないで。

でも和馬の声が続く。

「さっきから、呼吸浅いし……手、震えてる。保健室、連れてっていいですか」

先生が少し驚いた顔をして、すぐにうなずいた。
「……ああ、そうか。雨宮、無理しなくていい。結城、頼めるか?」

「はい」

和馬が立ち上がり、私の車椅子のブレーキに指をかけた。
触られると痛い日もあるのに、今日は――不思議と、それよりも“助かる”が勝った。

「萌奈、息。吸って、吐いて」
和馬は小声で言った。
「俺のペースでいい」

私は頷こうとして、うまく動けない。首の筋が痛い。
でも、和馬の声は霧の中でも届いた。

息を吸う。
吐く。
吸う。
吐く。

呼吸を数えるだけで、少しだけ世界が戻る。

廊下に出ると、教室のざわめきが背中に遠ざかっていく。
私はようやく、人に見られている感覚から解放されて、肩の力が抜けた――その瞬間、身体の痛みが一気に前面に出た。

「っ……いた……」

声が漏れた。
自分の声が弱くて、惨めで、泣きたくなる。

「大丈夫。ここ、段差あるから、ゆっくり行く」
和馬は私の反応を“普通”に扱ってくれた。
大げさに心配しない。焦らない。見世物にしない。
それだけで、私は救われる。

保健室の前。
和馬がノックして、保健の先生が顔を出した。

「雨宮さん? どうしたの」

私は答えられなかった。
痛みが言葉を削っていく。
頭の霧が、まだ残っている。

和馬が代わりに説明する。
「授業中に急に痛みが来たみたいで。呼吸も浅くて、読めなくなって……」

“読めなくなって”。
その言い方が、胸に刺さった。
私は「できない」が嫌いだ。
できないと、自分が削れていくみたいで怖い。

ベッドに横になると、天井が白い。
白すぎて、目が痛い。
まぶしいのも刺激になるなんて、ほんとに面倒な身体。

「萌奈、飲み物いる?」
和馬が聞く。
私は首を振った。うまく振れなかったけど、たぶん伝わった。

保健の先生がカーテンを引いて、静かに言った。
「少し休んだら落ち着くと思うよ。結城くん、ありがとう。授業戻っていいよ」

「……俺、もう少しいてもいいですか」
和馬が言った。

先生は一瞬迷って、それから「じゃあ、カーテンの外で」と小さく笑った。

和馬の足音が、すぐ近くで止まる。
私はカーテン越しに、彼の気配を感じた。

「……ごめん」
私は小さく言った。
迷惑をかけたくない。
同盟だからって、全部頼っていいわけじゃない。そう思う。

「なにが?」
和馬が返す。
声が優しい。優しいのに、同情じゃない。

「授業、止めてしまった」
私の喉がきゅっとなる。
また、クラスの空気を止めた。私はいつもそうだ。

和馬は少し黙ってから、当たり前みたいに言った。
「止めたんじゃなくて、助けただけ」

私は返事ができなかった。

助けられるのが、怖い。
助けられると、自分が弱いって認めることになる。
でも、助けられないと、私は崩れる。

線維筋痛症の痛みは、目に見えない。
だからこそ、私はいつも“説明”しないといけない。
説明しても信じてもらえないことも多い。
その繰り返しで、私は笑わなくなった。

「萌奈」
和馬が、もう一度名前を呼ぶ。

「……ん」
私はやっと返事をした。声がかすれる。

「昨日さ、倒れかけたの、俺だったじゃん」
和馬がぽつりと言う。
「今日は、萌奈だった。……それだけ」

それだけ。
たったそれだけの言葉が、私の中の固い部分を少しだけ柔らかくした。

「……和馬」
私も名前を呼んだ。
呼ぶだけで、痛みが消えるわけじゃない。霧が晴れるわけでもない。

でも、不思議と。
世界が“自分一人じゃない”方へ傾く。

「次の授業、どうする?」
和馬が聞く。

私は息を吸って、吐いて。
胸の奥の痛みの波が、少しだけ引いていくのを待った。

「……もう少し休んで、それから戻る」
私は言った。
“逃げる”じゃなくて、“整えて戻る”。そう言える自分に、少し驚いた。

和馬が笑った。へらへらじゃない、静かな笑い。

「うん。じゃ、次の作戦会議、放課後ね。同盟員」

同盟員。
その言葉が、今日はちゃんと温かかった。

私は天井の白を見つめながら、思った。

痛みがある。霧が来る。
それでも、私は。
ほんの少しでも、自分のペースで前に進めるかもしれない。

カーテンの外で、和馬の靴先が小さく揺れた。
彼もまた、どこか痛みを抱えている。
なのにここにいてくれる。

——私は初めて、愛想笑いじゃない笑いを、喉の奥で小さく転がした。

第4章 走れない私たちの、居場所の作り方

体育祭が近づくと、学校の空気が変わった。
廊下の掲示板に色紙が貼られ、放課後の校庭からは笛の音が聞こえる。クラスの会話の半分が「誰がリレー出る?」とか「応援どうする?」とか、そんな話題で埋まっていく。

私はその輪の外側にいた。
最初から、そういうものだと分かっていた。なのに、分かっているはずなのに――胸の奥がちくちくする。

「雨宮さんは、えっと……どうする? 見学?」
体育委員の男子が、遠慮がちに訊いてくる。

“見学”。
便利な言葉だ。
できない人をまとめて箱に入れて、棚に置くための言葉。

「係にする」
私がそう言うと、相手はほっとした顔をした。
“手間が減った”って表情。悪意じゃない。人はみんな、余裕がないときほどそうなる。

それでも、腹が立つ。
私自身に腹が立つ。そういう顔を読み取ってしまう自分に。

——その日の昼休み。
いつもの空っぽの教室に、和馬が入ってきた。

「萌奈、顔がこわい」
へらっと言って、でも今日はへらへらじゃない。目がちゃんと私を見ている。

「いつもだから」
私は窓の外に視線を逃がした。
太陽が眩しい。光が刺さるみたいに痛い日で、瞼の裏がじんじんする。

「係、決める?」
和馬はプリントを机に広げた。
体育祭の係一覧。放送、得点、用具、救護、招集、応援、記録……。

「俺さ、放送やる」
和馬が言う。

「……声、大丈夫なの」
私は反射で聞いた。
心臓に負担がかかると、息が乱れる。倒れかけた日の顔が、頭から離れない。

和馬は肩をすくめた。
「大声出さなきゃ平気。マイクあるし。むしろ走るより安全」

“安全”って言い方が、少し刺さる。
私の身体には“安全な日”が少ない。寝ても回復しない朝があり、痛みの波が来て、霧が降る。安全は、努力で手に入るものじゃない。

「萌奈は?」
和馬が訊く。
私の名前を呼ぶのが、もう当たり前になっている。教室の中だけの、秘密みたいな当たり前。

私はペン先を見つめた。
指が少し痛い。書く動作は小さいのに、今日は妙に響く。

「得点……かな」
私は言った。
「座ってできるし、数字なら……間違えても、訂正できる」

「間違えたら俺がフォローする」
和馬が即答する。
その言い方が、軽いのに頼もしい。だから腹が立つ。頼りたくなってしまう自分が悔しい。

「……和馬は、無理しないでよ」
私は小さく言った。

「うん、萌奈も」
和馬が笑う。
笑い方が、少しだけ変わった。へらへらじゃない。相手に向ける、ちゃんとした笑い。

——係決めのホームルームで、私たちは手を挙げた。

「放送係、結城」
「得点係、雨宮」

担任が淡々と読み上げる。クラスが「へえ」とか「そうなんだ」とか小さくざわめく。
“車椅子だから”得点係。
“心臓病だから”放送係。
そんなふうに勝手に理由を付けられている気がして、私は唇を噛んだ。

でも、和馬が隣で小さく親指を立てた。
「居場所、ゲット」って目で言う。

私は返す代わりに、視線を逸らした。
なのに心臓が少しだけ軽くなるのを感じてしまって、余計に悔しい。

放課後。
校庭ではリレーの練習が始まっている。笛、掛け声、砂埃。
私はその音を遠くに聞きながら、得点係の準備で教室に残った。

得点表の書き方。点数の付け方。競技順。
数字の羅列は嫌いじゃない。
感情の読み合いより、ずっと単純だ。

……ただし今日は、頭がぼんやりしている。
午前中の霧は引いたはずなのに、疲労がじわじわ溜まって、視界の端が曇る。
線維筋痛症は痛みだけじゃない。疲労が抜けない。寝ても回復しない。その“蓄積”が、私をじわじわ削る。

「萌奈、ここさ、点数の欄違くない?」
和馬が放送台本を手に戻ってきて、私の机を覗き込んだ。

「……え」
私は紙を見る。
確かに、欄を一つずらして書いていた。

一瞬、頭が真っ白になる。
“まただ”。
霧が薄く残っていると、こういうミスをする。
簡単なことほど、落とし穴になる。

「ごめん」
私は反射で謝った。
謝るしかない。謝れば丸く収まる。私は愛想笑いはしないけど、“謝罪”は得意だ。痛みを抱えて生きていると、なぜかいつも謝っている。

和馬は首を横に振った。
「謝る必要ない。直せばいいだけ」
それから、机の上の消しゴムを私の手元に置いた。
「ほら。ここだけ修正しよ。俺、読み上げ原稿やるから」

その言い方が、私の中の何かを変えた。
“役に立てない”って思い込みが、少しだけ緩む。

——体育祭の係って、地味だ。
目立つのは走る人で、勝つ人で、歓声を浴びる人。
得点係も放送係も、ミスをしないのが仕事。うまくやって当たり前で、失敗したら責められる。

