私は暗い階段を一人で登っていた。
もう何階を登ったのかも覚えていない。階段の踊り場を曲がるとやっと目的のドアに着いた。
ノブを回してみる。なんの抵抗も無く回りドアを開けることができた。
ネットの情報通りだ。外に出ると風が強く私の長い髪を巻き上げて目の前が見えなくなる。髪が風でボサボサだ。でも今の私にはどうでもいい事だった。
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何も考えずに歩いている。コンビニに行くようにそこには躊躇いはなかった。
このビルの屋上はフェンスが低く、街並みの灯りが輝いて見える。
気付いたら泪が流れていた。この感情はなんだろう。私にまだ泪が出る力があるなんて。
私はフェンスの下を見た。ネットの口コミ通り高さは十分な気がした。これで最期だ。私はフェンスを乗り越えようと手をかけた。
「肉まん食べるか?」
自分の耳を疑ったと言うより、ここに来て邪魔が入ったことに心底ついていないと思っていた。
「そんな危なっかしいとこに突っ立ってないで、肉まん食べないか。うまいぞ。コンビニのやつだけど。」
私はゆっくりと振り返った。そこにはいかにも〝おじさん〟が立っていて白いビニール袋に片手に小さい紙袋を持っていた。
「さっき最後の晩餐は終わったわ。ファミレスのドリンクバーにパサパサのケーキだったけど。」
「寒いだろ。肉まんあったかいから。ほら。」
おじさんは私の話を無視して話してくる。
「おじさん。私がこれから何をしようとしてるかわかってるの?」
「飛び降りだろ。わかってるよ。それと肉まんを食べるのは別だろ。」
変わったおじさんだ。邪魔が入った事を悔やんでもしょうがない。計画を諦めるしかないのか。適当にあしらっていなくなってからでもいいだろう。
私はフェンスから離れるとおじさんの方に歩いて行った。おじさんは近くの青いベンチに座った。
私がおじさんの前に行くと、相手はスッと袋を出してきた。受け取るとその袋から温もりを感じた。
「食べる時は座って食べなさいて親に言われなかったか?」
私は忘れていた憎悪がよみがえってきた。あいつのせいだ全てはあいつが悪いんだ。
憎しみでどうにかなりそうだった。
「ほらほら。」
おじさんはベンチの端による仕草をした。私はその時どんな表情をしていたんだろう。隣に座っても黙っていた。
「辛かったんだろ。そりゃそうだろうよ。死のうとしていたんだから。」
私は黙って下を見ていた。
「別にやめさせようとしているわけじゃない。説得なんて俺にはできそうもないからな。」
「ただ。話は聞いてあげられる。相槌ぐらいは俺にもできるから、なんか話したいことがあったら話してくれよ。」
「娘がいないからと言うより、結婚してないから奥さんもいない。歳はとってもいつまでも大人になれない。欠陥だらけの大人だけどな。」
欠陥だらけ。私もそうかもしれない。何をやっても上手くいかないし、友達に裏切られ学校に行けなくなった。母親は毎日にように怒鳴り、無理やり連れて行こうとする。父親は見て見ぬふりをして、関わろうとはしなかった。
毎日が喧嘩。辛い毎日。
「誰も私の存在を認めてくれない。」
私の口から出た言葉はそれだけだった。
「そうか。そうか。辛かったのは君だから俺にはわからない。でも辛かったということは共有できる。」
「そんなことは無いよ。気のせいだよ。気にしすぎ。勘違いじゃない。そんな言葉なんて傷ついた気持ちには何の意味もない。ただの文字だ。」
「辛いと思っているのは本人だし。助けてもらえないのも本人だから。」
「世の中。学生は生き辛い。親とぶつかり。学校でのイジメ。ネットでもイジメにあう。学校の成績。容姿。性格。時には妊娠してしまい一人で悩んでいる子だっている。」
「そして。」
おじさんはそこまで言うと話すのをやめた。
私はおじさん方を見た。おじさんは空を見上げていた。そして私の方を見ると。
「自分の存在価値を見つけられない。だろ。」
「10人いると10人とも感じることも、考えることも違う。自分の存在は他人と一緒ではない。自分は自分で他人のものでもないし。他人の思い通りに動くことともない。」
おじさんは自分だけ話しているのに気づいたように。
「ゴメン。偉そうなこと言っちゃったな。大人はダメなんだよ。自分の経験で正しいと思ったことを子供に押し付ける。子供の人格はお構いなし。物凄く我慢していることを親や周りは理解してあげないといけない。」
「でもこの世の中、沢山の子が自分で命を絶っている。その事をニュースはただの数字で表しているだけで、どうすればいいかなんてどこの番組を見ても、ネットを這いずり回っても答えはわからないんだよ。」
「助けてよ。私はここにいる。」
