第1章 透明な僕と、名前を呼ばれない彼女
自分は、何もできない人間だ。
それが、僕――神崎 悠真が長い間抱いてきた、揺るがない結論だった。
勉強は平均。運動は平均より少し下。
クラスで目立つタイプでもなければ、誰かの中心に立つこともない。
だからといって、いじめられているわけでも、孤立しているわけでもない。
友達はいる。
昼休みには一緒に弁当を食べ、放課後にはくだらない話をして笑う。
それなりに、平穏だ。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥に、いつも薄いガラスの膜が一枚あるような感覚があった。
――僕は、ここにいてもいなくても同じなんじゃないか。
そんな考えがふと浮かぶたび、慌てて打ち消す。
考えすぎだ。
みんな、そんなものだ。
そうやって、今日も一日が終わる。
「神崎ー、帰ろうぜ」
放課後、教室で声をかけられ、僕は顔を上げた。
クラスメイトの男子が、鞄を肩にかけて立っている。
「うん、今行く」
席を立ち、教室を出る。
夕方の廊下は、少しだけ涼しくて、どこか気だるい。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
オレンジ色に染まり始めた空の下、僕たちは並んで歩いた。
他愛のない会話。
動画の話、ゲームの話、テストの愚痴。
笑って、うなずいて、相槌を打つ。
それで十分なはずなのに。
ふと、視線が前方に引き寄せられた。
少し先を歩く、ひとりの女子生徒。
長い黒髪が、背中にまっすぐ落ちている。
歩き方は静かで、足音すら聞こえないようだった。
――水瀬 音羽。
同じクラスの女子。
だけど、話したことは一度もない。
彼女は、いつもひとりだった。
休み時間も、昼休みも、放課後も。
誰かと笑っているところを、見たことがない。
自分から話しかけることもなければ、誰かに話しかけられている様子もない。
まるで、クラスの中にいながら、少しだけ別の世界にいるみたいだった。
今もそうだ。
周囲を気にすることなく、ただ前を見て歩いている。
「……なあ、どうした?」
友達に言われて、はっとする。
「いや、なんでもない」
視線を戻し、歩き続ける。
彼女との距離は、自然と少しずつ離れていった。
角を曲がり、彼女の姿が見えなくなったとき、
なぜか胸の奥が、ちくりと痛んだ。
理由は分からない。
ただ、見送ってしまった気がした。
*
翌日も、学校はいつも通り始まった。
朝のホームルーム。
教室に流れるざわめき。
窓から差し込む光。
水瀬 音羽は、窓際の席に座っていた。
机に肘をつき、頬杖をして、外を見ている。
その横顔は、感情が読み取れないほど静かだった。
誰かが彼女の名前を呼ぶことはない。
彼女自身も、誰かの名前を呼ばない。

――不思議な人だな。
そう思ったのは、きっと僕だけじゃない。
でも、誰もそれ以上踏み込まない。
それが、このクラスの暗黙の了解だった。
昼休み。
友達と弁当を食べながら、何気なく彼女の方を見る。
音羽は、ひとりで弁当を食べていた。
周囲を気にする様子もなく、静かに。
その姿は、孤独というより、最初からそう決めているみたいだった。
――ひとりでいることを。
なぜか、目を逸らしたくなった。
*
放課後。
教室を出る準備をしていると、友達が言った。
「なあ悠真、今日カラオケ行かね?」
唐突な誘いだった。
「え……?」
「ストレス発散! たまには歌おうぜ」
正直、気が進まなかった。
歌は得意じゃないし、人前で歌うのは苦手だ。
でも、断る理由も思いつかず、僕はうなずいた。
「……いいよ」
そう答えた自分に、少し驚いた。
*
カラオケ店の前に立ったとき、
胸の奥がざわついた。
ガラス扉の向こうへ、先に入っていく女子生徒が見えたからだ。
長い黒髪。
見覚えのある後ろ姿。
――まさか。
心臓が、強く跳ねる。
水瀬 音羽だった。
こんな場所で会うなんて、想像もしていなかった。
彼女は、ひとりで来ているようだった。
声をかける?
いや、無理だ。
そもそも、何を言えばいい?
結局、僕は何もできず、友達の後ろについて店に入った。
*
個室に入ると、友達はさっそく曲を入れ、盛り上がり始めた。
僕はソファの端に座り、グラスを手に持つ。
笑っている。
ちゃんと、笑っているはずだ。
なのに、意識は別のところにあった。
――水瀬さん、ひとりで来てたな。
そのとき。
どこからか、歌声が聞こえてきた。
最初は、気のせいかと思った。
でも、次第にそれははっきりとした音になっていく。
澄んだ声。
まっすぐで、透明で、胸にすっと入り込んでくる。
思わず、息を止めていた。
壁越しに聞こえてくるだけなのに、
心を掴まれて離されない。
――なんだ、これ。
こんな歌声、聞いたことがなかった。
その声が、誰のものなのか。
考えなくても、分かってしまった。
胸が、ざわざわと波打つ。
「……ちょっと、ドリンク取ってくる」
自分でも驚くほど、早口でそう言って、僕は部屋を出た。
廊下に出ると、歌声はさらに鮮明になる。
足が、勝手に動いていた。
音に導かれるように。
そして――
ある部屋の前で、自然と足が止まった。
ドアの小さなガラス窓。
そこから見えたのは、マイクを握る水瀬 音羽の姿だった。
目を閉じて、歌っている。
誰にも見られていないと思っているのか、
その表情は、学校で見る彼女とはまるで違った。
感情が、音になって溢れている。
曲名は、あとで知ることになる。
でもこのときは、ただ――。
――綺麗だ。
そう思った。
それだけで、胸がいっぱいになった。
でも。
僕は、その場を離れた。
見てはいけないものを見てしまった気がして。
踏み込んではいけない世界を、覗いてしまった気がして。
何事もなかったように、ドリンクを手に取り、
自分の部屋へ戻る。
歌声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
だけど。
胸の奥に残った何かは、
その後もずっと、消えなかった。
第2章 群青の正体と、気づいてしまった感情
あの日から、胸の奥に沈んだ音が、消えなかった。
授業中、ノートを取りながらふと顔を上げると、
窓際の席に座る水瀬 音羽が視界に入る。
彼女はいつも通り、外を見ている。
何を考えているのか分からない、静かな横顔。
――本当に、あの子が……?