それでも。
私たちはそこに“席”を作る。

走れなくても、叫べなくても、日によっては息をするのも難しくても。
やれる範囲で、チームの一部になる。

翌日、クラスで練習が始まった。
私は校庭の端のテーブルで得点表を構えた。
周りの音が大きい。太陽が痛い。砂埃が喉に刺さる。
痛みの波が来ないように、私は呼吸を浅くしないよう意識する。息が乱れると、痛みが増幅する気がするから。

放送席から、和馬の声が聞こえた。

「次の競技、二年二組、入場してください」

マイク越しの声は、思ったより落ち着いていた。
へらへらしていない。ふざけていない。
真面目な和馬の声を、私は初めてちゃんと聞いた気がした。

競技が始まり、得点を付ける。
集中する。
数字にだけ意識を向ける。
周りの視線を気にしない。

——なのに。

「雨宮さん、すごいね。普通にやってる」
近くにいた女子が、ふと話しかけてきた。
悪意はない。褒めてくれているのだと思う。
でも私は、その言葉の裏に“できないと思ってた”を聞き取ってしまう。

返事に詰まった瞬間、和馬の声がスピーカーから流れた。

「得点係のみなさん、暑いので水分忘れずに。雨宮も、無理すんなよ」

……名前じゃない。苗字だ。
それなのに、私の胸が妙に熱くなった。

同盟のことを、クラスは知らない。
私と和馬が、体育祭に“出ない側”同士で作戦会議していることも。
名前を呼び合っていることも。

でも、その一言で私は“ひとり”じゃなくなった気がした。

私はペットボトルを開けて、水を飲んだ。
喉を通る冷たさが、少しだけ痛みを遠ざける。

その時、気づいた。
居場所って、誰かが用意してくれるものじゃない。
自分が「ここにいる」と決めて、そこに小さな仕事を積み重ねて、ようやく形になる。

走れない私たちにも、できる戦い方がある。
大きな声で叫ぶ代わりに、数字を守る。
ゴールテープを切る代わりに、マイクで流れをつくる。

そしてたぶん――
誰にも見えないところで踏ん張る私たちの姿は、ちゃんと誰かに届く。

放送席から聞こえた和馬の声が、少しだけ笑っていた。

「——同盟員、今日もナイスです」

それは、私だけに分かる合図。
私は顔を上げて、放送席の方を見た。遠くて、和馬の表情は分からない。

それでも、分かった。
私は、ほんの少しだけ口角を上げた。
愛想笑いじゃない。
“ここにいる”っていう、私の小さな合図。

——痛みは消えない。
霧も、いつかまた来る。
でも私には、同盟がある。

それだけで、今日は少しだけ進める気がした。

第5章 走れない私たちの、勝ち方

体育祭当日。

朝、目が覚めた瞬間に分かった。
今日は――やばい日だ。

身体の内側が、最初からざらついている。
肩から背中にかけて熱を持ち、腕を動かすたびに筋肉の奥が引きつる。関節の節々がきしむみたいに痛い。
眠ったはずなのに、疲れがそのまま残っている。疲労が体に貼りついて、剥がれない。
私は布団の中で一度、目を閉じた。

行きたくない。
でも、休んだらまた“できない私”に戻る気がして怖い。

——体育祭に出るわけじゃない。
走らない。跳ばない。
得点をつけるだけだ。

そう言い聞かせて、私はゆっくり上体を起こした。

制服を着る動作だけで、痛みが増幅する。
ボタンを留める指先が鈍くて、二回失敗した。舌打ちしたくなるのをこらえる。
鏡に映った顔は青白くて、目の下に薄い影がある。

母がドアをノックした。

「萌奈、大丈夫?」
毎朝聞かれる、その言葉。

私は笑わない代わりに、嘘を短く言う。

「……昨日よりは」
昨日よりは、というのは真実でも嘘でもない。昨日がどうだったか、もう頭が霧っぽくて曖昧だ。

母は何か言いたそうに唇を動かして、それでも飲み込んで、私の髪を軽く整えてくれた。
その手の温度が、優しくて痛い。


学校に着くと、空気がもう騒がしい。
校庭にはテント。色のついた旗。スピーカー。
太陽が白く眩しくて、地面からの照り返しが目の奥を刺す。
歓声が、近い。音が、刺さる。

私は車椅子の肘掛けを握りしめた。
“音”が痛みを引っ張るような感覚がある。
光と音が多い場所にいると、身体のどこかがカッと熱くなって、その熱が痛みに変わる。

「雨宮さん、ここでいい?」
得点係の担当教員が、テーブルの位置を確認してくる。

「はい」
私は短く答えた。声を出すだけで喉が乾く。

テーブルの上には得点表。ペン。競技順のプリント。
数字を見ていると少し落ち着く。
感情が入り込まないから。

放送席の方を見上げると、和馬がいた。
白い顔。でもいつもより真剣な目で、マイクの位置を確認している。
視線が合った気がして、私は反射で目を逸らした。

恥ずかしい。
応援されるのに慣れていない。
しかも、和馬からの視線は“同情”じゃなくて“仲間”のそれだから、余計に逃げ場がない。

競技が始まった。

徒競走。綱引き。大縄。
歓声が波みたいに押し寄せて、そのたびに私は呼吸を意識した。
浅くならないように。息を止めないように。
止めると、痛みが身体の中心に集まってしまう気がする。