そんな声も聞こえないふりをしている。
「周りは敵ばかり、足の引っ張り合いだよ。大人も同じなもんだけどな。」
「一方的に話すぎて。引かれちゃったかな。」
おじさんは頭を掻いていた。
少なくてもこのおじさんには私の敵ではないような気がした。
「私は周りに理解して欲しかった。でも次第に自分自身も私の事を理解できなくなってきたわ。」
「そして、先の道が見えなくなってしまった。気づくとネットで飛び降りる場所を探していたの。そしてここに来たわ。全てを何も無かったことにするために。」
「そうだったのか。」
目の前のおじさんは私の事をどれだけ理解してくれたかは、わからなかったけど。
人に会って自身の事を話すことは初めてだった。SNSでひとりでからだと心の毒を出していても、どれだけの人が親身になってくれたかわからない。結局はみんな距離をとって離れていった。
「なんだよ。まだ食べてないのか。冷めちまうだろ。」
おじさんは私が持っている紙袋を指さして言った。別に食べたいわけでは無いけど、目の前のお節介なおじさんが食べないと許してくれなそうなので仕方なく口に運んだ。
まだ。温かかった。
「まだ。温かかったか?温度を感じると言うことはまだ体は生きたいと思っているだよ。懸命に心臓を動かしているだよ。止めちゃダメだよ。」
なぜだろう。悲しい気持ちは変わらないのに泪は温かさを感じた。
そして、私は慟哭していた。いつも我慢していた。我慢して泣くのをやめていた。
でも今。周りを気にすることなく、自分自身の声で泣いていた。
どれだけ泣いたのだろうか。その間おじさんは黙って横に座って私が泣き止むのを待っててくれた。
泣き止むと急に恥ずかしくなってきた。声をあげて泣いた自分に。
「泣くことはいい事だ。でも笑うことの方がもっといい。」
「おじさんと約束してくれないかな。君の今生きている世界はまだ狭い。高校という箱は君には狭すぎる。卒業するまで生きてくれないか。その先に幸せがあるとは限らない。でも可能性にかけてほしい。今全てを終わらせるのではなく。これから広くなる世界にかけて欲しい。今の自分の居場所はないかもしれない。でも存在してほしい。そしてできれば自分の足で小さな一歩で前に進んでほしんだ。」
「出来ないわそんな事。私には無理よ。」
「初めは無理と思ってもいい。他人の目なんか気にするな。他人の都合のいい様に生きるな。自分だけの為に生き延びれくれ。君なら絶対できるよ。」
正直そんな事を言われても結局は、面白半分のネットでの反応と同じで私の前からいなくなると興味もなくなり忘れてしまう。きっとそうに決まっている。
いきなり前向きに生きろと言われても無理な話だ。
私はまた目線を下に落とした。
なんだろうこの違和感は。今はいろんな気持ちが入り混じって理解ができなかったが、やっぱりそうだ。このおじさん。靴を履いていない。
「おじさん。なんで靴履いてないの?」
この雰囲気の中、私はなぜか聞いていた。
おじさんはハッとしたようで、バツが悪そうに指を横に向けた。
そこには、クタクタになった。靴がフェンスの近くに揃えて置いてあった。
しばらく沈黙の後、私はおじさんに言った。
「これからおじさんどうするの?」
それが正しかったかはわからないけど。ことばにしていた。
「偉そうな事を言った手前もあるからなー。」
おじさんは鼻をかきながら答えに困っていた。
「おじさんの約束を出来るだけ頑張るから、おじさんも私と約束しない?」
「私の為に生きて。もう下に降りたら会うことはないと思うけど、約束して。」
「ああ。約束するよ。」
「じゃ。下に一緒に降りましょ。」
2人で暗い階段を降りて行く。地上の外に出るとパトカーが数台止まっていた。
その車から今一番会いたくない人が出てきた。母親だった。母親の手には私が最後の言葉を書いた紙切れが握られていた。どれだけ握っていたのか。紙はヨレヨレだった。
母親は私を抱きしめると、ただただ泣いていた。父親も会社から帰ったままなのか、スーツを着たままだった。父親は泣き止まない母と私の肩に手を触れると。
「自分たちが取り返しがつかない事をしていことに気つけなかった。自分たちはいい親ではなかった。でもこれからは少しずつでも助けになるように頑張るよ。もう一度チャンスをくれないか。」
私はすぐには答えを出せなかった。
「約束守れよ!」
おじさんが声をかけてきた。
悩みは直ぐには消えることはないだろう。でもあの屋上で共有した時間は確かに存在した。
私は弱々しくうなづいた。
両親は警察官としばらく話をしていたが、私の所に戻ってくると。
「家に帰ろう」
それだけを言った。今はそれだけしかない家族の絆かもしれない。
でも、私は思った。生きて地上に降りてきたことに後悔はない。