カラオケで聞いた歌声と、今目の前にいる彼女が、
どうしても結びつかない。
学校の水瀬 音羽は、音がしない。
存在はあるのに、主張がない。
でも、あの歌声は違った。
強くて、まっすぐで、心を震わせる音だった。
同じ人間だなんて、信じられなかった。
*
昼休み。
友達と弁当を食べながら、何度も視線が彼女に向かう。
音羽は今日もひとりだ。
机に置いた弁当を、静かに食べている。
誰とも目を合わせず、
誰とも言葉を交わさない。
それなのに、なぜか――。
僕は、彼女がひとりでいる理由を、
勝手に知ってしまった気がしていた。
あの歌声は、
誰かに聞かせるためのものじゃない。
きっと、彼女自身が生きるための音だ。
そんな考えが浮かんで、
慌てて首を振った。
――何考えてるんだ、僕は。
たった一度、偶然聞いただけだ。
それだけで、何かを分かった気になるなんて。
だけど。
心は、もう元の位置に戻らなかった。
*
放課後。
校舎を出ると、風が少し冷たかった。
友達と並んで歩きながら、
会話の内容は頭に入ってこない。
気づけば、また彼女の姿を探していた。
少し先を歩く、ひとりの背中。
今日も、誰とも並ばずに歩いている。
音羽だ。
同じ帰り道。
同じ時間。
なのに、距離は縮まらない。
――話しかける?
そんな考えが頭をよぎって、
すぐに打ち消す。
無理だ。
僕には、理由がない。
声をかける言葉も、
関係も、何もない。
角を曲がる直前、
彼女がふと立ち止まった。
胸が跳ねる。
……でも、ただ靴紐を結び直しただけだった。
情けなくなって、視線を逸らす。
*
その夜、僕はベッドに寝転がり、
スマホを天井に向けて持ったまま、ぼんやりしていた。
頭の中で、あの歌声が流れる。
歌詞までは分からない。
でも、メロディーだけが、何度も何度も繰り返される。
――あれ、なんて曲だったんだろう。
気づけば、スマホで検索していた。
「女性 カラオケ 透き通った声」
「静かな曲」
いくつもの結果が出てきて、
その中のひとつを、何気なく再生した。
流れてきたイントロ。
――これだ。
胸が、強く締めつけられた。
曲名は、「群青」。
画面の向こうから聞こえる歌声は、
確かに綺麗だった。
でも、違う。
あの日聞いた声は、
もっと近くて、もっと生々しくて、
胸の奥に直接触れてきた。
――水瀬さんの声は、特別だった。
そう思ってしまった自分に、
少しだけ戸惑った。
*
次の日。
音楽の授業で、歌う時間があった。
クラスの空気は、いつも以上にざわつく。
誰が上手いだの、音程が外れてるだの。
順番が回ってきた音羽は、
静かに前に立った。
マイクを持つ手が、わずかに震えている。
――もしかして。
彼女は、歌うのが嫌いなんじゃないか。
そう思った瞬間、
彼女は歌い出した。
……違った。
声は抑えられていた。
カラオケの時のような解放感はない。
それでも、確かに上手い。
教室が、静まり返る。
誰も、からかわない。
誰も、笑わない。
ただ、聞き入っていた。
歌い終わると、
音羽はすぐに席に戻り、
何事もなかったように窓の外を見る。
拍手は、まばらだった。
でも。
僕の胸の中では、
さっきよりも強く、何かが動いていた。
*
――知ってしまった。
水瀬 音羽が、
ただ静かなだけの人じゃないこと。
誰にも見せていない世界を、
確かに持っていること。
そして。
僕は、その世界に、
強く惹かれている。
それに気づいた瞬間、
心臓が、少し怖くなった。
自分には何もできない。
そう思って生きてきた。
それなのに、
誰かの世界に触れたいなんて。
――身の程知らずだ。
でも。
このまま何もしなければ、
きっと、後悔する。
理由は分からない。
確信もない。
ただ、
あの群青の歌声が、
僕を前に押していた。
まだ、小さな気持ちだ。
名前もつけられない。
それでも。
僕の中で、
何かが確実に、始まっていた。
第3章 ひとりでいる理由と、踏み出せない一歩
水瀬 音羽が、ひとりでいる理由。
そんなもの、本人に聞かなければ分からない。
それなのに僕は、勝手に想像して、勝手に答えを作ろうとしていた。
――きっと、人付き合いが苦手なんだ。
――傷つくのが、怖いんだ。
どれも、根拠のない想像だ。
それでも、あの歌声を聞いてしまった今、
彼女を「ただ静かな人」として見ることは、もうできなかった。
*
朝の教室は、いつも通りざわついている。
友達同士の笑い声、机を引く音、
誰かの呼ぶ声。
その中で、水瀬 音羽は今日も窓際に座っていた。
外を見つめる横顔。
朝日が、彼女の髪をわずかに照らしている。
――話しかける?
胸の奥で、同じ問いが何度も繰り返される。
でも、答えはいつも同じだ。
無理だ。
理由がない。
きっかけもない。
「おはよう」
その一言すら、重すぎる。
彼女の静かな世界に、
土足で踏み込んでしまう気がして。
*
昼休み。
僕は、いつもより少し遅れて教室に戻った。
友達はすでに席に着いて、弁当を広げている。
僕も鞄から弁当を取り出し、ふと顔を上げた。
音羽は、席にいなかった。
珍しい。
いつもなら、もう食べ始めている時間だ。
窓際の席が、ぽっかりと空いている。
そこだけ、空気が薄いように感じた。
「……水瀬さん、どこ行ったんだろ」
思わず、独り言がこぼれた。
友達は気にする様子もなく、
動画の話を続けている。
僕は、弁当に手をつけないまま、
教室を見回した。
いない。
なぜか、胸がざわついた。
*
昼休みが終わる少し前。
彼女は、静かに教室へ戻ってきた。
手には、何も持っていない。
トイレでも、購買でもなさそうだ。
音羽は、何事もなかったように席に座り、
窓の外を見る。
――どこに行ってたんだろう。
聞けるはずもないのに、
気になって仕方がなかった。
*
その日の放課後。
僕は、用事もないのに校舎に残っていた。
家に帰っても、
きっと彼女のことを考えてしまう。
だったら、
ここにいた方がまだマシだと思った。
廊下を歩いていると、
音楽室の方から、かすかに音が聞こえた。

――歌?