「二年二組、勝ち!」
歓声。
私は得点表に丸をつける。
手首がじわじわ痛い。ペンを握る指が熱い。
それでも、書く。
書けるなら、書く。

——途中、気づいた。
私はずっと、放送席のほうを“聞いて”いる。

和馬の声。
スピーカーから流れる声を、私は他の音より先に拾ってしまう。

「次の競技、二年二組、入場してください」

落ち着いてる。
ちゃんと、体育祭の流れを作っている。
走っている誰かより、目立つわけじゃないのに、和馬の声があると全体が回る。

……私たち、ちゃんとここにいる。
そう思えて、少しだけ胸が温かくなる。

その温かさが、油断だった。

正午が近づく頃、太陽がさらに強くなった。
照り返しで視界が白くなり、汗が背中に張りつく。
その汗が冷えると、また痛みに変わる。

疲労が、じわっと底から湧いてきた。
朝からずっと張り詰めていたものが、急に緩む。

頭の奥が、もやっとする。
霧が、近い。

私は瞬きした。
得点表の数字が、一瞬だけ滲んで見えた。

まずい。
この感じ、来る。

痛みの波は予告なしに来る。
でも“霧”は、少しだけ前触れがある。
文字が読みにくくなる。音が遠くなる。身体が重くなる。

私は水を飲もうとして、ペットボトルに手を伸ばした。
指先が、空をつかむ。
距離感が合わない。

二回目でやっと掴んだ。
その瞬間、背中に熱い針が何本も刺さったみたいに痛みが跳ね上がる。

「っ……」

声が漏れた。
ペンを落としそうになって、私は必死で机の端に肘をついた。
視界の端が揺れる。
音が、うるさい。
スピーカーの声が、やけに遠い。

——遠い?
違う。
“遠い”のは、和馬の声じゃない。

私ははっとして、放送席に耳を澄ませた。

次の競技のアナウンスが、来ない。
いつもなら間が空かない。和馬は流れを途切れさせない。
なのに今、スピーカーは変な沈黙を作っている。

ざわっ。
校庭が少しざわつく。

「……あれ、放送止まった?」
近くの誰かが言う。

私は顔を上げた。
眩しさで目が痛いのに、放送席の方を凝視した。

和馬が——立っている。
マイクの前。
でも姿勢が、変だ。

背筋が真っ直ぐじゃない。
肩が落ちている。
片手が、胸元に当たっている。
もう片方の手が、机の端を探るみたいに揺れている。

その瞬間、私の中で何かが冷たく固まった。

——倒れる。

昼休み。
椅子から滑り落ちそうになった和馬。
青白い顔。息が詰まる音。
あれが、今度は高い場所で起きている。

私は、痛みの波なんて忘れた。
霧なんてどうでもよかった。

「和馬……!」

口から名前が出た。
スピーカーじゃない。私の声。
誰かに届く音量じゃない。なのに、私の身体が勝手に叫んだ。

和馬の膝が、わずかに折れる。
机に手をつこうとして、間に合わない。

——落ちる。

私はブレーキを解除し、車椅子のタイヤを回した。
肩が痛い。腕が痛い。背中が焼ける。
でも止まれない。

「雨宮さん!? どこ行くの」
係の先生が声をかける。

私は答えなかった。答える余裕なんてない。
タイヤを回すたびに、痛みが腕から背中へ突き抜ける。
それでも前に進む。
痛みは後回し。今だけは、後回し。

放送席へ向かう道は、思ったより遠い。
人混み。テント。コード。段差。
「ちょっと通ります!」と誰かが言う声が遠い。私の耳は、和馬の方にしか向いていない。

放送席の下に辿り着いた時、ちょうど先生が駆け上がっていくところだった。
私は下から見上げる。

和馬が、座らされている。
顔は真っ白で、唇の色が薄い。
胸元を押さえたまま、呼吸が浅い。

その姿を見た瞬間、私の手が震えた。
今度こそ、怖さが押し寄せてきた。

“もしも”が、頭をよぎる。
手術が必要だと言っていた。
大動脈弁狭窄症。
無理しちゃいけないと分かってるのに、和馬はいつも笑って、平気なふりをする。

そして私は——それに気づける立場のはずなのに。
気づかないふりをしていた。

「結城くん、保健室!」
上で先生が叫ぶ。

和馬が、かすかに首を振った。
「……だい、じょうぶ……」
声が小さすぎて、風に消えそうだった。

私の胸が痛くなる。
線維筋痛症の痛みとは別の場所が、ぎゅっと締め付けられる。

「大丈夫じゃない」
私は下から言った。
震えてるのに、はっきり言えた。

和馬が視線を落として、私を見た。
焦点が合っていない。
それでも、私だと分かったみたいに眉がわずかに動く。

「……萌奈」
かすれた声で、私の名前。

その二文字で、私は泣きそうになった。
泣くのは、今じゃない。
今泣いたら、私は止まってしまう。

「……私が一番に気づいたから」
私は訳の分からないことを言った。
言いながら、何が言いたいのか自分でも分からない。

でも本当だ。
私は一番に気づいた。
誰より先に、和馬の“いつもと違う”を拾った。

それは、たぶん。
和馬の声を、ずっと聞いていたから。

先生たちが和馬を支え、保健室へ運ぶ段取りを始める。
私はその下で、車椅子の肘掛けを握りしめた。手のひらが汗で滑る。

痛みが、遅れて戻ってきた。
背中が焼ける。腕が痺れる。
でも、今はそれでもいいと思えた。

和馬が運ばれていく瞬間、彼が一度だけ私を見た。
へらへらじゃない。
弱さを隠していない目。

私は、逃げなかった。

「和馬」
私は名前を呼ぶ。
「……戻ったら、怒るから」

和馬の唇が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。笑えないのかもしれない。
でもその表情は、私にしか分からない“合図”だった気がした。

体育祭のスピーカーが、別の先生の声で再開した。
校庭はまた、普通に回り始める。

でも私の中では、何かが変わってしまった。

痛みがある。霧が来る。
それでも私は、和馬の“変化”には気づける。
そういう関係になってしまった。

それが怖いのに、嫌じゃない。

——走れない私たちの勝ち方は、たぶんこういうことだ。
誰かの一番になること。
一番に気づくこと。
一番に、手を伸ばすこと。

私は車椅子のブレーキをかけ、深く息を吸った。
胸の奥に残るざわざわを、痛みごと抱えて。

そして、ゆっくり前輪を回した。
保健室へ向かうために。


第6章 病名の重さと、会いに行けない日

体育祭のあと、校庭の熱と歓声は嘘みたいに消えた。
校舎はいつもの静けさに戻って、みんなの話題も「お疲れー」へ移っていく。

でも私の中では、体育祭が終わっていなかった。

放送席の上で真っ白になった和馬。
先生に支えられて運ばれていく細い背中。
あの瞬間から、私はずっと、胸の奥が落ち着かない。

保健室の前で待っている間、痛みの波が遅れて追いついてきた。
肩が焼ける。腕が痺れる。手首がうずく。
私の身体は「無理したね」と容赦なく請求書を突きつけてくる。

それでも、私は保健室のドアを見つめ続けた。

——しばらくして、保健の先生が出てきた。

「雨宮さん、少し落ち着いたよ。…でも、今日は早退して病院に行くって」

「……そう」
声が乾いた。

先生は言いにくそうに続ける。
「結城くん、無理しすぎちゃったみたい。あなたが一番に気づいてくれて助かったよ」

助かった。
その言葉が、嬉しいはずなのに、私の中に冷たく沈んだ。

助かったのは“今”だけだ。
和馬の心臓の問題は、体育祭で突然出てきたものじゃない。
ずっとそこにあって、ずっと彼が笑って隠してきたものだ。

私は保健室のベッドのカーテンを見つめた。
あそこに、和馬がいた。
今はもういない。

「……会えますか」
自分でも驚くくらい、弱い声が出た。

「今はお母さんと電話してる。少し待ってね」

私は待った。
待ちながら、痛みをやり過ごそうとした。
でも痛みは待ってくれない。むしろ、こういう“気が張った瞬間”が終わると、私の身体は一気に崩れる。

汗が冷えて、背中がぞくっとして。
頭が重くなって。
霧が近づいてくる。

——会いたい。
でも、この状態で会ったら、私はきっと余計なことを言う。
泣いて、怒って、縋ってしまう。

私は自分が嫌いになる。

結局、その日は会えなかった。
和馬は母親に支えられ、早退して病院へ向かったと聞いただけ。


翌日。

朝、目が覚めた瞬間に分かった。
今日は、動けない日だ。

身体が鉛みたいに重く、布団から出るだけで背中に痛みが走る。
寝たはずなのに、疲労が抜けていない。
頭の霧が濃くて、スマホの画面の文字がすぐ頭に入ってこない。

私は、和馬に連絡をしようとして、指が止まった。

「大丈夫?」
その一言は、簡単すぎる。
でも、何も言わないのも怖い。

悩んでいる間に、母が部屋に入ってきた。

「萌奈、今日は休もう。顔色が……」

私は頷くしかなかった。
休むことに慣れてしまうのが怖いのに。
休めば回復するならいい。
でも、私の病気は“休んでもゼロにならない”。

学校を休んだ私は、ベッドの中でずっと天井を見ていた。
体勢を変えるたびに痛い。
痛いから動けない。動けないから余計に身体が固まる。
悪循環が、私の中でぐるぐる回る。

午後、スマホが震えた。

『萌奈、起きてる?』

和馬からだった。
たったそれだけの文字なのに、喉の奥が熱くなる。

私は返そうとして、画面を見つめた。
何を書けばいいのか分からない。
霧のせいで、言葉が組み立てられない。

指が震えて、やっと打てたのは短い一文。

『起きてる。大丈夫?』

送信した瞬間、後悔した。
結局、私はその言葉しか使えない。

すぐに返事が来た。

『大丈夫。昨日はごめん。驚かせたよね』

驚かせた。
それは違う。驚いた以上に、怖かった。

私はスマホを握りしめた。
握る指が痛い。
痛いのに、離したくなかった。

『怒ってる?』

次のメッセージ。
その一行に、和馬の不安が滲んでいる気がした。

私は深呼吸をして、短く打った。

『怒ってる。無理したから』

送信。
心臓が早く打つ。

しばらくして来た返事は、いつものへらへらじゃない文章だった。

『うん。ごめん。
でも、萌奈が一番に気づいてくれたの、嬉しかった』

私の胸の奥が、ぎゅっと鳴った。

私は画面を見つめながら、思った。
会いたい。
でも会いに行けない。
私の身体は、私の気持ちに追いついてくれない。

悔しい。
悔しくて、涙が出た。

その涙のせいで、視界が滲む。
霧がさらに濃くなる。
なのに私は、もう一度、文字を打った。

『私も。
和馬が戻ってくるまで、同盟は解散しない』

少しだけ、強がり。
でも、嘘じゃない。

『うん。
文化祭、一緒にやろう。
走れない同盟の次は、文化祭同盟で』

その言葉に、私は天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。

文化祭。
体育祭よりも、私たちにできることが多いかもしれない。

そして、和馬が戻ってくる場所を――
私が作れるかもしれない。

第7章 暗闇の星と、嘘をつかない約束

文化祭の出し物が「プラネタリウム」に決まったとき、クラスは拍手して盛り上がった。

「映えるじゃん!」
「教室でできるし、天候関係ない!」
「暗いなら楽じゃね?」

最後の一言に、私は小さく胸の奥がざらついた。
でも否定しなかった。否定できなかった。

暗い。静か。座ってできる。
――そう、私もどこかで思っていたから。

線維筋痛症の痛みは、目に見えない。
その代わり、私の中ではいつも騒がしい。
光がまぶしい日、音が刺さる日、肌に触れるものが全部痛い日。
その全部から逃げられるなら、暗い教室は“味方”のはずだった。

「萌奈、タイムテーブル作れる?」
和馬が、プリントをひらひらさせて私に訊いた。

いつもみたいにへらへら笑うのかと思ったら、今日は違った。
体育祭のときに倒れたのを、まだ気にしている顔だ。
笑顔を貼り付けていない分、表情が素直で、少しだけ頼りなく見える。

「……作れるよ」
私は頷いた。
数字の管理なら、まだ得意だ。

「じゃ、俺はナレーションやる。短く区切る。長いと息きついし」
和馬はさらっと言って、でも私の目を見て付け足した。
「無理しない。約束」

約束。
その言葉が、胸の奥に落ちた。

準備期間は、思ったより過酷だった。

黒い布を窓に貼る。段ボールで“星空のトンネル”を作る。
ガムテープの匂いが、鼻の奥に残る。
細かい埃が舞って、喉がイガイガする。

私は車椅子のまま、机の端でタイム表を組み立てた。
一回十五分、入れ替え五分。
混雑を避けるための定員。
遅れたら次が詰まる。詰まればクレームになる。
数字が、私の責任の重さに変わっていく。

