消防団員という誇り

田舎では消防団という組織がある。
一般市民で構成されていて、わずかな報酬、もしくはボランティアの場合もある。
うちの親父も消防団員だった。夜中に防災無線か火災の一報が入ると、黒に赤い配色のハッピを着て出かけていた。
ある時親父が言ってた。
火事の炎を目の当たりにすると、足がすくんで前に進めないんだよ。

話はさかのぼり、29年前の8月のお盆シーズンに入った頃、自分も母の実家で夏休みを過ごしていると朝からニュースに大惨事の映像が流れていた。
日本航空123便が、高天原山の尾根に墜落(報道では御巣鷹山と報道された)したのだった。

絶望的と思われていたとき、テレビには自衛隊のヘリに救出される映像が映し出されていた。
この映像は繰り返し放映され、印象に残るシーンになった。
そのシーンからさかのぼること数時間前。

問題があった、墜落現場は尾根にあたり、樹木に阻まれ救助のヘリが降下できない。
このままじゃ、手遅れになっちまう!
上野村消防団は飛行機の残骸で担架を作り4人を山の頂上まで運んでいった。4、5時間かかった。

頂上近くになると、カメラマンが近寄ってきて、シャッターをきる。消防団のひとりが大声でカメラマンを追っ払っていた。
また、ひとりは自分のハッピを彼女たちにそっとかけていた。

頂上につくとあとは自衛隊のヘリに救出され、先なほどのシーンになる。

その間消防団員たちは後ろに下がり、彼女たちが救出されるのをみていた。
当時のテレビのシーンではどこにも消防団員姿は写っていない。

あの当時を振り返るとき、消防団員にきいていた。救出の際、貢献が高かったのになぜそんなに後ろにいたんですか?


俺たちの仕事は、尾根から頂上までだ。
あとは任せてたから、後ろに下がったまでだ。
一枚の写真があった。
救出の際、撮られた写真で、隅に小さく消防団員の安堵した顔が映し出されていた

だが、本当の地獄はそのあとだった。
何百人となる遺体の回収。人よっては、ショックが大きく精神的に蝕まれてしまった人もいたそうです。

親父も当時、必死にホースをもって走ってたかと思うと尊敬する。