心臓が跳ねる。
足音を立てないように、
そっと近づく。
音楽室のドアは、少しだけ開いていた。
中から聞こえてくるのは、
やっぱり、あの声。
水瀬 音羽だった。
マイクも、伴奏もない。
ただ、ひとりで歌っている。
誰に聞かせるでもなく、
誰にも見られずに。
それでも、声は迷いがなかった。
――ここだったんだ。
昼休み、
彼女が消えていた場所。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
彼女は、ひとりでいることを選んでいる。
でも、孤独を楽しんでいるわけじゃない。
ただ、ここでしか、
本当の自分でいられないんだ。
*
ドアの前で、
僕は立ち尽くしていた。
声をかける?
それとも、立ち去る?
足が、動かない。
もし、声をかけたら。
この静かな時間を、壊してしまうかもしれない。
でも、何もしなければ。
この距離は、永遠に縮まらない。
――どうすればいい。
歌が、終わった。
一瞬の沈黙。
ドアの向こうで、
音羽が小さく息を吐くのが分かった。
そのとき、
床が、きしっと鳴った。
――しまった。
音羽が、こちらを振り向く気配がした。
慌てて、僕はその場を離れた。
逃げるように。
*
その日の夜。
ベッドに横になっても、
眠れなかった。
音楽室での出来事が、
何度も頭の中で再生される。
――逃げた。
まただ。
何もできない自分。
声をかける勇気も、
一歩踏み出す覚悟もない。
それなのに、
彼女の世界に触れたいなんて。
――卑怯だ。
胸が、痛くなる。
*
翌日。
学校で音羽とすれ違った。
一瞬だけ、目が合った気がした。
でも、すぐに逸らされる。
……いや。
最初から、
僕なんて見えていなかったのかもしれない。
それでも。
僕の中で、
何かが決まりかけていた。
このまま、
何もしない自分でいたくない。
あの歌声を、
偶然として終わらせたくない。
まだ、方法は分からない。
勇気も、十分じゃない。
でも。
――このままじゃ、いけない。
その思いだけは、
はっきりと、胸に残っていた。
透明だった僕の中に、
ほんの小さな、色が差し始めていた。
第4章 ピアノと決意、母の言葉
「このままじゃ、いけない」
その言葉が、頭の中で何度も反響していた。
理由ははっきりしている。
何かを失うわけでも、誰かに責められるわけでもない。
それでも、このまま何もせずに日々を過ごしてしまったら、
きっと僕は、ずっと同じ場所に立ち尽くす。
水瀬 音羽の歌声を、
偶然として終わらせたくなかった。
あれは、たまたま聞こえてきた音じゃない。
僕の心に、確かに届いた“声”だった。
――でも、じゃあ何をすればいい?
答えは、簡単には出なかった。
*
家に帰ると、リビングからピアノの音が聞こえてきた。
ゆったりとしたテンポ。
正確で、柔らかい音。
母さんだ。
僕の母は、家で小さなピアノ教室を開いている。
子どもたちに囲まれて、楽しそうに教えている姿を、
僕は何度も見てきた。
でも、それは“母の世界”であって、
僕のものじゃないと思っていた。
ピアノは、難しそうで、
ちゃんとできない自分には向いていない。
そう決めつけていた。
――だけど。
リビングの前で、僕は立ち止まった。
鍵盤の上を、母の指が迷いなく走る。
音が重なり、空気が揺れる。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
もし――。
もし、この音で、
彼女の歌声と並べたら。
そんな考えが、
はっきりと形を持って浮かび上がった。
*
「……母さん」
自分の声が、少し震えているのが分かった。
母は演奏を止め、こちらを振り返った。
「どうしたの? 珍しいわね」
一瞬、言葉に詰まる。
今さら、と思われるかもしれない。
どうせ、すぐにやめると思われるかもしれない。
それでも。
「……ピアノ、教えてほしい」
言葉にした瞬間、
胸の奥で、何かが弾けた。
母は、驚いたように目を丸くした。
でも、すぐにふっと笑う。
「いいわよ」
その即答に、今度は僕が驚いた。
「……え?」
「やりたいって思った時が、一番いいタイミングよ」
母は、ピアノの椅子を軽く叩いた。
「座ってみなさい」
言われるまま、僕は椅子に腰を下ろす。
鍵盤を前にすると、
なぜか緊張で手が固まった。
「指、そんなに力入れなくていいの」
母は、優しく言う。
「音はね、叩くものじゃない。触れるものよ」
母の言葉に従って、
そっと鍵盤に触れる。
ぽん、と小さな音が鳴った。
たったそれだけなのに、
胸が、少しだけ軽くなった。
*
「何か、弾きたい曲はあるの?」
母の問いに、
僕は少しだけ迷ってから答えた。
「……群青」
母は、少しだけ驚いた顔をした。
「どうして?」
「……理由は、あるんだけど」
うまく言葉にできなかった。
歌声のこと。
彼女のこと。
全部、胸の奥にしまったまま。
母は、それ以上聞かなかった。
「いい曲よ。感情を乗せるのが、少し難しいけど」
そう言って、自分のレパートリー集から楽譜を取り出す。
譜面に並ぶ音符は、
正直、簡単そうには見えなかった。
――本当に、できるのか?
