攻撃側から英雄へ

今日は終戦記念日。

長い長い戦争が終結した日です。

今回は終戦後の話を紹介します。

ただ一人、アメリカ本土を攻撃した日本兵がいました。

藤田信雄さんは帝国海軍の潜水艦からカタパルト発射で飛び立ち、アメリカ本土爆撃を敢行しました。この作戦での生還は望めないと思った藤田さんは家族に遺書を残して出撃しました。

アメリカ軍のレーダーをかいくぐり、
昭和17年9月9日、オレゴンの山中に焼夷弾2発を投下し、その20日後にも同じく2発を投下します。計2回の爆撃を行いました。
帰還の際、米粒より小さい潜水艦を見つけ、死ぬ思いで帰ってきました。

帰還後、将校からは攻撃した成果は、木をへし折っただけかと、散々怒鳴られたそうです。

そして、70年前に終戦を迎えます。

戦後、藤田さんは茨城県土浦で金物店を経営していました。
ところが昭和37年5月に突然、政府に呼ばれ、池田勇人首相からアメリカ政府が藤田さんを捜していると言われました。

そして、オレゴン州ブルッキングス市から「貴方の勇気と愛国心に敬意を表したい」との招待状が届いたのです。
「戦後、日本でも評価されたことがないのに、敵国アメリカが敬意を表すわけがない」「もしかしたら戦犯として裁かれるのか」とも考えて、藤田さんは万一に備えて自決用に伝家の日本刀を持ってアメリカに行きました。

ところが、アメリカでは熱烈な歓迎が連日続き、名誉市民のキーまで授与されたのです。
この歓迎に藤田さんは自らの不明を恥じて、伝家の日本刀をブルッキングス市に贈りました。
藤田さんは懐の広いアメリカに感激し、昭和60年、つくばで行われた科学万博にブルッキングス市から3人の高校生を招きました。するとレーガン大統領は「アメリカ国民を代表して心から感謝する」とサイン入りの手紙が送られてきました。


平成2年に再度ブルッキングス市を訪問し、図書館に1000ドルを寄付しました。
平成4年にはブルッキングス市に3度目の訪問を行い、自分の爆撃によってへし折られたレッドウッドに代えて苗木を1本植えました。

平成8年、84歳の藤田さんはブルッキングス市長等を乗せてセスナを操縦し、かつて藤田がアメリカを爆撃した同じルートを案内しました。
平成9年、ブルッキングス市から藤田さんに「名誉市民賞」が贈られます。しかし、その直後に藤田さんは亡くなりました。85歳でした。

平成10年10月6日、藤田さんの遺族は藤田さんの遺灰を持ってオレゴン州ブルッキングス市エミリー山を訪問、そこには『日本軍による爆弾投下地点』という標識がありました。そしてこの場所に6年前に藤田さんが植えた1本の苗木がありました。そこに遺灰を埋め、同行した野村晴彦氏がフルートで「アメリカ国歌」と「君が代」「海ゆかば」を吹奏しました。

かつて自分たちの土地を空爆した日本兵の遺族をブルッキング市民は歓待しました。
戦争で芽生えた交流として、今もブルッキングス市立図書館には「フジタコーナー」があり、そこには藤田さんが寄贈した日本刀が飾られているのです。 

戦争という悲惨な時代から終戦を迎え、両国の国民では平和の絆を育んできました。

決して戦争を美化する訳ではありませんが、平和への貢献は個人でも、できることを教えてくれました。

平和を守るため、同盟国への支援として、弾薬や装備にお金をつぎ込んだとしても誰も助けられません。

病気や餓えている子供を助けることはできません。

それに引き替え、藤田さんの行動は日本人だからできる、平和への活動だと思います。

英雄とは藤田さんのことを言うのかもしれません。