その途中で、霧が来た。

目の前の数字が、急に意味を失う。
「十五+五」が、暗号みたいに見える。
ペンを握る指が熱くなって、肩の奥が焼けるみたいに痛む。

「……っ」
息が浅くなりそうで、私は唇を噛んだ。

「萌奈、大丈夫?」
和馬が近くに来て、声を落とす。

私は首を振った。
大丈夫じゃない。でも、大丈夫って言いたくない。
言ったらまた、誰かが“特別扱い”を始める。

「タイム表、今ここで止めていい」
和馬は当たり前みたいに言う。
「休憩してから続き。遅れても俺がなんとかする」

「……和馬がなんとかする、が一番危ないから」
私は反射で返した。

和馬が目を丸くして、苦笑した。
「はいはい。じゃあ、“同盟が”なんとかする」

その言い方で、私は少しだけ息が抜けた。
不思議だ。
“助けてやる”じゃなく、“一緒にやる”って言葉の方が、私の心に優しい。

文化祭一日目。

教室の中は暗くして、投影機の小さな光だけが天井に星を散らしている。
BGMは静かなピアノ。
入口には「スマホの光はご遠慮ください」の札。
私は受付の横で、タイムカードと入場人数を確認していた。

並んでいるお客さんのざわめきが、入口から漏れてくる。
匂いが混ざる。香水、柔軟剤、屋台の甘い匂い。
その全部が、私の頭を鈍く叩く。

暗いのに、まぶしい。
光が少ないからじゃない。
暗さと明るさの差が、目の奥を刺激する。

「次の回、入りますー」
クラスメイトが誘導して、お客さんが入ってくる。

私は笑わない代わりに、丁寧に案内した。
「足元、段差あります。ゆっくりどうぞ」

“車椅子なのに、ちゃんとやってるね”
そんな視線を感じるのが、つらい。
褒められているのに、私は「できないと思われてた」を読み取ってしまう。

一回目、二回目。
何とか回る。

問題が起きたのは三回目だった。

教室が暗転した瞬間、私の身体がびくっと反応した。
胸がきゅっと縮む。冷や汗が背中を伝う。
耳が、急に敏感になる。
BGMが大きすぎる。誰かの咳が刺さる。服がこすれる音が痛い。

――やばい。
波が来る。

私は呼吸を整えようとした。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。

なのに、暗闇の中で星が動く。
投影機の点が、瞬く。
その瞬きが、私のこめかみの脈打ちと重なって、痛みがリズムを持ってしまう。

頭の中が、霧で満ちる。
音が遠くなる。
身体の痛みだけが、鮮明になる。

その時、スピーカーから和馬の声が流れた。

「……ようこそ。今夜は、二年二組の星空へ――」

一瞬、間が空いた。
ほんの一瞬。
でも私は聞き逃さなかった。

和馬の“息継ぎ”が、いつもより浅い。
言葉の間が、短い。
無理をしている。

私は暗闇の中で、放送席――じゃない。教室の前方にいる和馬の気配を探した。
見えない。
見えないのに分かる。
和馬の声が、少しだけ揺れている。

「……っ」
私の喉が乾く。

次の瞬間、最悪の光が走った。

誰かがスマホを開いた。
画面の白い光が、一瞬教室を切り裂く。
私の視界が真っ白になる。
頭の霧が、濃くなる。

そして、和馬の声が止まった。

ざわっ、と客席が揺れる。
暗闇の中で小さな囁きが増える。
「どうしたの?」
「止まった?」

私の中の何かが冷たく固まった。

――まただ。
体育祭の放送席の沈黙。
あの沈黙と同じ。

私はブレーキを外し、車椅子のリムを握った。
肩の奥が痛い。腕が熱い。
それでも回す。

暗闇の中を、音を立てないように進む。
タイヤの小さな軋みさえ、今は大きく感じる。

前方に近づくと、和馬の気配がより濃くなった。
息が乱れる音。
机に手をつく、かすかな音。

私は声を殺して呼んだ。

「……和馬」

返事がない。
代わりに、短い吸気音。苦しい息。

「和馬、息……」
私はもう一度言った。
「吸って、吐いて。私のペース」

暗闇の中で、和馬がかすかに頷くのが分かった。
いや、見えたわけじゃない。
“分かった”だけ。

「……ごめん」
和馬の声が、囁きみたいに落ちる。

「謝らなくていい」
私は即答した。
「今は、止まって」

和馬の肩が小さく震えた。
それが、笑いなのか、苦しさなのか分からない。

客席のざわめきが大きくなる前に、クラスメイトがそっとBGMを下げた。
投影機の光が少し弱まる。
暗闇が、少しだけ優しくなる。

和馬がマイクに手を伸ばす。
私はその手を、そっと押さえた。

「無理するなって、約束したのに」
私の声は震えていた。痛みのせいだけじゃない。

和馬が、暗闇の中で小さく息を吐いた。

「……うん。じゃあ、今日はここで終わりにする」
そう言って、マイクに短く告げた。
「機材トラブルのため、少し中断します。申し訳ありません」

機材トラブル。
嘘の理由。
でも、今はそれでいい。

客が誘導されて出ていく。
教室が静かになっていく。
最後の一人が出た瞬間、私は身体の力が抜けた。

痛みの波が、どっと押し寄せる。
背中が焼ける。手首がうずく。頭が重い。
視界の端がゆらゆらする。

それでも、私は和馬の方を向いた。

「……平気?」
言ってしまってから、しまったと思う。
私が嫌いな言葉。
でも、今は言わずにいられなかった。

和馬は、へらっと笑いかけて――途中でやめた。
笑顔を貼り付けるのを、やめた。

「平気じゃない」
和馬は、初めてそのまま言った。
「……怖かった」

その一言で、私の胸がぎゅっと鳴る。
怖いのは私も同じだ。
自分の身体が、いつ崩れるか分からない怖さ。
和馬の身体が、いつ限界を迎えるか分からない怖さ。

「……私も」
私は言った。
「暗いの、楽だと思ってた。むしろ辛い」

和馬が息を吸って、ゆっくり吐いた。
「分かる。俺も、“しゃべるだけなら大丈夫”って思ってた」

私たちは、空っぽになった教室で、しばらく黙った。
暗闇の残り香みたいな静けさの中で、心臓の音だけが妙にうるさい。

「和馬」
私は名前を呼んだ。
「笑うな、とは言わない。けど……私の前では、嘘つかないで」

言った瞬間、顔が熱くなった。
言いすぎたかもしれない。
でも止められない。今言わないと、また私たちは仮面を被って戻ってしまう。

和馬は目を伏せて、ぽつりと言った。

「……笑ってないとさ。みんなが不安になるんだよ」
体育祭の時と同じ言葉。
でも今日は、少し違う重さがある。
「病気の話すると、空気が変わる。気を遣わせる。だから笑って、軽くして……」

「軽くならないから」
私は言った。
「痛いのも、怖いのも、軽くならない。……軽くしたら、消えるみたいで嫌だ」

和馬が、ゆっくり私を見る。
暗い教室でも分かる。目が、ちゃんと私を見ている。

「じゃあ」
和馬は言った。
「萌奈の前では、嘘の笑顔やめる」

私は息を吸った。
胸の奥がじんわり熱い。

「……私も」
私は言った。
「無理して笑わない。和馬に、向けない」

和馬が小さく笑った。
へらへらじゃない。
息を整えるためでもない。
ただ、嬉しいから出た笑い。

「約束だね」
和馬が言う。

「……約束」
私は頷いた。


そのあと、私たちは“できる範囲”で再開した。

BGMをもっと小さくする。
スマホ光対策に、入口で追加のお願いをする。
ナレーションは短く区切り、途中で休憩を入れる。
私のタイム表を、五分単位から十分単位に変えて余裕を持たせる。

完璧じゃない。
でも回る。

最後の回が終わったとき、客席から小さな拍手が起きた。
暗闇の中で、星がふわっと揺れる。

私はその拍手を聞きながら、痛む身体のまま、少しだけ思った。

走れなくても。
叫べなくても。
崩れそうでも。
私たちは、ここまで回した。

和馬がマイクを置いて、私の方へ近づいてくる。
暗い教室の中、彼が私のすぐそばで立ち止まった。

「萌奈」
名前を呼ばれて、私は顔を上げる。

「今日、助かった」
和馬は言った。
「暗闇で、俺のこと見つけた。……一番に」

私の胸が、少しだけ痛む。
でもそれは、嫌な痛みじゃない。

「……和馬の息、うるさかったから」
私は照れ隠しに言った。

和馬が吹き出しそうになって、でも笑いすぎるのをやめた。
約束を守るみたいに、静かに笑う。

「ひど」
そう言って、和馬は小さく拳を握った。
「でも、ありがとう」

私は返事の代わりに、前輪をほんの少しだけ動かした。
“進む”って、こういうことだ。
大きくじゃなくていい。
ほんの数センチでも、自分で選んで進めばいい。

暗闇の星が、天井で静かに瞬いていた。

第8章 冬、期限と、置いていかれる怖さ

文化祭が終わって、校舎から飾りが消えると、季節は一気に色を失った。
廊下の窓から入る光が冷たくて、朝の息が白くなる。

冬は、私の敵だ。

寒さで筋肉がこわばる。
関節が錆びたみたいに動きにくい。
朝、布団の中で身体を起こすだけで、全身が「やめろ」と言ってくる。

線維筋痛症の痛みは、熱く刺す日もあれば、冷たく重い日もある。
冬は後者だ。重さが増える。
痛みが“重り”みたいに私の四肢にぶら下がって、動くたびに引っ張られる。

それでも学校へ行く。
文化祭のあと、私は少しだけ「できた」を持ってしまったから。
持ってしまったものは、手放すのが怖い。

だから、無理をしてでも行く。
そして、無理のツケが夜に来る。

眠れない。
眠れても浅い。
目を閉じても痛みが脳を叩くみたいに鳴って、何度も覚醒する。
朝になっても疲労は残ったまま。
むしろ「寝た分だけ負けた」みたいに重くなる。