不安が、首をもたげる。
でも。
「最初から完璧に弾ける人なんて、いないわ」
母は、まるで僕の心を読んだように言った。
「大事なのは、続けること」
その言葉が、
胸の奥に、すっと入ってきた。
*
それから、僕の日常は少し変わった。
学校から帰ると、
リビングでピアノに向かう。
指は思うように動かない。
音は途切れ途切れで、
とても“音楽”とは言えない。
何度も、同じところでつまずく。
それでも、やめなかった。
なぜなら。
あの歌声が、
頭の中で、いつも流れていたから。
水瀬 音羽の、
誰にも向けていないはずの声。
それに、並びたかった。
*
学校では、相変わらず彼女と話せていない。
でも、不思議と焦りはなかった。
今は、準備の時間だ。
そう思えた。
文化祭まで、あと少し。
時間は、決して多くない。
それでも。
鍵盤に触れるたび、
少しずつ、音がつながっていく。
指が覚え、
耳が追いつき、
心が、前を向いていく。
――僕は、何もできない人間じゃない。
まだ、小さな一歩だ。
でも、確かに進んでいる。
母の背中を見ながら、
僕は強く、そう思った。
次に必要なのは――。
勇気。
彼女に、声をかけるための。
第5章 短い時間、近づく距離
文化祭まで、残された時間は思っていた以上に短かった。
カレンダーを見て、思わず息を飲む。
日付の横に丸をつけて数えてみても、現実は変わらない。
――間に合うのか。
不安が、胸の奥から顔を出す。
でも、それ以上に強い感情があった。
――やるしかない。
*
放課後、家に帰ると、僕はすぐにピアノの前に座った。
母は、必要以上に口を出さない。
少し離れたところから、静かに見守っている。
鍵盤に指を置く。
深呼吸。
最初の一音。
音は、まだぎこちない。
テンポも、安定しない。
それでも、最初に比べれば、
確実に“音楽”になり始めていた。
間違える。
止まる。
弾き直す。
その繰り返し。
正直、楽しいだけじゃない。
指は痛いし、集中力も続かない。
何度も、「もう今日はいいか」と思う。
でも、そのたびに、
あの歌声が頭をよぎる。
水瀬 音羽の、
誰にも向けていないはずの声。
――あれに、並ぶんだ。
そう思うと、
自然と、もう一度鍵盤に手が伸びた。
*
学校では、相変わらず彼女と会話はない。
でも、変わったことがひとつだけあった。
視線が、合う。
ほんの一瞬。
それでも、確かに。
廊下ですれ違うとき。
教室で席を立つとき。
お互い、すぐに逸らす。
それでも、何かが違う。
――気のせいじゃない。
そう思える程度には、
僕の心は前に進んでいた。
*
ある日の昼休み。
僕は、意を決して音楽室の前に立っていた。
ドアの向こうからは、何も聞こえない。
静まり返っている。
――今日は、いないか。
少しだけ、ほっとした自分がいた。
同時に、
少しだけ、がっかりした自分も。
そのとき、
背後から足音がした。
振り返る。
水瀬 音羽が、そこに立っていた。
一瞬、時間が止まったような気がした。
彼女も、驚いたように目を見開いている。
――どうする。
逃げる?
誤魔化す?
心臓が、耳元で鳴っている。
それでも。
「……あ」
情けない声が、喉からこぼれた。
音羽は、少しだけ視線を落とす。
「……神崎くん」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸が強く跳ねる。
――覚えてた。
当たり前のことなのに、
それが、妙に嬉しかった。
「……ここ、使う?」
彼女が、小さな声で聞いてくる。
「あ、いや……僕は、その……」
言葉が、うまく続かない。
沈黙が、重くなる。
でも、不思議と、
居心地が悪いわけじゃなかった。
「……歌、好きなんだ」
気づいたら、口が動いていた。
音羽が、驚いたように顔を上げる。
「……聞いたの?」
責めるような響きはなかった。
ただ、戸惑いが混じっている。
「……偶然。カラオケで」
正直に答える。
一瞬、沈黙。
逃げられるかもしれない。
そう思った。
でも。
「……そう」
それだけ言って、
彼女はドアを開けた。
「……入る?」
心臓が、跳ね上がる。
*
音楽室の中は、
少し埃っぽくて、静かだった。
ピアノの前に立つ音羽。
窓から差し込む光が、彼女を照らす。
「……人前で歌うの、あんまり得意じゃない」
彼女は、ぽつりと言った。
「だから、ここにいる」
それ以上、何も言わない。
僕も、何も言わなかった。
それで、よかった。
*
帰り道。
並んで歩くことはなかった。
でも、同じ方向に向かっていた。
距離は、まだある。
それでも、確かに近づいている。
――今だ。
その日の夜、
僕はピアノの前で深く息を吸った。
決めた。
文化祭で、
彼女を誘う。
ただ一緒に演奏したい。
それだけじゃない。
彼女の歌声が、
ひとりきりで消えてしまう前に。
僕は、
隣に立ちたかった。
小さな勇気が、
確かな形になり始めていた。
第6章 誘いの言葉と、試される覚悟
誘う、と決めたはいいものの。
いざその瞬間を想像すると、喉の奥がひりついた。
――文化祭で、一緒に演奏しない?
頭の中で何度も繰り返す。
声に出してみると、思ったより短い言葉なのに、
胸にかかる重さは変わらない。
断られるかもしれない。
いや、それが普通だ。
今までほとんど話したこともない。
いきなり、ステージに立とうなんて。
それでも。
やらなければ、
きっと後悔する。
*
文化祭まで、あと二週間。
ピアノの練習は、正直きつかった。
指は少しずつ動くようになってきた。
でも、感情を乗せる余裕なんて、まだない。
「焦らなくていい」
母はそう言うけれど、
時間は待ってくれない。
それでも、鍵盤に向かう。
音が、少しずつつながっていく。
間違えながらも、
曲の輪郭が、はっきりしてくる。
――群青。
あの歌声と、重なるイメージ。
ひとりじゃない音楽。
それを、どうしても形にしたかった。
*
翌日。
放課後の教室は、文化祭の話題で賑やかだった。
「どのクラスも出し物決まってきたなー」
「ステージ使うところ、結構多いらしいぞ」
そんな会話を聞きながら、
僕は窓際の席に視線を向けた。
水瀬 音羽は、いつも通りひとりで座っている。
でも。
最近、
ほんの少しだけ、雰囲気が違う。
表情が柔らいだ気がする。
気のせいかもしれない。
――今だ。
