秋葉原の通り魔の犯人が、ほぼ死刑が確定した。
2008年から6年たちまだ生々しい記憶が残っている。
遺族の悲しみは癒えることなく、今日という日を迎えた。
裁判長は用意周到であり、計画性があり、残忍極まりない行為。
よって死刑とする。
死刑にしたら事件は終わりなのだろうか。
確かにこれで裁判は終わり終止符が打たれたかのように思える。
だが肝心な動機が自分勝手の被害妄想で情状酌量の余地がないとしていいのだろうか。
検事からは事件の事実と動機がくる。
でも、なんで、その動機になるまでに至ったのかまでは、照査されているのだろうか。
それは弁護士の仕事。そうかもしれない。
残忍な事件が起きました。はい。死刑にしました。はい。終わり。
日本はその繰り返し。
根本なことは、一切触れられずそのまま闇に落ち、人々の記憶から消えてなくなる。
そしてまた同じ事件が起きる。
犯人の闇は、犯人にしかわからない。
それを知るすべは日本の制度にはない。
よく、死んで償えとよくきく。
それぐらい日本は極刑の歴史が長い。
邪魔な者は殺してしまえ。
罪を犯した者は死刑にしてしまえ。
実は日本人とはそう言う民族だということ気付く。
自分は死刑制度を特に賛成も反対でもない。
なくなった命は、犯人の命で償えるものではないという考えだ。
それならば終身刑で一生償うべきだと思う。
犯人が生きていることが、許せないかもしれない。
でも、何十年後手記にして、心の闇がわかり、第二第三の事件が防げるかもしれない。
まあ、この考えは甘っちょろい、戯れ言かもしれないが。