——そんな日が続いたある朝。
私は、制服のボタンを留められなかった。

指先が言うことをきかない。
力が入らない。
ボタンホールの位置が合わない。
頭の中が霧で、簡単な動作の手順が分からなくなる。

「……なんで」
自分に腹が立つ。
できないことが増えるたびに、“私”が削れていく気がする。

母がそっと部屋に入ってきて、何も言わずにボタンを留めてくれた。
その手つきが優しくて、私は目を逸らした。

優しさが、痛い。
母の優しさは、いつも私に「ごめん」を呼び起こす。

「萌奈、今日は……休める?」
母が小さく訊いた。

私は首を横に振りかけて、やめた。
意地を張ると、倒れる。
倒れたらまた“できない私”に戻る。

「……午後から行く」
私は、折衷案を選んだ。
自分の中で“負け”じゃない形にしたかった。

母はうなずいて、温かい飲み物を持ってきてくれた。
私はそれを握った。
手のひらに伝わる温度だけが、今の私の味方だった。

午後、学校に着くと、廊下の空気が乾いていた。
暖房の匂い。
ひそひそした声。
冬の校舎は、体温が奪われる気がする。

教室に入ると、和馬が振り返った。

「萌奈」
名前だけで呼ばれて、私はそれに慣れてしまっている自分に気づく。
慣れるって、怖い。
失ったときの痛みが大きくなるから。

「……遅刻」
私は言い訳みたいに言う。

「うん、知ってる。朝、先生に聞いた」
和馬はへらっと笑いかけて——途中で止めた。
文化祭の約束を守るみたいに、笑顔を薄くする。

「今日は、痛い?」
和馬が訊く。
その問いは「大丈夫?」よりずっと優しい。
答えやすい。逃げ道がある。

「……痛い」
私は正直に言った。

和馬が小さくうなずいた。
「じゃ、今日の作戦会議は短め。無理させない」

作戦会議。
同盟。
その言葉が、私たちの合言葉みたいになっていた。

放課後、いつもの空っぽの教室。
窓の外はもう暗い。
冬は日が落ちるのが早い。焦る。何に?って聞かれたら答えられないのに、なぜか焦る。

和馬が鞄から封筒を取り出して、机の上に置いた。
白い封筒。病院のロゴ。

私は一瞬で理解してしまった。
——これは、軽い話じゃない。

「……病院?」
私が言うと、和馬はうなずいた。

「この前の検査結果」
和馬は息を吸って、吐いた。
笑わない。逃げない。

「……手術、早めた方がいいって」
その声は静かだったのに、私の中に重く落ちた。

私は指先を握りしめた。
痛い。
でもその痛みより、胸の奥の方が痛い。

「早めた方がいい、って」
私は言葉を繰り返す。
理解したくないとき、人は同じ言葉を何度もなぞる。

和馬は続けた。
「狭窄が進んでるって。今すぐ倒れるとかじゃないけど……このまま放置は危ないって」

私は、体育祭の放送席を思い出した。
プラネタリウムの暗闇で、息が乱れた和馬を思い出した。

“今すぐじゃない”は、“いつか必ず”の別名だ。

「海外……国内で、できないの?」
私は訊いた。
声が震えないように、必死で抑えた。

和馬は首を傾げる。
「できる。でも、俺の場合は……海外の方が選択肢が広いって」
言いながら、少しだけ眉を寄せた。
「母さんが調べてて。俺もよく分かんないけど……」

海外。
その二文字が、私の世界を遠くした。

海外って、何キロ離れてるんだろう。
時差って、どれくらいあるんだろう。
そんな小学生みたいな疑問が浮かんで、私は自分が嫌になった。

大事なのは距離じゃない。
和馬が“行く”という事実だ。
私の手が届かない場所へ。

「……いつ」
私はやっとそれだけ聞いた。

「春までに、決める」
和馬が言う。
「できれば、夏前には手術」

夏前。
それは私たちが三年生になって、受験や進路で忙しくなって、いろんなものが変わっていく時期。

変わる。
置いていかれる。
そんな単語が、頭の霧の中で浮かんでは消えた。

「……怖い?」
私は聞いた。
自分が和馬に言った言葉と同じ。
そのときの自分より、今の自分の方がずっと怖い。

和馬は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。

「怖い」
一言。
それだけで、教室の空気が重くなる。

「手術も怖いし……成功したらしたで、今の俺じゃなくなる気がする」
和馬は笑わずに続ける。
「今の俺って、病気込みで出来上がってるじゃん。変になったらどうしようって」

私は、その感覚が分かってしまった。
線維筋痛症だと分かったとき、私は安堵した。
でも同時に「治らないかもしれない私」が確定した気がして怖かった。

病気は敵なのに、病気は自分の一部になる。
その矛盾が、人を苦しめる。

「……和馬は、和馬だよ」
私は言った。
簡単な言葉しか出ない。
霧のせいじゃない。私の語彙が足りない。

和馬が私を見る。
目が少しだけ潤んでいるように見えた。

「萌奈は?」
和馬が訊いた。
「俺、行ったら……萌奈は、どうする?」

どうする。
そんなの、分からない。

でも私は、答えなきゃいけない気がした。
同盟だから。
嘘の笑顔を向けないって約束したから。

私は息を吸って、吐いて。
肩の痛みを抱えたまま言った。

「……私は、進む」
言いながら、胸が締め付けられる。
進むって、どこへ?
和馬がいない方向へ進むのは、進むって言えるの?

「でも」
私は言葉を続けた。
「置いていかれるのは、嫌だ……」

本音が漏れた。
情けない。重い。
和馬に負担をかける。
分かってるのに止められない。

和馬は、私の車椅子の横にしゃがみ込んだ。
目線が同じ高さになる。

「置いていかない」
和馬は言った。
軽くじゃない。へらへらでもない。
ちゃんと私に向けた声。

「離れてても、同盟だろ」
そう言って、少しだけ笑った。約束を破らない笑い方で。

その瞬間、私は涙が出そうになって慌てた。
泣くと痛みが増える気がする。
呼吸が乱れると、身体がついてこない。

私は目を逸らして、強がりを投げた。

「同盟って、便利だね」
喉が震えるのを隠すために、わざと冷たく言った。

和馬が小さく笑う。
「便利だよ。だから、解散しない」

その言葉に、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
完全に安心なんてできない。
冬の痛みは消えない。
和馬の期限も消えない。

それでも――

私たちは、今の教室に居場所を作ってきた。
走れない私たちの、戦い方を見つけてきた。
だから、たぶん。

ここから先も、失いながら、進む。

私は窓の外の暗さを見つめた。
夜の中に、街灯の光が小さく滲んでいる。

星みたいだ、と思った。
文化祭の天井に映した星より、ずっと弱くて、ずっと現実的な光。

それでも、光はある。
暗いからこそ見える。

「……和馬」
私は名前を呼んだ。
「デート、しよ」

言った瞬間、和馬が目を丸くした。

「え」
情けない声。
あの結城和馬が、素で固まるのが可笑しくて、私は少しだけ笑いそうになった。愛想笑いじゃなく。

「短いやつ」
私は続けた。
「無理しないで。私も無理しないで。……それでも、普通っぽいやつ」

和馬は、しばらく言葉を探して、それから小さくうなずいた。

「……うん」
そして、約束を込めた声で言った。
「行こう。萌奈と」

冬の教室の中で、私たちは未来の話をした。
怖い未来。遠い未来。
それでも、少しだけ温かい未来。

第9章 普通のふりをする日

「デート、しよ」

あの日、冬の教室で口にした言葉が、時間を経つほど現実味を増していった。
約束って不思議だ。言った瞬間より、あとからじわじわ効いてくる。

普通っぽいことがしたかった。
制服のまま寄り道して、どこかで甘いものを食べて、笑って、帰る。
そんな“当たり前”を、私はずっと遠くから眺める側だった。

でも、遠くから眺めるだけじゃ、何も変わらない。

——問題は、私の身体だ。

線維筋痛症の痛みは、予定表を見てくれない。
「この日は大丈夫」って決めたところで、朝起きたら全部が終わっている日もある。
逆に、諦めていた日にふっと楽になることもある。

だから私は、デートの計画を立てる段階から“逃げ道”を用意した。

・短時間で帰れる場所
・駅から近い
・混雑しすぎない時間帯
・段差が少ない
・座れる場所が多い
・音と光が強すぎない

思いよりも、まずバリアフリー。
それが現実で、ちょっと悔しい。

放課後、空っぽの教室。

私はノートを広げて、箇条書きを並べていた。
そこへ和馬が入ってくる。

「萌奈、めちゃくちゃ真剣」
和馬が覗き込んで、少し笑った。約束を破らない笑い方で。

「真剣にしないと詰むから」
私は淡々と言う。
「私に痛みの波が来たら。和馬も息苦しくなったら帰るから。途中でやめても、失敗じゃない」

和馬は「うん」とうなずいた。
軽い返事じゃなく、ちゃんと理解した目。

「じゃあさ」
和馬が言う。
「行きたい場所、ある?」

私は一瞬だけ迷ってから、スマホの画面を見せた。
駅ビルの上にある、小さなプラネタリウムカフェのページ。
星の形のゼリー。夜空みたいなドリンク。
文化祭のせいで、私は“星”に引っ張られている。