立ち上がろうとして、
足が止まる。
胸が、苦しい。
逃げたい。
後回しにしたい。
そんな自分を、
ぎゅっと押し込める。
この一歩を踏み出せなければ、
今までの練習も、決意も、全部無駄になる。
僕は、深呼吸して立ち上がった。
*
「……水瀬さん」
声が、思ったより小さかった。
音羽が、ゆっくりとこちらを見る。
視線が合う。
その瞬間、
世界の音が遠のいた。
「……なに?」
彼女の声は、相変わらず静かだ。
「……その、話があって」
周囲のざわめきが、急に大きく感じる。
逃げ場はない。
「……放課後、少し時間もらえない?」
一瞬、彼女は迷ったように目を伏せた。
断られるかもしれない。
そう思った。
でも。
「……うん」
短く、そう答えた。
心臓が、強く跳ねた。
*
放課後。
音楽室。
僕は、ピアノの前に立っていた。
音羽は、少し離れたところで、こちらを見ている。
沈黙。
言葉が、喉につかえる。
――言え。
自分に言い聞かせる。
「……文化祭で」
声が、震えた。
「……一緒に、演奏しない?」
一瞬、音羽は何も言わなかった。
表情が、読めない。
沈黙が、胸に突き刺さる。
「……どうして?」
静かな問い。
正直に答えるしかなかった。
「……あの時、歌を聞いた」
「……カラオケで」
「……すごく、綺麗だった」
音羽は、目を伏せる。
「……私は、人前で歌うの、得意じゃない」
分かってる。
だからこそ。
「……それでも」
言葉を探す。
「……ひとりで、歌わなくていいと思った」
音羽が、少しだけ目を見開いた。
「……私を、試してる?」
そう言って、
小さく笑った。
責めるようでも、
突き放すようでもない。
ただ、確かめるような笑顔。
「……いいよ」
一瞬、理解できなかった。
「……え?」
「……でも」
音羽は、まっすぐ僕を見る。
「……ちゃんと、弾ける?」
その問いは、
技術じゃない。
覚悟を、問われている。
僕は、逃げなかった。
「……練習する」
「……本気で」
音羽は、しばらく僕を見つめてから、
小さくうなずいた。
「……じゃあ、やってみようか」
胸の奥で、
何かが、確かに動いた。
*
それからの日々は、
今まで以上に、濃かった。
放課後、音楽室で合わせる時間。
彼女の歌声と、僕のピアノ。
最初は、うまく合わない。
テンポも、息も。
でも。
少しずつ、
音が、重なっていく。
視線を合わせなくても、
分かる瞬間が増えていく。
彼女は、必要以上に話さない。
でも、笑う回数は、確実に増えた。
その笑顔を見るたび、
胸が、熱くなる。
*
文化祭まで、あと一週間。
不安は、消えない。
でも。
逃げたい気持ちは、もうなかった。
試されているのは、
技術じゃない。
この一歩を、
最後までやり切れるか。
透明だった僕は、
もう、戻れないところまで来ていた。
第7章 すれ違いと、近すぎる距離
文化祭まで、あと三日。
その数字が、頭の中で重くのしかかっていた。
放課後の音楽室。
ピアノの前に座る僕の指は、いつもより硬かった。
「……止めようか」
音羽が、静かに言った。
歌声が、少しだけ乱れている。
「……ごめん」
思わず、そう口にしていた。
彼女は首を横に振る。
「……違う。私も」
短い沈黙。
空気が、張りつめる。
*
合わせの回数は、確かに増えた。
でも、その分、違和感も目立つようになってきた。
テンポのズレ。
入りの呼吸。
ほんの小さな、噛み合わなさ。
それは、音楽の問題だけじゃない。
距離が、近すぎた。
音楽室で、ふたりきり。
放課後の、静かな時間。
視線を合わせると、
胸がざわつく。
言葉を選びすぎて、
逆に、何も言えなくなる。
――前は、こんなじゃなかった。
誘った頃の方が、
もっと自然だった気がする。
*
その日、練習が終わったあと。
「……神崎くん」
音羽が、僕を呼び止めた。
振り返る。
「……本当に、大丈夫?」
何が、とは言わなかった。
でも、分かってしまった。
――演奏のこと。
――それ以上のこと。
「……大丈夫だよ」
反射的に、そう答えた。
音羽は、少しだけ眉をひそめる。
「……無理してない?」
胸が、ちくりと痛んだ。
無理している。
正直、している。
でも、それを認めたら、
全部が崩れてしまう気がした。
「……してない」
嘘だった。
音羽は、それ以上何も言わなかった。
でも、その沈黙が、
何よりも重かった。
*
家に帰ると、
母がリビングで楽譜を整理していた。
「練習、どう?」
何気ない問い。
「……微妙」
思わず、本音がこぼれた。
母は、手を止めてこちらを見る。
「うまくいかない?」
「……音は、合ってきてる」
「……でも、なんか、噛み合わない」
母は、少し考えてから言った。
「それ、音楽の問題じゃないんじゃない?」
胸が、どくんと鳴る。
「……相手のこと、考えすぎてない?」
図星だった。
「……怖いんだ」
僕は、ようやく言葉にした。
「……失敗したら」
「……嫌われたら」
「……全部、壊れたら」
母は、静かにうなずいた。
「それでも、弾くって決めたんでしょう」
優しいけれど、
逃がしてはくれない声。
「音楽はね、失敗を恐れてたら、届かないの」
その言葉が、胸に刺さる。
*
翌日。
学校で、音羽とすれ違った。
目は合わなかった。
いつもなら、
それだけで終わっていた。
でも。
胸が、苦しい。
このままじゃ、
だめだ。
*
放課後、
僕は音羽を追いかけた。
「……水瀬さん」
彼女は、立ち止まる。
「……なに?」
声が、少しだけ冷たい。
でも、逃げない。
「……昨日、ごめん」
言葉を選ばず、
正直に。
「……大丈夫って言ったけど」
「……本当は、怖い」
音羽は、黙って聞いている。
「……失敗したら」
「……水瀬さんに、迷惑かけたら」
「……嫌われるんじゃないかって」
言ってしまった。
音羽が、少し驚いた顔をする。
「……そんなことで?」
小さく、笑った。
「……私の方が、怖いよ」
その言葉に、息をのむ。
「……人前で歌うの、苦手だし」
「……失敗したら、またひとりになる」
音羽は、ぎゅっと拳を握る。
「……でも」
顔を上げ、僕を見る。
「……神崎くんが、隣にいるなら」
胸が、強く打たれた。
「……ひとりじゃない」
沈黙。
でも、さっきまでの重さは、なかった。
*
音楽室での最後の合わせ。
今度は、言葉が少なくても、
音が通じた。
完璧じゃない。
