自分は電車で、目の不自由な人を見ても、手助けしません。
車イスの人も手助けはしません。
何故なら、その人の日常を乱すことは、したくないからです。
自分は昔で言う、ホームヘルパーを受講しています。
そこで教わったことは、利用者のQOL、クオリティーオブライフをいかに高めるのが、仕事だと教わりました。
自立した生活、それはとても大切だと、なんども言われたことです。
それが手伝わない理由ですが、それは都合のよいエゴかも知れません。
仮にその日、自分が手助けしたとしても、明日も同じ時間に手伝えるとは限らないのです。
今日電車が走り去ったホームに目の不自由なひとと、それを気遣う若者がいました。
その若者は、頭は金髪で、鼻とかにピアスをあけてる人物です。
しきりに相手を手伝おうとしてますが、相手からしきりに、大丈夫ですと言われている感じでした。
でも、若者は心配で仕方ないようで、一緒にいるのでした。
階段まで来ると、その若者は一生懸命支えてあげようとして、手を出しているのですが、相手には、大丈夫ですと、断られているのでした。
そんなとき、手を出してもダメだよ。
相手の手を肩に載せてもらい、自ら前を一歩ずつ声をかけながら進まないと危ないよ。
そんなことが自分の頭の中を、横切って行ったのです。
受講の時、言われたことが、瀞音さんは体が大きいし、力もあるから少しぐらい無理しても何とかなるでしょう。
でもそれは、必ず自分の体が怪我をするだけです。それに利用者にも怪我をさせるでしょう。そうならないためにも、きちんと知識を身につけてください。それが、自分の体、そして利用者も守ることになるのです。
もう、あの時の勉強したことは、ほとんど忘れて、何も覚えてないけど、何故かQOLだけは、頭から離れず覚えているのです。
そんな知識を持っても何もしない、自分と、その若者を比べるとどちらか正しいのでしょうか。
自分は思うのです。人に親切にするのに、正しいも間違ってるもそんなことはないと思うのです。
人は人に親切にするのはとても大変だし、勇気だって必要です。
人に冷たくするのは、いたって簡単です。
その人の前を、目を閉じて、耳をふさぎ通り過ぎればいいだけです。
そう、自分もその内の一人なのです。
若者は一見、チャラチャラした見た目でも、人のために何かしてあげようと思う、心の持ち主なのです。
確かに、理屈だったり、知識はないかも知れませんが、自分より何倍も人間だし、日本人だと思う。
昔、日本人はみんな貧乏で大変な生活だったけど、助け合いながら生きてきた。
人のために何かをしてあげる、美徳とも言える真心を持っていた。
そんなことを考えさせる若者だった。
最後に、目の不自由な人が、手助を求めてるサインて知ってました?
私は一年前まで知りませんでした。
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白杖を頭上50センチに掲げているときは、何らかの手助けを必要としています。
このサインは、九州で普及活動をしていて、全国共通になるように今運動の真っ最中なのです。
このサインを見かけたときは、あなたの真心で手伝ってあげてください。
一人で無理な場合は、周りに声をかけてください。日本人はみんな真心を持ってます。きっと助けてくれるはずです。
私はいつも自分の視界から、消えるまで見守っています。
目の届く範囲の人ぐらい、助けてあげたいのです。
だから、自分は助けず見守るのです。