「……ここ」
私が言うと、和馬は目を丸くした。

「星、好きになったの?」
からかうみたいな声。
でも、笑って誤魔化す感じじゃない。

「好きとかじゃない」
私は視線を逸らした。
「……思い出すから」

文化祭の暗闇で、和馬の息が止まりかけた瞬間。
私が一番に気づいて、名前を呼んだ瞬間。
怖かったのに、あの時の“繋がった感覚”は、嫌じゃなかった。

和馬は少しだけ黙って、そして言った。

「じゃ、そこ行こう」
それから、指でページをスクロールして確認しながら付け足す。
「混む時間避ける。座れる席確保できるように、予約できるならする」

——こういうところ。
和馬の“優しさ”は、押しつけじゃなくて、実務的だ。
それが私にはありがたい。

「……無理しないの、守れそう?」
私が訊くと、和馬は小さく苦笑した。

「萌奈に監視されてるから守れる」
「監視してない」
「してる。俺の息の回数数えてたじゃん」
「……うるさかったから」
「ひどい」

そんな会話をしているだけで、胸が少しだけ軽くなる。
痛みが消えるわけじゃない。
でも、“痛み以外”が増えるのは、確かに救いだった。


デート当日。

朝、私は目覚ましが鳴る前に起きた。
いつもより早い心拍。緊張。
カーテンを開けると曇り空で、光は弱い。

光が弱いのは助かる。
でも、曇りの日は気圧が不安定で、痛みが増えることもある。
私は一度、ベッドの上で身体を確認した。

肩、背中、脚。
痛い。
でも、動ける範囲。

“行ける”。
私はそう判断した。
今日の目標は大成功じゃない。
「行って、帰る」だ。

母が朝食を運びながら、心配そうに言った。

「無理しないでね。途中で帰ってもいいんだからね」
私も同じことを思っていた。
でも母の口から言われると、少しだけ悔しい。

「分かってる」
私は短く答えた。

学校が終わって駅で待ち合わせ。

和馬は改札の前で立っていた。
見つけた瞬間、私は少しだけ安心してしまった。
自分でも驚くくらい。

「萌奈」
和馬が手を上げる。

私は前輪を進めて近づいた。
その動きだけで腕が少し痛む。
でも、痛みより先に、胸のほうが騒いだ。

「……遅くない?」
わざと平静を装う。

「俺が早い」
和馬は言って、少しだけ笑った。
制服の襟元がきちんとしている。顔色も悪くない。
でも、私は知っている。見た目だけで判断したら、痛い目を見る。

「息、どう」
私は小声で聞いた。

「まだ平気」
和馬も小声で返す。
「萌奈は?」

「……痛い」
私は正直に言った。

和馬はうなずいて、歩く速度を私に合わせた。
急がない。前に出ない。
それが“気遣い”じゃなく、“自然”に見えるのがありがたい。

駅ビルに入ると、匂いが混ざる。
甘い匂い、揚げ物の匂い、香水。
人の声が反響して、耳が痛くなる。

私は無意識に肩をすくめた。
その瞬間、背中に痛みが走る。

「大丈夫?」
和馬が言いかけて、言葉を飲み込む。
約束を覚えているみたいに、別の問いに変える。

「休む?」
短い言葉。逃げ道のある言葉。

私はうなずいた。
深呼吸をする。
息を整えるだけで、痛みの波が少し引くことがある。

「……萌奈、今日さ」
和馬が言う。
「来てくれて、ありがとう」

「まだ何もしてないから」
私が返すと、和馬は首を振った。

「来るのが一番大変だろ」
それは、正しい。
でも、そう言われるとまた複雑だ。
“普通”になりたいのに、“普通じゃない”を肯定されてしまう感じがする。

私は視線を逸らして言った。
「普通っぽいことしたいから来たの」

和馬は少しだけ黙って、そして言った。
「じゃあ、普通っぽくしよ。……手、貸す?」

私は一瞬迷ってから、和馬の手に指先だけ触れた。
掴むほどじゃない。指先だけ。
その触れ方が私らしいと自分で思って、少し可笑しくなる。

エレベーターで上階へ。
目的の店は、薄暗い照明で、静かな音楽が流れていた。
文化祭の暗闇ほどではないけど、落ち着く暗さ。
席に着くと、私はようやく肩から力が抜けた。

星の形のゼリーが乗ったドリンクが運ばれてくる。
ストローを刺す手が少し震える。
でも、震えが恥ずかしいより先に、楽しいが来る。

「……きれい」
私がぽつりと言うと、和馬は驚いた顔をした。

「萌奈が“きれい”って言うの、レア」
「うるさい」
「でも、いいね」

和馬の言葉に、私は返せなかった。
胸の奥が温かくなって、痛みの存在感がほんの一瞬薄れたから。

——それから、少しだけ“普通”をした。

ケーキを半分こして、甘さに顔をしかめて、笑って。
文化祭の話もした。体育祭の話もした。
未来の話をしそうになって、やめた。
怖いから。
でも、怖いことを共有できる相手がいるのは、救いだと思った。

帰り道。
夕方の空気は冷たく、駅前の人が増えてきた。
音が増える。光が増える。匂いが混ざる。
私の身体が「もう帰ろう」と言ってくる。

「……ここで」
私は踏切の近くで言った。
「私、こっち」

和馬が立ち止まる。
少しだけ名残惜しそうな顔。
でも約束どおり、無理に引き止めない。

「うん」
和馬は言った。
「今日は、ありがとう。……また」

「……また」
私も言う。
“また”が言えるのが、嬉しい。

私は車椅子の前輪を進めた。
踏切へ向かう道。
いつも通る道。
いつもの段差。

——その瞬間、嫌な感触がした。

車輪が、溝に取られた。

「あ——」

身体が傾く。
バランスが崩れる。
転倒の予感が、スローモーションみたいに迫ってくる。

第10章 踏切――それでも私は、進む事を諦めない

車輪が、溝に取られた。

「――っ」

嫌な音がした。
ゴリ、と金属が擦れる音。
その瞬間、身体がふわりと浮くみたいに傾いて、次の瞬間、世界がひっくり返った。

車椅子ごと、私は転んだ。

肩が地面にぶつかって、鈍い衝撃。
膝に熱い痛み。
手のひらが擦れて、じん、とした後にひりつく。

息が止まった。
痛みの波が、遅れて一気に押し寄せる。

……やだ。
やだ、やだ。

私は必死に身体を起こそうとした。
けれど車椅子の片輪は溝に噛んだまま、私の身体は変な角度で引っ張られている。
痛い。
どこが、じゃない。全部が痛い。

その時、カン、カン、カン――と警報が鳴り始めた。

踏切の棒が下りていく。
赤いランプが点滅する。
すぐ近くで、非常ボタンの案内が見えた。
けれど私はそこまで手が届かない。

「……っ、うそ……」

声が震える。
電車の音が、遠くから近づいてくる。
レールを伝う低い振動が、地面から私の背骨に直接入ってくるみたいだった。

私は歯を食いしばって、這おうとした。
でも膝が痛い。手が痛い。肩が痛い。
それでも動かないと――

「萌奈!」

背後から、叫ぶ声。

和馬。
振り返る余裕なんてないのに、その声だけで分かった。
さっき別れたばかりの和馬が、踏切の向こうから走ってくる。

「来るな!」
私は叫んだつもりだった。
でも声はかすれて、警報にかき消される。

和馬が走る。
走るな。
心臓に悪い。
分かってるはずなのに。

遮断機の棒が下りきる寸前、和馬が滑り込むみたいに踏切内に入ってきた。
息が荒い。顔色が白い。
なのに目だけは真っ直ぐ私を見ている。

「萌奈、動くな――!」
和馬が叫ぶ。
叫ぶな。
それも負担になる。

私は歯を食いしばり、必死に腕で地面を掻いた。
車椅子のフレームが身体に食い込み、痛みが増す。
線維筋痛症の痛みは、普通の怪我の痛みと違う。
怪我の痛みは“そこ”が痛い。
でも私は、“そこ”から全身へ火が回る。
触れられるだけで痛みが増幅して、呼吸が浅くなって、視界が白くなる。