それでも、確かに“ふたり”の音だった。
演奏が終わる。
ふたりで、息を吐く。
「……ありがとう」
音羽が、そう言った。
「……こちらこそ」
自然と、笑っていた。
*
文化祭は、明日。
不安はある。
緊張もある。
でも。
逃げたい気持ちは、もうなかった。
近すぎる距離は、
すれ違いを生む。
それでも、
向き合えば、音は重なる。
透明だった僕は、
誰かと、ちゃんとぶつかることを覚え始めていた。
第8章 文化祭前夜、伝えられない想い
文化祭の前夜は、思っていたよりも静かだった。
教室の飾り付けも終わり、
廊下に貼られたポスターも、
もう誰も直そうとしない。
学校全体が、
明日に向けて息を潜めているみたいだった。
*
放課後の音楽室。
今日が、最後の練習だった。
ピアノの前に座ると、
鍵盤の感触が、いつもよりはっきり伝わってくる。
音羽は、少し離れた場所に立っていた。
制服の袖を、ぎゅっと握っている。
「……始めようか」
僕が言うと、
彼女は小さくうなずいた。
最初の一音。
音が、静かな音楽室に広がる。
不思議と、指は震えなかった。
頭も、真っ白にならない。
音羽の歌声が重なる。
抑えすぎず、
でも、前に出すぎない。
今までで、一番自然だった。
歌とピアノが、
同じ方向を向いている。
――これなら。
最後の音が、空気に溶けていく。
しばらく、ふたりとも動かなかった。
「……うん」
音羽が、静かに言った。
「……大丈夫」
その一言で、
胸の奥に張りついていた不安が、
少しだけ剥がれた。
*
片付けを終え、
音楽室を出る。
夕方の校舎は、
昼間よりも、ずっと広く感じた。
「……明日だね」
音羽が、ぽつりと言う。
「……うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
伝えたいことは、山ほどある。
でも、どれも、今言うべきじゃない気がした。
――終わってから。
そう、自分に言い聞かせる。
*
帰り道。
珍しく、同じ方向だった。

並んで歩くわけじゃない。
でも、距離は近い。
街灯が、ひとつずつ灯っていく。
「……ねえ」
音羽が、足を止めた。
僕も、立ち止まる。
「……もし、失敗したら」
彼女は、前を見たまま言う。
「……それでも、後悔しない?」
胸が、締めつけられる。
正直、怖くないと言えば嘘になる。
でも。
「……後悔するのは」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「……何もしなかった時だと思う」
音羽は、少し驚いたようにこちらを見る。
「……神崎くん、変わったね」
小さな笑顔。
「……前は、もっと、遠かった」
その言葉に、
胸の奥が、熱くなる。
「……ありがとう」
誰に向けてなのか、
分からないまま、彼女はそう言った。
*
家に帰ると、
母がリビングで待っていた。
「明日ね」
それだけ言って、
温かいお茶を差し出してくる。
「……失敗してもいい」
母は、優しく言う。
「でも、自分の音は、ちゃんと出しなさい」
その言葉に、
僕は深くうなずいた。
*
夜。
ベッドに横になっても、
すぐには眠れなかった。
天井を見つめながら、
音羽の横顔を思い出す。
歌っている時の、
真っ直ぐな目。
静かに笑った時の、
少しだけ柔らかい表情。
――好きだ。
もう、誤魔化せなかった。
でも。
伝えるのは、明日じゃない。
音楽が、すべてを終えたあと。
それまでは、
この想いを、胸の奥にしまっておく。
鍵盤に乗せるために。
彼女の声を、
支えるために。
*
目を閉じる。
明日のステージを、思い描く。
暗い客席。
スポットライト。
ピアノの前に座る、自分。
そして、
歌う彼女。
――もう、後戻りはできない。
それでも、
怖くはなかった。
透明だった僕は、
誰かと並んで、
同じ場所に立とうとしている。
それだけで、
十分だった。
第9章 文化祭当日、群青のステージ
文化祭当日の朝は、やけに静かだった。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと変わらないはずなのに、
今日は少しだけ、眩しく感じる。
――今日なんだ。
胸の奥が、きゅっと締まる。
*
学校に着くと、空気がまるで違った。
校門をくぐった瞬間、
聞こえてくる笑い声、呼び込みの声、
どこからか流れる音楽。
教室は、飾り付けで埋め尽くされている。
友達はテンション高く、
いつもより声が大きい。
「悠真、今日ステージだろ?」
「緊張してる?」
軽く肩を叩かれる。
「……まあね」
そう答えながら、
心は別の場所にあった。
窓際の席。
水瀬 音羽は、静かに座っていた。
でも、いつもと違う。
背筋が、少しだけ伸びている。
表情は、硬いけれど、
逃げようとしていない。
視線が、合う。
一瞬。
音羽は、小さくうなずいた。
それだけで、
胸の奥に、熱が広がった。
*
出番は、午後。
それまでの時間が、
やけに長く感じた。
昼を過ぎる頃には、
緊張で、あまり食欲もなかった。
控室代わりの音楽室。
ピアノの前に座り、
鍵盤にそっと触れる。
指先が、少し冷たい。
「……大丈夫?」
音羽が、隣に立つ。
「……うん」
本当かどうかは、分からない。
「……失敗しても」
彼女は、少しだけ間を置いて言う。
「……途中で止まっても」
「……私、歌うから」
その言葉に、胸が震えた。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
*
ステージ裏。
照明が落とされ、
客席のざわめきが、遠くに聞こえる。
名前が、呼ばれた。
「次は、二年○組、有志発表――」
心臓が、強く鳴る。
足が、少し震えた。
でも。
音羽が、隣にいる。
それだけで、
立っていられた。
*
ステージに出る。
客席は、暗い。
誰がいるのか、よく分からない。
スポットライトが、
ゆっくりと灯る。
ピアノの前に座る僕。
マイクの前に立つ、音羽。
会場が、静まり返る。
――始まる。
深呼吸。
最初の一音。

鍵盤を叩いた瞬間、
不思議と、恐怖は消えていた。
音が、まっすぐ前に伸びていく。
音羽の歌声が、重なる。
群青。
夜明け前の空のような、
深くて、切ない色。
彼女の声は、震えていなかった。
ひとりで歌っていた時よりも、
