沖縄 慰霊の日

今回のブログには言葉の表現、使い方が適切でない場合もあります。先にお詫びいたします。
また、戦争の話となりますので、不愉快に思われる方もいらっしゃると思いますので、その場合は閉じていただくことをおすすめします。

沖縄 慰霊の日
文字だけでは一体今日が何の日なのか、わからない人もいらっしゃるかもしれません。
私もそのひとりです。
では、何の日なのか。
1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている日を定め慰霊の日としています。
Wikipediaより。
となっています。これでもわかりづらいと感じます。
やはり沖縄戦を知らずには、慰霊の日は伝わらないかもしれません。
沖縄戦の内容は悲惨そのものです。数字のデータだけでも、抜粋しました。

陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど太平洋戦域における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射されたまた、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」「鉄の暴風」とよんだ。
Wikipediaより抜粋

沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。このほか、朝鮮半島出身の土木作業員や従軍慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もあるなお、地上戦域外での病死者や餓死者、県外疎開中の死者等を加算した沖縄県出身の死者数は15万人以上と推定されている。
Wikipediaより抜粋

いかに激しい戦闘だったか。
69年前の今日を迎えるまでの2ヶ月間はどうだったのでしょうか。武器も持たない9万4千人の民間人の犠牲。言葉にはできないほどの恐怖の体験だったでしょう。

昔、歴史の授業で沖縄戦を少しふれました。
その時印象に、残ったのが話が
県民の方で、戦いの時一番怖かったのは、アメリカ軍ではなく、旧日本軍だったと。
捕虜になるなら、自決しろと命令されたという話があったのです。
当時から沖縄県民にはいかに負担を押しつけをてきたことか。日本人として大変申し訳なく思います。
今日でも基地で負担をかけています。昔田舎にいたときは、三沢基地から戦闘機が昼夜関係なく、しかも低空で飛んできて、騒音で大変な思いをしたことを覚えています。
少しでもわかったような感じを出して、申し訳ないです。
旧日本軍は、原子爆弾投下までまだ戦いを、終えようとはしませんでした。さらに犠牲を出していくのです。
原子爆弾投下と終戦日はわかっていても、今日という日はなかなか出てきません。
平和はただではありません。
平和はたくさんの犠牲者の命の上あります。
平和はあなたの気持ちも大切です。

大人はなぜ子供に戦争の話をしないのでしょうか。
悲惨なこと、苦しいことは伝えたくなかったのでしょうか。
祖父も祖母も当時の話をする事は、ありませんでした。戦争を知らない世代が全体を占め、まさに風化した昔の話になりつつあります。
1000年前の歴史は知らなくても、80年ぐらい前は知っておく必要があるような気がします。

黙祷。