でも今は、そんなこと言っていられない。

電車の音が近い。
警報のカンカンが、頭の中で鳴っている。
身体の奥の霧が、濃くなりかける。
やばい。今霧が来たら、私は――

「萌奈!」

和馬が私の腕を掴んだ。
その瞬間、触れられた場所が熱く痛んだ。
でも私は叫ばなかった。

叫んだら、和馬が怯える。
叫んだら、和馬の息が乱れる。
叫んだら――助けが遅れる。

「車椅子、引っかかってる」
私は息を切らしながら言った。
「溝に……」

和馬が頷いて、車輪に手を伸ばす。
彼の指が震えている。
力を入れたら危ない。
でも、今は――

「和馬、無理するな!」
私は今度こそ叫んだ。
だけどそれは「助けるな」じゃない。
「生きろ」っていう叫びだった。

和馬は笑わなかった。
文化祭の約束を守るみたいに、真剣な目で言った。

「今、無理しないでいつするんだよ」
そして、歯を食いしばって車輪を持ち上げようとした。

……ばか。
ほんとに、ばか。

電車のライトが見えた。
踏切の向こうが白くなる。
風が、車体の重さを連れてくる。

和馬がもう一度力を込めた。
その瞬間。

「――っ!」

和馬の身体がぐらりと揺れた。
膝が折れる。
手が車輪から離れる。

倒れる。
まただ。
体育祭の放送席。プラネタリウムの暗闇。
でも今度は、踏切の中。

「和馬!」

私は叫んだ。
和馬が私のすぐ横に崩れ落ちる。
顔が真っ白で、唇の色が消えている。
胸元を押さえ、息が吸えないみたいに喉が鳴る。

電車が来る。
時間がない。
助けは? 誰か? 非常ボタン?
警報は鳴り続けるだけで、世界は何もしてくれない。

私は一瞬、絶望した。

私の身体は、前に進めない。
走れない。
立ち上がれない。
痛みで、息をするのが精一杯。

――でも。

和馬がここに倒れている。
私が呼んだ名前の持ち主が。
私が一番に気づいて、一番に手を伸ばして、嘘の笑顔を向けないって約束した相手が。

「……動け」
私は自分に言った。
声にならない声。

痛みが、全身で暴れる。
膝から血が滲んで、スカートに赤がにじむ。
手のひらは擦りむけて、砂が刺さる。
肩が熱い。背中が燃える。
頭の霧が押し寄せる。

それでも。

私は、這った。

地面に手をつく。
痛い。
でも手をつかないと前に進めない。

膝を引きずる。
痛い。
でも膝を使わないと和馬に届かない。

「和馬……」
私は彼の袖を掴んだ。
細い。軽い。
それなのに、この距離が遠い。

電車の音が、もう耳のすぐ近くにある。
風圧が、髪を煽る。
レールの振動が、私の骨を揺らす。

「……起きて」
私は言った。
でも和馬は応えない。
呼吸が浅い。目が半開き。焦点が合わない。

私は歯を食いしばって、和馬の身体を引っ張った。
力が足りない。
腕が震える。
痛みで視界が滲む。

でも、ここで止まったら終わる。

「……お願い」
私は泣きそうになりながら言った。
泣く暇なんてない。
でも涙は勝手に出る。
涙が出ると視界が歪む。
それでも私は手を離さない。

“進めない”。
その言葉が、私の中でずっと呪いみたいに響いてきた。
車椅子。痛み。霧。疲労。
私はいつも、止まるしかない。

違う。

今だけは違う。

止まったら、和馬が死ぬかもしれない。
その可能性が、私の全身に火をつけた。

私はもう一度、地面に手をついた。
擦りむいた皮膚に砂が刺さって、痛みが跳ねる。
でも私は、ほんの数センチ前へ進んだ。

「それでも……っ」
息が切れる。
喉が痛い。
肺が悲鳴を上げる。

「私は……進む……!」

次の瞬間、遠くで誰かの叫び声がした。

「非常ボタン押した! 止まるぞ!」
「中に人がいる! 早く!」

踏切の外から、大人たちが駆け寄ってくる。
遮断機の向こうで、駅員らしき人が必死に動いているのが見えた。
非常停止の警報が、別の音として重なる。

でも私の世界は、和馬だけだった。

私は和馬の身体を抱き寄せる。
抱き寄せるだけで痛い。
でも離すよりましだ。

「和馬、見て」
私は彼の頬に手を当てた。熱がない。冷たい汗。
「……目、開けて」

和馬の瞼が、かすかに動いた。
私を見ようとするみたいに。

その瞬間、電車の風がさらに強くなった。
耳が痛くなるほどの音。
視界の端で、車体の影が迫る。

——間に合わない。

そう思った瞬間、後ろから腕が伸びてきて、私と和馬をまとめて引っ張った。
大人の力。
強い。
一瞬で世界が引き戻される。

私たちは踏切の外へ転がり出た。

次の瞬間、電車が踏切を通過した。
轟音。
風圧。
地面が震える。

私は息を吸って、吐いた。
吸えた。
生きてる。
和馬も、ここにいる。

「救急車!」
誰かが叫ぶ。救急車と叫ぶ声。
私の肩が誰かに支えられる。

「この子も怪我してる!」
別の声。

私はその声に反応できなかった。
痛みが遅れて全身を覆って、意識が遠のきかける。

それでも私は、和馬の袖を掴んだまま離さなかった。

「……萌奈」
和馬の声が、かすかに聞こえた。

私は泣きそうな顔のまま、笑いそうになった。
愛想笑いじゃない。
泣き笑いに近い、壊れた笑い。

「……ばか」
私は言った。
「無理、するなって言ったのに」

和馬は、目を細めた。
笑おうとして、やめた。
約束を守るみたいに。

「……ごめん」
息をするのも苦しそうなのに、彼は言う。
「でも……萌奈が、進んだ」

その言葉で、私の胸の奥が熱くなった。
痛みじゃない。
誇りみたいな熱。

私は、息を吸って、吐いて。
震える声で言った。

「それでも私は、進む事を諦めない」

たった数センチでも。
這ってでも。
血が滲んでも。
怖くても。

私は、進める。

和馬の手が、私の指先を握った。
弱い力。
でも、確かにそこにある力。

救急車のサイレンが近づいてきた。

私は空を見上げた。
夕方の空は薄い色で、星はまだ見えない。
でも、見えないだけで、そこにある。

きっと私たちも、そうだ。

エピローグ そして、三年生の夏休みが始まる

踏切の一件から、時間は歪んだみたいに過ぎていった。

救急車のサイレン。
救急外来の白い天井。
私は膝の傷を縫われながら、痛みとは別の場所がずっと痛かった。
和馬は――別の処置室へ運ばれていった。

「落ち着いてください」
看護師さんが何度も言った。

落ち着けるわけがない。
私はあのとき、進んだ。
進んでしまった。
一歩でも、数センチでも、和馬に向かって這った。

それは誇りだった。
でも同時に、怖さでもあった。

“進む”ってことは、誰かを失うかもしれない場所に足を踏み入れることでもある。
私はそれを、踏切で知った。

——その後、和馬は助かった。
命に関わる最悪の事態にはならなかった。

でも医師の言葉は冷たく、はっきりしていた。

「心臓への負担が大きい状態です。手術の必要性は高い。できるだけ早い選択が望ましい」

早い。
その言葉は、私の中の時計を無理やり進めた。

そして春。
私たちは三年生になった。

桜は今年も咲いた。
去年と同じように校門の近くを淡い色で埋めたのに、私の中は去年と違う。
同じ季節が来ても、同じ私ではいられない。

——和馬の手術は、海外で受けることになった。

詳しい国名を聞いたとき、私は頭の中で距離を計算してしまって、自分に嫌気が差した。
大事なのは距離じゃない。
和馬が「行く」こと。
「戻ってくる」保証がないこと。

でも、私はもう逃げないと決めていた。


出発の日。

空港は、苦手なものの集合体みたいな場所だった。
照明が明るく、音が反響して、人の匂いが混ざり合う。
スーツケースの車輪の音が床を叩くたび、私の頭の奥がじんじんした。