ずっと、強い。
ピアノと歌が、
互いを支え合う。
途中、指が少しだけもつれた。
――でも。
止まらない。
音羽が、歌い続けている。
僕も、続ける。
完璧じゃない。
それでも。
確かに、届いている。
客席の空気が、変わるのを感じた。
ざわめきが消え、
ただ、音だけが残る。
最後のフレーズ。
音羽の声が、
高く、まっすぐ伸びていく。
そして――。
最後の和音。
音が、静かに消えた。
数秒の、沈黙。
そのあと。
拍手が、波のように押し寄せた。
大きくて、
温かい音。
胸が、いっぱいになる。
隣を見る。
音羽は、目を見開いたまま、
少し信じられないような顔をしていた。
そして、
ゆっくりと、笑った。
*
ステージを降りると、
一気に力が抜けた。
「……終わったね」
音羽が、そう言う。
「……うん」
声が、少し震えていた。
「……楽しかった」
彼女のその一言で、
すべてが報われた気がした。
*
文化祭は、あっという間に終わった。
片付けを終え、
校舎を出る頃には、
空はもう、夕暮れ色だった。
校門の前。
人も、だいぶ少ない。
「……一緒に、帰ろ」
音羽が、そう言った。
僕は、うなずいた。
*
並んで歩く帰り道。
夕焼けが、街を染めている。
不思議と、言葉は少なかった。
でも、沈黙は、重くない。
「……ねえ」
音羽が、立ち止まる。
「……どうして、私を誘ったの?」
その問いは、
ずっと、来ると分かっていた。
逃げない。
もう、逃げない。
「……このままじゃ、いけないって思った」
「……水瀬さんの歌を聞いて」
「……ひとりで、抱え込まなくていいって」
言葉を、選ばなかった。
「……それに」
一度、息を吸う。
「……好きだった」
音羽は、驚いたように目を見開く。
でも、すぐに、
柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
その声は、
あの歌声と同じくらい、優しかった。
胸の奥が、熱くなる。
――もう、昨日までの僕じゃない。
透明だった僕は、
ちゃんと、声を出した。
届いた。
それだけで、
十分だった。
第10章 昨日までの透明な僕じゃない
「……好きだった」
言ってしまった。
言葉は空中に放り投げられて、戻ってこない。
心臓が、うるさい。
手のひらが、汗ばんでいる。
水瀬 音羽は、目を見開いたまま僕を見ていた。
夕焼けの光が彼女の瞳を揺らして、
表情の輪郭を少しだけ曖昧にする。
――もし、困らせたら。
――もし、嫌だったら。
不安が喉元まで押し上がってきて、
言い直したくなる。
「今のは忘れて」
「冗談だよ」
そんな逃げ道が、頭の中で何度も点滅する。
でも。
僕は、もう逃げないと決めた。
指先が震えていたけれど、
足は動かなかった。
「……神崎くん」
音羽が、静かに僕の名前を呼ぶ。
その声は、学校で聞くより少しだけ柔らかい。
けれど、歌っている時みたいに強くもない。
彼女は、言葉を探しているみたいに視線を落とした。
沈黙が、長い。
僕は呼吸の仕方を忘れそうになりながら、
ただ待った。
「……どうして」
ようやく、彼女が言った。
その声は、かすかに揺れていた。
「……どうして、私に」
質問の続きが、すぐに来ない。
まるで、問いを口にすること自体が怖いみたいに。
僕は、少しだけ首を振った。
「……僕にも、最初は分からなかった」
正直だ。
きっかけは偶然で、
決意は勢いに近かった。
「でも、水瀬さんの歌を聞いた時」
あの日の、廊下の空気。
壁の向こうから届いた声。
「……胸が、苦しくなった」
「綺麗で、でも、どこか寂しくて」
「このまま知らないまま終わったら、僕、後悔するって思った」
音羽は、黙って聞いている。
「だからピアノを始めた」
「隣に立ちたかった」
ここまで言うと、胸の奥が熱くなる。
恥ずかしい。
でも、それ以上に。
言えてよかった、と思った。
「……今日、ステージで」
僕は続けた。
「水瀬さんが歌った瞬間」
「僕、すごく嬉しかった」
音羽が、わずかに目を伏せる。
「……私ね」
彼女が、ぽつりと言った。
「昔から、歌うのは好きだった」
「でも……好きなのに、怖かった」
夕焼けの中で、彼女の声はやけに小さく感じる。
「上手いって言われると、余計に怖くなる」
「期待されるのが、怖い」
「失敗したら、全部壊れる気がして」
僕は、その言葉の重さを想像する。
“孤独”というより、
“守りたいものがあるからひとりでいる”みたいな孤独。
「だから、ひとりで歌ってた」
音羽は、ほんの少し笑った。
「……誰にも、聞かれないように」
胸が、痛くなる。
でも、同時に思う。
そのひとりの世界に、
僕は入れてもらえたんだ、と。
「……神崎くん」
音羽が顔を上げる。
「私の歌を、ひとりじゃない場所に連れてってくれたの、初めて」
その言葉が、胸のど真ん中に落ちた。
「……ありがとう」
その声は、拍手よりも、
何よりも温かかった。
僕は、思わず笑ってしまう。
「……こっちこそ」
ふたりで笑うと、空気が少しだけ軽くなる。
でも、次の一歩は、まだ残っている。
僕が言った「好き」は、
返事のないまま宙に浮いている。
心臓がまた、早くなる。
音羽は、僕の視線に気づいたのか、
少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……私」
彼女の声が、ほんの少し震える。
「……恋とか、よく分からない」
その言葉に、胸が沈みかけた。
でも、音羽は続ける。
「でも……神崎くんといると」
「……逃げなくてもいい気がする」
僕は、息を止めた。
「神崎くんのピアノ、最初はすごく下手だった」
唐突な暴露に、僕の頬が熱くなる。
「ご、ごめん……」
「違う」
音羽は、小さく笑った。
「下手なのに、やめなかった」
「怖いって言いながら、逃げなかった」
「……それが」
彼女は胸の前で指を握りしめ、
まるで言葉を落とさないように、慎重に続ける。
「……嬉しかった」
その言葉を聞いた瞬間、
僕の中の何かが、ふっと軽くなった。
返事は「好き」じゃない。
でも、十分だった。
いや――。
それでも、僕は前に進みたい。
「……水瀬さん」
僕は、もう一度、ちゃんと呼んだ。
「今すぐじゃなくていい」
「でも、これからも」
「……一緒にいたい」
音羽は、少し驚いた顔をしてから、
ゆっくりとうなずいた。
「……うん」
たった一音。
でも、世界が明るくなるみたいだった。
僕は、笑ってしまう。
「……じゃあさ」
「また、歌ってよ」
「今度は、誰にも隠さないで」
音羽は、少しだけ目を細める。
「……神崎くんが、弾いてくれるなら」
その言い方がずるくて、
胸がまた熱くなる。
並んで歩き出す。
夕焼けが夜に変わっていく帰り道。
足音がふたつ、同じリズムで響いている。
まだ、何かが劇的に変わったわけじゃない。
でも。
僕はもう、昨日までの透明な僕じゃなかった。
補完章
朝から、胸の奥が落ち着かなかった。
目が覚めた瞬間から、
今日は「特別な日」だと、体が理解していた。
文化祭。
ステージ。
人前で歌う。
全部、今まで避けてきたこと。
制服に袖を通しながら、
鏡に映る自分を見る。
表情は、いつもと同じ。
静かで、感情が分かりにくい顔。
――大丈夫。
何度も、そう言い聞かせる。
でも、心臓は正直だった。
*
学校に着くと、
いつもより騒がしかった。
廊下を歩くだけで、
知らない人の声がたくさん聞こえる。
少し、息が苦しくなる。
教室に入ると、
神崎くんがいた。
彼は、いつもより落ち着かない様子で、
何度も窓の外を見ている。
……緊張してる。
それが、分かってしまって、
少しだけ胸が軽くなった。
ひとりじゃない。
そう思えた。
*
控室の音楽室。
ピアノの前に座る神崎くんの背中を、
私は少し離れたところから見ていた。
最初にここで歌っていた頃、
私はいつもひとりだった。
誰にも聞かれないように。
誰にも見られないように。
歌は好き。
でも、人前は怖い。
期待されるのも、
評価されるのも、
失敗するのも。
全部、怖かった。
だから、ひとりを選んだ。
でも。
神崎くんは、
私の歌を「ひとりじゃない場所」に連れてきた。
それが、嬉しくて。
それが、怖くて。
でも――。
逃げたくなかった。
*
「……大丈夫?」
私が聞くと、
彼は少しだけ笑った。
「……うん」
本当かどうかは、分からない。
でも、
少なくとも逃げようとはしていない。
それだけで、十分だった。
*
ステージ裏。
照明が落ちて、
客席のざわめきが遠くなる。
名前が呼ばれる。
足が、少し震えた。
――やっぱり、怖い。
人前に立つのは、
何度経験しても慣れない。
でも。
隣を見る。
神崎くんが、そこにいる。
ピアノを弾く手は、
ほんの少し震えている。
でも、逃げていない。
私も、逃げない。
*
スポットライト。
視界が、白くなる。
客席は暗くて、
誰がいるのか分からない。

それが、少しだけ救いだった。
ピアノの音が、響く。
最初の一音。
――あ。
音が、違う。
今までで、一番落ち着いている。
私の呼吸と、
神崎くんのピアノが、
ちゃんと同じ場所にある。
歌い出す。
声が、震えていない。
不思議だった。
ひとりで歌うより、
ずっと怖いはずなのに。
なのに。
心は、静かだった。
ピアノが、支えてくれる。
私が揺れたら、
音で、引き戻してくれる。
――ひとりじゃない。
それが、こんなにも強いなんて。
*
途中、
彼の指が少しもつれた。
でも、止まらない。
私も、止まらない。
ふたりで、続ける。
完璧じゃない。
それでいい。
私は、評価されるために歌っていない。
この音を、
この時間を、
一緒に作るために歌っている。
*
最後のフレーズ。
声を、前に出す。
怖さは、もうなかった。
音が、空気に溶けていく。
最後の音が消えた瞬間、
一瞬の静寂。
そして――拍手。
大きな音。
温かい音。
胸が、いっぱいになる。
……ああ。
歌って、よかった。
隣を見る。
神崎くんが、こっちを見ている。
少し驚いた顔で、
でも、ちゃんと笑っている。
私も、笑った。
自然に。
*
ステージを降りたあと。
「……楽しかった」
気づいたら、そう言っていた。
本音だった。
こんな気持ち、初めてだ。
*
帰り道。
夕焼けの中で、
彼は、私に「好きだ」と言った。
驚いた。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ――。
嬉しかった。
私は、恋が分からない。
でも。
逃げなくてもいい場所が、
ひとつ増えた。
それだけで、
十分だった。
*
歌は、
ひとりで完結しなくていい。
群青の空は、
夜明け前が一番深い。
でも、
誰かと並べば、
その深さは、怖くない。
私は、もうひとりじゃない。
あのステージで、
それを知った。
エピローグ 群青の、その先へ
文化祭が終わった次の週。
学校は、驚くほどいつも通りだった。
机の上には教科書。
黒板には板書。
テスト範囲のプリントが配られる。
“特別”は、あっという間に日常へ溶けていく。
でも、ひとつだけ違うことがあった。
昼休み。
僕が弁当を持って席を立つと、
窓際の方から、静かな声がした。
「……神崎くん」
振り返る。
水瀬 音羽が、こちらを見ていた。
教室のざわめきの中で、
彼女の声は相変わらず小さい。
だけど――。
僕の名前を呼ぶ、その一歩が、
信じられないくらい大きいことを知っている。
「……なに?」
僕が笑うと、音羽は少しだけ視線を落とした。
「……一緒に、食べない?」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
周りの視線が、少しだけ集まるのが分かった。
でも、音羽は逃げなかった。
僕も、逃げなかった。
「……うん」
そう答えて、窓際の席へ向かう。
ふたり分の距離が、
ほんの少しだけ近くなる。
弁当を広げる。
沈黙があっても、
それはもう、寂しい沈黙じゃない。
「……ねえ」
音羽がぽつりと言う。
「群青、またやりたい」
僕は笑った。
「文化祭終わったのに?」
「……終わったから」
音羽は、窓の外を見て言った。
「……今度は、もっとちゃんと」
「……歌いたい」
その横顔は、少しだけ強く見えた。
「じゃあ、僕ももっと練習する」
「うん」
短い返事。
でも、その一音が、
確かに未来へ続いている。
放課後。
音楽室へ向かう廊下。
音羽はいつも通り静かに歩いている。
でも、ひとりじゃない。
僕が隣にいる。
ドアを開けると、
ピアノの匂いと、夕方の光。
椅子に座り、鍵盤に指を置く。
音羽が息を吸う。
最初の一音。
群青の、その先。
僕たちの音が、
また始まった。