痛みの波も来ていた。
朝から肩が熱く、腕が重い。
無理をしたくない。でも、今日は来たかった。

私は杖を使っているが立っている。
大丈夫じゃない。
でも、立って進む。

搭乗ゲートの前に、和馬が立っていた。

制服じゃない私服の和馬は、少しだけ大人に見えた。
それなのに、相変わらず細い。
顔色は前より良いけれど、それが逆に現実感を増す。

“行ってしまうんだ”って。

和馬の母親が、書類を抱えながら私たちに頭を下げた。

「萌奈ちゃん……ありがとうね。和馬、あなたのおかげで助かった部分もあるのよ」

私はうまく返事ができなかった。
“助かった”という言葉は、私にとって簡単じゃない。
助けたかった。
でも助けることは、怖かった。

和馬の母親は涙をこらえるように微笑んで、少し離れた。
二人きりの距離が残る。

和馬が、私の前で立ち止まった。

「萌奈」
名前を呼ばれる。
その二文字が、胸に落ちる。

私は、和馬の顔を真っ直ぐ見た。
空港の明るい照明の下で、和馬の目はちゃんと私を見ていた。
へらへらじゃない。嘘の笑顔じゃない。
約束どおりの顔。

「……行くの?」
私は今さらみたいなことを言った。

和馬はうなずいた。
「行く」

それだけで十分なはずなのに、私は言葉を足した。

「……怖い」
声が震えた。
痛みのせいじゃない。

和馬が少しだけ眉を下げた。
「俺も怖い」

その正直さが、私を救った。
怖いのを隠される方が、もっと怖いから。

「でも」
和馬が続ける。
「逃げない。萌奈が踏切でやったみたいに、俺も進む」

踏切。
あの瞬間を思い出すと、膝の古傷が少し疼いた。
傷は治っても、記憶は残る。

私は唇を噛んで、うなずいた。

「……無理はしないで」
私のいつもの言葉。
でも今は、願いの形をしている。

和馬は、ほんの少し笑った。
約束を破らない笑い。

「萌奈もな。痛いときは痛いって言えよ」
そう言って、私の目線に合わせた。

「それでさ」
和馬が言う。
「戻ってきたら、また作戦会議しよう」

私は一瞬、息が詰まった。
戻ってくるって言葉を、簡単に使ってほしくないと思ってしまう。
でも和馬は、簡単に言っているんじゃない。
自分に言い聞かせている。

私はその強さが、少し眩しい。

「……同盟?」
私が言うと、和馬はうなずいた。

「同盟」
それから、真剣に付け足す。
「解散しない」

私は胸の奥が熱くなって、少しだけ視線を逸らした。
泣きたくなるのを隠すために。

「……解散したら、怒るから」
精一杯の強がり。

和馬が、少しだけ息を吸って、吐いた。
そして、私の指先にそっと触れた。
握るほどじゃない。指先だけ。

私がそうしたみたいに。

「約束」
和馬が言う。

「……約束」
私も言った。

搭乗案内のアナウンスが流れる。
和馬の肩がわずかに揺れた。

行く時間だ。

和馬は一歩下がって、私の顔を見たまま言った。

「萌奈」
もう一度名前を呼ぶ。
「ありがとう。踏切で、進んでくれて」

私は喉がきゅっとなって、うまく言葉が出なかった。
代わりに、息を吸って、吐いて、震える声で言った。

「私は、進む事を諦めないから」
私は自分に言い聞かせるみたいに言った。

和馬は、うなずいた。
嘘の笑顔じゃない顔で。

そして、行った。

背中が遠ざかっていく。
人波に紛れて、見えなくなる。
私はその最後まで、目を逸らさなかった。
進む。
止まらない。
泣きながらでも、進む。


半年は、短いのに長かった。

痛みは相変わらずで、波は容赦なく来る。
眠れない夜も、霧で言葉が出ない日もあった。
でも私は少しずつ、“整え方”を覚えた。

休むことは負けじゃない。
遅れることは終わりじゃない。
できない日は、できない日だ。

それでも、進める日はある。
ほんの数センチでも。

和馬とは時々、メッセージをした。
時差のせいで返事が遅れることもあった。
返事が来ない夜は、私は不安で胸が苦しくなった。

でも、朝になると短い一文が届く。

『生きてる。今日は検査。
萌奈は?』

その短さが、逆に現実だった。
きれいな言葉より、存在の報告が救いになる。

そして、季節がまた回った。

——三年生の夏休みが始まる。

終業式の日の帰り道。
駅前は、蝉の声でいっぱいだった。
空が青すぎて、目が痛い。
でも冬の冷たさより、夏の痛みの方がまだましな日もある。

私は駅の改札前で、立ち止まった。

人の流れ。
スーツケース。
旅行に行くような笑い声。

その中に、見覚えのある背中があった。

細い。
でも、以前より少しだけ肩がしっかりしている。
背筋が、ほんの少し伸びている。

私は息を止めた。
止めたら痛みが増えるのに、勝手に止まった。

その人が振り返る。

——和馬。

目が合った瞬間、世界の音が少しだけ遠のいた。
蝉の声も、人の声も、改札の音も。
全部が背景に溶ける。

和馬は、一歩だけ近づいて、立ち止まった。
へらへら笑わない。
でも、確かに笑っている。
嘘じゃない笑顔で。

「……ただいま」
和馬が言った。

私は喉が震えて、言葉が詰まった。
霧じゃない。
感情が多すぎて、言葉が追いつかない。

それでも私は、前に歩いた。
ほんの数センチ。
でも確かに、自分で選んだ動き。

「……おかえり」
やっと言えた。

和馬がうなずいて、私の視線に合わせる。

「作戦会議、する?」
和馬の声が、あの空っぽの教室の声と同じだった。

私は、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。
愛想笑いじゃない。
ここにいるっていう合図の笑い。

「……する」
私は言った。
「夏休み、始まったし」

和馬が、息を吸って吐いた。
健康な人みたいに見える呼吸じゃない。
でも、ちゃんと前に進んでいる呼吸。

私はその呼吸の音を聞きながら、思った。

進むって、走ることじゃない。
進むって、完璧になることじゃない。
進むって、痛みや怖さを抱えたままでも、ほんの少しでも前へ向くこと。

そして私たちは、また同じ季節で出会い直した。

三年生の夏休みが、始まる。

——それでも私は、進む事を諦めない。


夏休み初日、空っぽの教室で

「作戦会議、する?」

改札前でそう言った和馬の声は、変わっていないはずなのに、私の胸の奥で鳴り方が変わった。
半年ぶり。
その数字が現実みたいで、現実じゃない。

「……する」

そう答えた私の声は、思ったよりちゃんと出た。
泣きそうで、笑いそうで、どっちつかずのままなのに。

駅の外に出ると、夏の熱が一気に肌に張りついた。
アスファルトが照り返して、光が痛い。
でも冬の冷たさよりましだ――そう思ってしまう自分が、少しだけ悲しい。

和馬は、私の横を歩いた。
歩幅を合わせる、っていうより、呼吸を合わせるみたいな歩き方だった。
急がない。
前に出ない。
それが“気遣い”じゃなく、“癖”になっているのが分かる。

「……体、どう」
私は、例の聞き方を選んだ。
「息、苦しい?」

和馬は少しだけ迷ってから、正直に言った。

「うん。たまに」
そして、付け足す。
「でも、前よりはマシ」

前よりは。
それも、私がよく使う言葉だ。
“ゼロにはならないけど、進める範囲が増える”っていう、あの感じ。

私たちは学校へ向かった。
夏休み初日なのに、学校。
普通じゃない。
でも私たちの“普通っぽさ”は、たぶんこういう形でしか手に入らない。

校門をくぐると、空気が少しだけ涼しくなった。
誰もいない廊下。
体育館から遠くで部活の声がする。
でも、それすら遠い。

「空っぽって落ち着くよな」
和馬がぽつりと言った。

「……落ち着く」
私は認めてしまった。
空っぽは、視線がない。
説明しなくていい。
笑わなくていい。

二年二組の教室。
引き戸を開けると、埃っぽい匂いが少しして、私は思わず鼻をつまみそうになった。
過敏な日だと、こういう小さな刺激が刺さる。

でも今日は――たぶん、“進める日”だ。

和馬が窓を少し開けて、風を入れた。
カーテンが揺れて、光が床に白い線を落とす。

「ここ、変わってないな」
和馬が笑った。へらへらじゃない、約束を守る笑い方。

「変わったのは……私たちだけ」
私が言うと、和馬は一瞬だけ目を細めた。

「うん。変わった」
それから、椅子を引いて座り、私の方を見た。
「作戦会議、何から?」

私は机の上に、いつもみたいにノートを置いた。
“作戦会議”って言葉があるだけで、心が少し整う。

「夏休みの作戦」
私は言った。
「一つ目。無理しない」

和馬が即うなずく。
「それ、最重要」

「二つ目」
私は続けた。
「嘘の笑顔、しない」

和馬が笑いかけて、途中でやめた。
「うん。しない」

「三つ目」
私は言葉を選んで、ゆっくり言った。
「……会える日は、会う」

和馬の視線が揺れた。
泣きそうな顔ではない。
でも、堪えている顔。

「……うん」
和馬は息を吸って、吐いた。
その呼吸が、少しだけ重い。
でも、ちゃんとある。

私は指先をぎゅっと握った。
痛みはまだある。
肩の奥がじわじわ熱い。
手首が少しうずく。

それでも私は、言わなきゃいけない気がした。
踏切で進んだあの瞬間から、私はもう逃げないって決めたから。

「和馬」
名前を呼ぶ。
教室の空気が、その二文字で少しだけ震える。

「……怖かった」
私は言った。
「半年、ずっと」

和馬は黙った。
そして、嘘の笑顔じゃない顔で言った。

「俺も」
それから、指先で机を軽く叩いて、いつもの逃げ道を作るみたいに続けた。
「でもさ、萌奈。怖いって言える相手がいるの、前よりマシだと思わない?」

私は返事に詰まって、視線を逸らした。
悔しい。
その言葉が正しすぎて。

「……ずるい」
私は小さく言った。
「そういう言い方」

和馬が、声を出さずに笑った。
そして、少し真面目に言う。

「じゃあ、次の作戦」
和馬が言った。
「俺、リハビリがある。萌奈も、体調いい日は……ちょっとだけ外、行こう。ほんの少しでも」

ほんの少し。
それが、私たちの世界では大きい。

「……分かった」
私はうなずいて、それから付け足した。
「でも、痛い日はやめる」

「やめる」
和馬も真似して言った。
「それは逃げじゃない」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
痛みが消えたわけじゃない。
でも、痛みの上に乗る“罪悪感”が少し薄くなる。

窓の外で、蝉が鳴いた。
夏が始まった音。

私は歩く。
教室の真ん中へ。
和馬の近くへ。

ほんの数センチ。
でも、私が選んだ動き。

和馬がそれを見て、息を吐いた。

「……萌奈、進んでる」
小さな声。
褒めるみたいじゃなく、確認するみたいな声。

私は、言った。

「それでも私は、進む事を諦めない」

和馬は、うなずいた。
嘘の笑顔じゃない顔で。

「うん」
それから、少しだけ笑った。
「同盟だから」

空っぽの教室に、風が通った。
夏の匂い。
未来の匂い。

痛みはある。
怖さもある。
それでも、私たちはここからまた、進む。

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